階段。

 目が覚めると僕は階段の真ん中に横たわっていた。

 いや、真ん中、というとちょっと違うかも知れない。でも、とにかく僕は階段の真っ只中に横たわっていて、今さっき目が覚めたばかりだった。

 ベッドで寝ていたのに死体安置所で目を醒ましたような心地だ。

 僕は首を横に回して左手側、階段の上りの方を見上げた。いくつかのブロックが積み上げられてできたように簡素な石段。僕から数えて一段目の構成材は大きく、背負うように重ねられた二段目はそれより少し小さく、三段目は更に小さくなって見えた。

 僕から離れれば離れるほど、積み上げられれば積み上げられるほどに、針の先のように小さく小さくなっていく階段の果ては、目を凝らしても見えない。僕から見て一番小さなブロックが果たしてどこにあるのかなんて見当もつかない程に、上へ上へと、天の奥深くへと階段は続いているらしかった。

 右手側。下りの階段は大きなブロックが小さなブロックを虐げるようにして下へ下へと続いていて、やはり終点は見えない。

 右手側にも、左手側にも、階段は無限に続いているように思える。だから、きっとここが真ん中だ。というのは都合のいい解釈だと僕は思うのだが、でも、実際のところ僕には分からなかった。

 もし仮に、ここが階段を登って少しの、ほんの少しのところだったとしよう。

 僕は例えば飲み会の帰りに、酔っ払って「あぁ、いつもより飲みすぎてしまったな、しまった。おや、ここに丁度いい階段があるじゃないか休んでいこう」と、ふわふわとした心地のまま、折角だから少し登ってからと、徐に横たわり、そして眠りに入った。

 そんな状況だったとしたなら、ここはまだほんの序の口だ。下りるに易く、上るに難し。僕はきっと迷わずこの階段を下りて、もとの平坦な生活に戻っていくだろう。

 或いは逆に、ここが八合目だったとする。深夜、小腹を空かせ、コンビニを求めて登った階段。しかしその道程は思いの外過酷で、不甲斐ないことこの上ないが、僕は力尽きてここらでしばし休息をと野宿を決意。その甲斐あって体力もしっかりと回復した。ならば僕は、今からここを登っていくのが最適解だろう。

 どちらに足を踏み出すのも吝かではない。

 しかし、どうだろう。ここは世界の真ん中で、天からも地からも離れた中途半端な場所にいる。そして何よりここで眠る前のどちらの姿も僕には想像できなかったのだ。

 そんなとき果たして上を目指す方が自然なのか、下を目指す方が無難なのか。僕には見当もつかないし、きっと両親や先生、上司にも教わった記憶はない。もちろん神様にもだ。

 少なくとも今、どちらを目指すべきなのか咄嗟には選ぶことができない。

 きっと時間があれば選べる。と、思う。

 でも、これは果たして時間をかけて選ばなければならないことなのだろうか。こういうのは寧ろよく考えなくても直感的に、山頂の鉄塔に雷でも落ちるようにして、行くべき場所が瞬時に分かるものなのではないだろうか。

 自分が上に行くべきか下に行くべきかなんてものに真剣に頭を悩ませて考える必要があるのは、歳の近い兄と二段ベッドを取り合う時くらいのものだろう。

 ところが胸に手を当ててみても、僕が男か女かということほど直感的に、その答えは出てこない。

「僕は男だ。だから上る。」

 そう簡潔に思いきれたのなら僕はもうここから起き上がり、それどころか、立ち上がって階段に足をかけている。いや、少し前屈みになってもう登っているだろう。もしかすると、階段の真ん中じゃなくて既に階段のクライマックスに差し掛かっているかも知れない。一歩一歩積み重ねるごとに高揚感を煽るBGMが高まる気配すら漂っている。そうだ、ここが正念場。あと少し登ったらもう頂上だがしかし、そこでふと思うのだ。

 いや、待てよ。

「僕は女かもしれない。だからやっぱり下りよう」

 僕の体は途端に裏返り、前が後ろに、後ろが前に入れ替わる。つま先になった踵で、一つ下の段を踏み始めると、そこからは順調に位置エネルギーを膝で運動エネルギーに変換していく。忙しく足を振り下ろしながらも、お淑やかに粛々とを心がけなければならない。これだけ長い階段だ、踏み外したらどうなることだろう。降りるときは上るときより、より一層慎重になるべきだ。

