この森を抜ければ。

「この森を抜ければ、きっと全てが上手くいく」

先の捻れた棒きれを左手に、男は枝葉を打ち払いながら歩いていた。

棒きれと、背負った雑嚢以外は、枯れ葉のように薄い衣服を身に着けた男。彼は時折背後を振り返りながら薄く笑っている。

男の頭の中にはその言葉が、猛禽類の鳴き声のように森のどこかから響いていた。

そう。

「この森を抜ければ、きっと全てが上手くいく」

足の裏にできた肉刺を靴底ですりつぶす痛みも、虫に食われて黒くなった右腕のむず痒い痺れも、頭の後ろに感じる獣の視線も、口内に広がる砂漠のような喉の乾きも、鈍く訴えかける空腹も、空腹よりも強く感じる胃の冷たさも、頬を伝って滴り落ちる得体のしれない涙だって。

雑嚢の位置を気にして何度も背負い直し、振り返っては笑みを浮かべ、ふと頭をよぎっていくのは例の呪文。

「この森を抜ければ、きっと全てが上手くいく」

 川底の藻を探るように、深緑に覆われた闇の中へ手にした棒切れを突き刺しては引き寄せて、体を前に前にと滑らせる。男は時折笑う以外はまるで呼吸の一つすらしていないかのように、物音も立てず歩いていた。平らな川面を笹舟が往くように淑やかに、けれど隆起した根の複雑な文様を豪胆に乗り越えて。

 その足取りにはおおよそ澱みというものがなく、偏りというものがない。

普通、雑多に木の茂る森の中を歩いたならば、立ち塞ぐ一本の木を避け、横臥する倒木を迂回しているうちに否応なくその進路は歪み蛇行し、ことによれば斜めに生える木々や、かと思えば、時折規則的に並んだ木々に平衡感覚を乱され、挙げ句にはもと来た道をそれと知らずに辿ったりするものである。

 このようにして深い森は帰らずの森などと呼ばれ、人はそれを生活からは遠ざける。

 にもかかわらず、彼は森を恰も何ら遮る物のない、平坦な野原であるかのように真っ直ぐ進む。それにしたところで、常ならば左右の足の踏切の強さの違いによって、より勢いのついた片輪を回すように大きな円を作るのが関の山だ。

 しかし、彼はひたすら真っ直ぐに、それどころか枝葉を広げることもしない舗装された一本の街道であるかのように歩いて、時折振り返ってはただ薄く笑った。

「この森を抜ければ、きっと全てが上手くいく」

 男は森を進む。

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