 いや、待てよ。

 だとすれば同じではないのかも知れない。踵とつま先。男と女くらい違っても良いのではないだろうか。人間という一つのカテゴリーにあっても、きっとそれは対極だ。天と地ほども違うのではないだろうか。

 真ん中にいることで、ついつい上るも下りるも同じことのように考えていたが、そうでは無い。そして真ん中に居たとしても、その少し下に居たとしても比重は下りるほうが、ひょっとすると難しいのでは無いだろうか。

 ならば答えは簡単だ。

 この階段を僕は上るべきだ。難しいことを難しいと分かっていてわざわざやる必要はない。簡単ならば簡単な方を可能な限りやるべきだ。難しいことはできる限りしたくないと思うのも道理だろう。

 僕は、そう思い至るとすぐさま起き上がった。

 そして目の前には女がいた。

 女は僕に足を向けて、ちょうど僕と鏡合わせに足の裏を重ねるような格好で、或いは足の裏に立つようにして、僕の足もとで先程までの僕と同じように眠っているらしかった。

 すやすやと、寝息を立てたりはしていない。でも多分、死んでもいないことはわずかに上下する胸の動きを見て分かった。

 頭が重くなるのを感じた。

 僕はこの女に首の裏に生えた毛のように見覚えがなく、起こしたほうが良いのか、そのままにしておいたほうが良いのか判断に迷った。

 もし下手に触れてしまうと、目覚めたばかりのこの眠り姫、と言うには少しばかり華の無いこの女に、あらぬ疑いをかけられてしまうのではないか。

 そう思ったからでは無い。

 そう思われたくなければ、もう一度僕は眠り、今度は女が先に目覚める状況を演出するか、或いは眠ったふり、更に万全を期すならば死んだふりでもすればいい。そうすれば、僕の陥っている状況をそっくりそのまま彼女に押し付けることができて、最高だ。

 けれど判断に迷っている時間は無かった。女は何を思ったか、いや眠っているのだから何も思ってないのだろうが、寝返りを打ったのだ。

 右に寝返りを打ったのなら、彼女の右側は階段だから階段に肩を打つくらい済んだのだろうが、そうではない。

 彼女の体は左に向かって旋回し、するりと寝返りを打った。

「あ。」

 と言う間に、女の体は僕の足の裏から離れすぐ下の段に左肩を打つ。

 しかしそれだけではエネルギーを殺しきれなかったらしい。一度で収まるはずだった寝返りの回転力は落下の勢いが乗って加速する。石炭が過熱し走り出した機関車のようだ。

 次の瞬間にはもうその段を後にしていた。彼女はどんどん下へ下へと進んでいる。しかも眠ったまま。或いはそのまま漠然とした終わりに向かっていくのかも知れない。

 僕は立ち上がる間もなく、駆け出した。

 彼女が下に行ったのなら、僕は上に行くべきだ。

 そんなアイデアが頭の中に浮かぶのは、もう足もとの石段に足をかけた後だった。

 僕は階段を降りた。

 一段一段しっかりと踏みしめている余裕は無い。転がり続ける彼女に追従した僕は転げ落ちるような勢いで駆けるしかない。彼女の体の方も一段一段丁寧に体をぶつけていくような真似はしていない。

 大に小に弾みながら、時には、当たりどころが良かったのか十段ほど飛び跳ねていることさえある彼女は、躊躇っているうちにすぐ見えなくなってしまうだろう。

 走り続けなければ。でもどうやって追いつけば良い? 少しずつ離れていく僕と彼女との大きな隙間はどうすればなくなるのだろう。隙間とはなんだ。何のつながりもない僕らは引き合うこともなく、関わることもない。僕はすぐにでも引き返したら良い。どうすることが最適かなんて僕には知る由もないが、この距離はどんな必然性もなく、たまたま立ち寄った街路樹の梢にとまっていた鳥が飛び立つのを追いかけるのと同じことではないだろうか。

 近くに見えて遠くにあり、住む世界なんて天と地ほども違っているじゃないか。しかし彼女は地の底を目指し、僕は天を目指そうとした。目指そうとした。なんて、そんな積極的な志ではない。そうするのが楽だと思った僕は体を起こし、深く沈めた意識の底に何を思ったのか寝返りを打った彼女は落ちていくのだ。そして僕はさしずめ心を打たれたのだろう。飛び発つ小鳥の羽撃きに。飛べもしない僕は犬のように飛ぶ鳥を追いかける。手も出せないし、大きな声で吠えたとしても彼女には伝わらない。呼びとめることもできない、抱きとめることもできない、だから今は走るしかないのだ。

 僕は何度も足と思考を踏み外しながら、けれどしっかりと今いる場所より下の段を踏んで前に進む。下に落ちる力を速度に変えて、僕の体は前に前に進む。いつしか彼女はほとんど鳥になって空を飛んでいた。十や二十どころではない。百や二百段ほどの高さとその十倍近い距離を跳んでいて、下に向かっているはずなのにその軌道は波打ちながら俄に上へ行ったりしながら下に向かった。

 なかなか落ちてこないときもあるせいで、時々僕はついうっかり彼女を追い越してしまった。僕の方が前に出てしまう。それは容易に彼女に追いつけるということのように思えるのだが、彼女と僕の住む世界は時が経つにつれて乖離する。

 彼女が体を地上に落とす時間と回数はどんどん小さくなっていた。

 片や僕は速度を落とそうにもどこの段をどう踏めば良いのか、より最適な答えを計算してみても答えが出る頃にはその交差点ははるか後方にあって、速度を緩めるために余計な力が入ってしまった結果より一層速くなる始末。

 僕と彼女の見かけ上の距離は小さくなっても、速度と波長が合わなければ無限にすれ違い続ける。依然、彼女とは近づいたり離れたり、追いついたり追い越したり、海王星と冥王星の軌道のような状況が続いていた。

 しかし一瞬だけ奇跡が起きた。僕の速度と彼女の波長がうまく噛み合った。それは願ってもないチャンス。だというのに、僕はそれを感じ取ることができなかった。死角に居たのだから、見失ってしまったのだから仕方がない。そう割り切るには惜しいことをした。

 悔やんでも悔やみきれない。

 その星のめぐりのような奇跡に際して僕らの身に起こった衝撃は、彼女の体と僕の主に後頭部との間で、僕にとっては密やかかつ盛大に発生した。そして転げそうになった僕が咄嗟に体を跳ね上げてしまったが為に、彼女は生きたロイター板を踏みしめて妙に高く舞うという結果を生み出して収束した。

 無論、運命の糸も彼女の手足や髪の毛一本さえも掴むことなく。

 けれどそのせいか、彼女との周期は不思議と合うようになった。

 これまで大小含めておおよそ二百五十八回くらいのニアミスがあった。どれもあと一歩のところだったし、六回に一回は体にも触れている……、感触がある気がする。いや、それどころか腕を大きく伸ばして抱き込んだ時にようやく髪を掴んでいたこともある。

 そして捉えきれずに高速回転する彼女の髪をごっそりと引き抜いてしまった。

 果たして彼女は赦してくれるだろうか。もしかすると後何回か掴むと、彼女の髪はまったく無くなってしまうかも知れない。

 寝返りを打つ前、少しの間だけ見た彼女の髪は豊かに長く、穏やかそうな印象だったが、回転する勢いは静電気を帯びる竜巻のように激しい。今となってはそれも残り僅かなのかも知れない。服も石段に引っ掛けて破けているのか、黒い筋の入った大きな桃に見える。

 時が経つにつれ、彼女に触れられる面積は減り、毛髪とともに確率は次第に減っていくように思えた。やがてそれはゼロになる。

 それまでには、なんとか。

「捕まえよう」

 僕は決意した。

 現在、頭上から飛来する彼女との距離は石段換算で平均五千二百四十九~六千五十七段程度。この周期ならば、あと六回だ。

 あと六回、彼女が階段に叩きつけられた後、跳ね返る瞬間に、一瞬だけ回転が遅くなる。それを狙って僕が大きくジャンプすれば、彼女の体は真下から僕を弾き飛ばすだろう。もしそうなれば僕は大きく減速することになり、同時に彼女も回転数を大幅に落とし、やっと顔を顔と判断できるくらいにはなるだろう。

 そんなことを考えている間に、彼女は九百八十七万三千二百二十一回目の衝突を行っていた。僕よりもかなり前の方を跳んでいるが大丈夫だ。

 あと五回。

 僕は微調整のために少しだけ加速する必要があった。そして二十二歩あと、いつもより強く石段を踏む。

 体は石段の蹴込みに対してほとんど垂直になりながら、ぐんぐん速度を上げていった。

 僕は間違いなく階段を下っている。なのに、なんだかその格好のせいで時々上っているような気がしてくる。壁は床になり床は壁になる。

 世界は九十度傾いていた。

 そんな中でも、我関せず頭上を行く彼女はいつ見てもだいたい飛んでいて、ともすれば空間に静止してさえいるように感じる。相対的な速度が奇妙に一致していると、僕も走っているはずなのにその場から一歩も動いていないんじゃないかと思ってしまう。

 僕は今、空を飛ぶ彼女を追いかけて下りのエスカレーターを上っている。

 そして彼女はまた寝返りを打った。

 あと四回。

 遠目に見える彼女が助けを求めたような気がした。

 分かっている、それは錯覚だ。

 少し長めの接触を経た彼女の体はいつもより低く弾んだ。今は石段の勾配と平行に空中を滑っている。軌道は安定しているがその分高速なのが、黒が飛んで完全にくすんだ桃色の塊となって見えることから分かる。

 それもきっと長くは続かないだろう。

 豆粒。いや、米粒のような彼女の腕らしきものが楕円形を描いて石段に接触し、回転が遅くなる。落ちた。

 あと三回。

 大きく、山なりに、彼女は飛び上がった。

 天へと上っていくような彼女を見送りながら、彼女が何者なのかについて考えた。

 僕の足もとで眠っていた彼女。僕が目覚め、声をかけるか迷っているうちに寝返りを打った彼女。僕から離れ、そして僕が追いかける彼女。それは一体何者なのだろうか。

 ほんのひとときだけ見た彼女の顔に見覚えはなく、家族や恋人でもなければ、知り合いでも或いは他人でもない。今こうして追いかけているこのときさえ、体の距離も心の距離も、離れていくばかりではないにせよ少したりとも近付いていない。

 それでも僕は追いかけている、何故か。

 足を止め、無限に遠ざかっていく彼女を見送ることなどさして難しいことではない。いや、ここまで勢いのついてしまった体を完全に停止させることは生半ならないのはそうなのだが、それにしても、彼女を追いかけ、彼女に追いつき、彼女を抱きとめるなんて無謀さに比べたら、何もしていないに等しい容易さではないだろうか。

 何もしない。

 それが、できないのはどういう理屈だろう。

 居ても立っても居られなく、体を駆け出させ、心を駆り立てる彼女とは、一体なんだろう。

 余計なことを。いや、たとえ必要なことだったとしても僕は深く考え過ぎたのだ。

 その過ちのために次の段への目測を誤り、僕は足を捻った。

 走る痛みは強く強く体に制動をかけようとする。猛スピードで疾走するバイクの前輪が突如ロックされてしまったように、僕は大きく回転し、勢い余って宙を舞う。

 ああ、しまった。

 そんな感想はもう遅く、視界が傾いた縦方向に回転し、僕が踏みしだこうと彼女が弾もうと小揺るぎもしなかった階段が突如上に向かって下へ流れるエスカレーターと化す。

 回転を、どうにかしてこの回転を止めなければ。

 しかし腕を伸ばしても足を蹴り出しても首を振っても胸を反らしても尻を突き出しても、どんなに頭をめぐらしても、僕の体の自由は取り戻すことができなかった。バランスを失っただけでこんなにも様々なものを失うのだなと思った。

 そうこうしている間に、計算上、彼女の体は九百八十七万三千二百二十四回目の墜落をした。

 その時僕はまだ飛んでいて、視界も一本の帯のようになった階段が遠くに見えるだけ。彼女がどんな格好でどれくらいの速度でどんなふうに接触して弾んだのかは分からない。或いは彼女が本当に助けを求めているのか、分からない。それは走り出す前から変わらないが。

 あと二回。

 これを逃したら、次に巡り会えるのはあと百二十一回の、或いは二十六万九千九百二十八回、又は二千六百九十三万二千二百八十五。いや、分かっている。計算は既に崩れていた。ここから更に加速していく彼女と、足を傷めて今なお宙をぼんやりと舞っているだけの僕はきっともう二度と巡り会えないだろう。

 だから、選ばなければならない。

 諦めるか、諦めないか。

 答えは簡単だ。

 僕は目をつぶり体を丸めた。そして力いっぱい叫ぶ。

 声にならない声。

 獣の遠吠えのような、台風のざわめきのような。或いはなんだろう。大気を掠める流れ星のような、少し格好良すぎる想像を内包した声で、力いっぱい叫んだ。

「何故?」

 分からない。

 頭に描いた理屈ではなく、本能とも呼べない衝動で。

 気合を入れるために。

 それもあるが、何より遠く離れた、きっともう声さえ届かないところに、最初から何も届いていない遠くにいる彼女に向けて、僕は腹の底から頭の天辺までを声にして、呼びかけるように叫んだ。

 待っていろ。今行くぞ。

 そんな複雑な言葉ではない。

 音としては『おい』かも『you』かも『あああああああああああああ』かも、或いはそれ以外の何かかも知れない。なんでもないかもしれない。名も顔も知らなかった相手を、未だ何者と知らぬままに抱く、我が身に湧き出るこの感情の意味さえ朧気な呼びかけは、音より早く階段を転げ落ち、駆け下りながら昇っていく。

 僕は、加速した。

 視界の前面におろし金のような階段が回転しながら迫る。

 僕は息を大きく大きく、多分肺よりも大きく吸い込むと、もう一度叫んだ。

 そして、接触。

 足で、膝で、腕で、手で、指で、顎で、歯で、額で、背中で、全身で、全身全霊で。

 思うままに階段を蹴った。皮が裂け骨が折れて血が滲み、視界が歪み喉も嗄れる。

 が、回転は止まらない。

 心だけは折れず曲がらず凹まず崩れず傷つかず、それどころか痛みに研磨されて澄んでいく。

 階段を這うように、一段一段しっかりと噛み合いながら、僕は階段を転がり落ちる。

 僕は更に加速した。

 体の痛みなどもはや分からない。それが一体どこから来ているのか分からないほどに、全身が塩に浸した生爪にでもなったような痛みの塊だった、

 耐えられるとか、耐えられないとか、そういう話ではない。

 もう、自分の力ではきっと止まることはできない。僕は今、ただ転がるという目的のためにだけ転がっている。文字通り体を投げ出し、擲っている。

 それは手段ですら無い。

 ただ、転がれ。

 永遠のような衝撃が全身を打ちのめし、打たれた分だけ、体の芯は回転を早める。

 確信も、確証も無い。今となっては希望すら無い。

 僕はただ一心不乱に待つだけだ。仮にこないとしても、もう巡り会えないとしても。僕は待つ。

 そんなことを考えて、どれくらい経ったのか。僕の体は一つの球体だ。いや、それ以上に効率よく階段を転がり続ける歯車になっていた。

 もう、人間だったという実感はほとんど残っていない。

 そして、唐突にその時が来た。

 頭上が俄に暗くなる。

 いや、僕はもうずっと回転する自分の中心を見続けているだけだし、目なんてものはそもそも見えていない。

 だから、ただ、なんとなくそんな気がしただけだ。

 ずっと待っていた。そして、こんなときどうすればいいかだけは分かっていた。上も下も僕も彼女も分からなくても、それだけはずっと考えていて、ずっと前から知っていた。

 僕は少し体を傾け、そして――。

 しかし、そこで迷い疑った。

 今感じているこれがもし間違いだったら。

 僕は盛大な独り相撲か、相手の居ないワルツを踊る羽目になるのではないか。

 ここまでの道程が、時間が、思いが、全て無駄になってしまうことが恐ろしくなってしまったのだ。だって、そうだ。

 失敗したら二度とチャンスは訪れない。

 そもそもがこれは奇跡だ。奇跡的なめぐり合わせなのだ。失敗できない。もっと、もっと待つべきなんじゃ無いだろうか。十全な時を。完璧な瞬間を。今しかない。そんなのは、今しか持ち合わせられない、待ち合わせのできない身勝手な心が生んだ願望ではないのか。でも今動かなければきっと後悔する。

 ほんとにそうだろうか?

 やらずにする後悔より、やってする後悔の方が良いなんてのは嘘だ。やって失敗したらどうなる? 彼女を待ち続け、その瞬間に挑み続けたなら、その後悔をどちらも背負う必要はない。成功も失敗も超えた地平で、僕は転がり続けられる。そうしたらきっと、なぜ転がっているのかもやがてわからなくなる。僕は彼女を直ぐ側でないにしろ近くに感じながら触れられず、けれど遠く遠く時が経つに連れ無限に引き離されていくような後悔はしなくて済む。ぼくにはもう何もない。この体しか。その体から最後に失われるのはきっとこの心だと思う。それは、どのようにして失われるのか。

 彼女という存在とともに薄れて消えるのだ。

 と、そこまで考えたときだった。終わりのない回転によって捩じ切れて擦り切れかけていた思いは不意にどこかに行ってしまった。

 そしてその音は響いた。

 小さな音だ。遠心分離機になった僕の中にできた虚ろな真ん中らへん。今は血液も肉も骨も心もないその場所に綿菓子でガラス細工を叩いたような音が、響いた。

 響いて、響いて、響いて、響いて、響いて、響いて、鳴り止まない。

 あまりに反響するせいで、僕自体がその音になったみたいだ。

 けれど、感じる。鼓動よりも強く感じる予感は、次第に大きく高鳴って、その響きに同調する。

「波長だ」

 僕はその音と波長が合った。何度となく、幾千幾万聞いてきた音。

 けれど遠い世界の出来事だったそれが、今は直ぐ側で。いいや、それどころかもっと内側に、まるで重なって僕そのものであるように感じる。

 音は、今まで聞いてきたものと同じだ。同じであるはずなのによく、耳を、いや、それを受容する何かしらを澄ましてみると、感じられる響き方が違う。

 どうしてだろうか。

 最後の落下。

 僕は意を決して、強く、大きく、跳ね上がる。

 計算も、打算も、後悔の準備もいらなかった。

 僕はただその響きの高鳴る方向に身体を向けて、腕を広げるだけで良かった。そして、その時に僕は、ふと今まで感じていた疑問の答えが分かった。

 それはたぶん、涙の音に近かったのだ。

 僕は空中で彼女の横に並んでいた。途方も無い速度で回転していたはずの彼女は、ビー玉みたいにどこを向いているのか分からなかった彼女は、今はもう、そうではなかった。その姿には輪郭があり、どこを向いているのかも分かる。

 彼女は静かに、ただ宙に浮かんでいた。回転しているのは彼女じゃなくて世界の方だ。上りも下りもない一本の平らな道となった階段の上を僕らは静かに飛んでいる。

 そして僕はその隣で腕を広げていた。彼女も同じように脱力したまま体を開いていた。それはちょうど鏡合わせになるような格好だ。やがて僕は広げたその腕を伸ばして彼女を抱きとめる。すると彼女も腕を伸ばして抱擁してきた。しかし意識はない。

 どうやら眠っているらしい。

 すやすやと、寝息を立てたりはしていない。でも多分、死んでもいないことはわずかに上下する胸の動きを感じて分かった。

 僕らはどれくらいの間だろうか、二人分の命を乗せて飛んでいた。

 そして気がつくと、世界の外側にはじき出されてしまっているらしかった。足もとなのか頭上なのかも定かではない大地の上に、延々と続く一本の階段が見えた。

 僕は、ぼーっとその様子を眺めながら、とんでもないことに気がついてしまった。それはとても重大で、どうして忘れていたんだと、それまでの自分を叱責したくなるような、大きな、大きな問題だった。

 僕は悩んだ。どうしよう。もし彼女が目を醒ましたら。

「どんな挨拶をしよう?」

 僕がそんな風に頭を回している間にも、世界は静かに回り続けていた。

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