」鍵「

 輝かしく鮮烈な、あの頃の記憶がつい数分前まで、完全に忘れ去られていたという事実に驚いた。それは呆れ混じりの驚き。驚き混じりの呆れ。どちらなのだろうか。

 思わず漏れ出たため息が、枯れ枝じみた手のひらの上で鈍く光る鍵にかかった。

時の経過で苔のように緑青の浮いた真鍮の鍵と、年々老けていく我が身。一体どちらが錆び付いているのか、分かりゃしない。いや、輝きを未だ失おうとしない、それどころか年月を取り込んだかのような風格さえ見せる鍵と、日々に食われるだけの我が身とでは比べるべくもないか。

 マメが出来て、潰れて、また出来て、次第に硬くなったこの手は時間を取り込んだと言えるかも知れないが、ここに収まった金の鍵は手のひら以上に無口らしく、そのことを否定も肯定もせず、もちろん同調も同情もしない。

 こいつと初めて向き合ったとき、自然とこぼれた笑みは一体誰に向けたのだったか。相手が物言わぬ堅物であるからこそ、こちらからは友好的な関係を築きたいものだが、あいにくモノと対話する素養はない。それは、弟の得意だったことだ。

 そうだ、弟。同胞、片割れ。全なる片割れ。かつての記憶の中心に、常にあった、異質なる陽の同一。我が双子の弟。

 彼は俺と姿形こそ同じであったが中身は別物、だった。カップに入ったコーヒーと泥水くらい違うと言える。外見は似たところがあったとしても、或いは臭いで分かる。と、俺は彼の作ったコーヒーカップに口をつけて、中の泥水のような液体を流し込む。

 ほお、と一息つくと、心に埋もれた感情が喉を通って上ってくるのを空想した。彼はいつも溢れんばかりの才気を匂わせていたのだ。その残り香が、この鍵だ。これも彼が、あの男が、弟が作ったのだったか。

 ほとんど同じ、しかし銀細工のモノをかつて、自分も使っていた。

 懐かしい、と思い、その手触りを記憶と結びつけるように、しかし異なるそれを、指の中で揉む。手からは錆の臭い。あの、兄を立てようとする、しかし兄よりも目立つ弟の分身のような鍵はやはり何も言わない。

 もしかすると、双子の弟たる銀の鍵を、金に困り質に入れたことを根に持っているのかも知れない。だとすれば、和解の術はないのだろう。諦めるよりほかにない。無口だが、己の役目を果たすことには長けるかも知れない、この頑固者にはただ仕事を与えよう。二十年ぶりの仕事を。


 一軒のあばら屋、と言うとこれを遺してくれた両親に申し訳ないが、実際老朽化が進んでいる。艶っぽい茶色と黒の中間色の階段は、微妙に歪んだりしていて斜めになっている上、踏むと段毎に違う響きで軋みを上げる。それはそれで愉快だが、七段目はうっかり踏み抜くと、直下の物置への短絡的な近道が開通する。すでに、若干朽ちていて、穴の斜め下から様子を窺うと。物置の中の『母』を模したブロンズと目が合うような有様だ。

 弟はきっと分かっていてわざとそこに置いたのだろう。作ったそばから物置に放り込んだのはその為だったのだと、今となっては確信できる。微笑をたたえた母の像は、総合的に評価すれば、美しく優しげであったと記憶しているが、目元だけを切り抜いてみれば、死神か何かのようだった。

 強烈な眼光を受け止めるのも容易ではない。実際、受け止められていない。いつも目をそらしている始末だ。そんなに嫌ならば塞いでしまえば、とも思う。階段を直そうとは幾度も思った。しかしそういったことが嫌いで、また弟と違って数ある苦手分野の一つであるというのも確かだが、封印することが、何だか少しもったいないような気もしないでも無いのだった。

 自然と背筋が伸び、足に力が入る。

 六段目から八段目に、足を伸ばして階段を上る。全十六段のうちまともに踏めるのは十四段。七段目以外に、十三段目の具合も頗る悪く、これは昔からだがそもそも段が水平になっていない。押し流すかのような坂状の段は、うっかりすると、罠になりかねない。よしんば体勢を持ち直したとして、例の七段目が牙を剥く。また、やはりその他も段毎に性格が違う。

 それを指して、泥棒よけになると、声高に嘯いていた父は、階段以上に一段と歪んでいる。

 果たして、俺は長年住んでいるだけにほとんど危なげなく二階にたどり着いた。

 奥に行くほど埃が積もる短い廊下に部屋は三つ。手前から、父母、自室、弟の扉がならんでいるが、近頃は僅か数歩の差を厭い、自室を物置に、より階段に近い父母の部屋で寝起きしている。そのことを誰が咎めることも無いのは、少し寂しくないでも無い。

 余らせておくよりはと思い、部屋を貸すということも一度は考えたが断念した。自室の鍵はとうに流れてしまったし、父母の部屋を明け渡すことにも抵抗がある。残された弟の部屋、その鍵は先刻まで二十年の間、行方不明だった。

 弟が持って行ったとばかり思っていた鍵は、彼が去り際に贈ってくれた、彼にしては珍しくシンプルで、本当につまらない花瓶の中に埋め込まれていたものだ。誤って壊さなければ恐らく見つけることは叶わなかったが、あの弟のことだからきっと、信じていたのだろう。いつか、俺ならば故意にしろ事故にしろ花瓶を、粉砕する。と、そう確信していた。

 それを思うと、怒れば良いのか笑えば良いのか、分からない。実際には思わず笑ったのだが。きっと、あの弟もほくそ笑んでいるのだろう。どこで、どのように笑っているかは定かでは無いが、どんな顔と声で笑うのかは、自分のことのように、或いはそれ以上に想像しやすい。

 やや口角が上がっているのは何故だろうか。過去を思い出して、センチになっているのかなんなのか。あるいは、

 堆積した時間に足跡を刻みながら進んでいく。前進か、逆行なのかは分からないが、俺の胸は高鳴っている。いつ以来だろうか。

 二つの扉を通り過ぎ、例の扉に向かい合う。「さて」と一息つくと、自然に喉が鳴る。いつの間にか握りしめていた拳を開いて、金の鍵を見つめる。

 指紋と汗でベタベタにくすんでしまっている。そのことに不満を言うほど饒舌では無いだろうが、静かにこの先を促しているように感じた。

 だれにとも無く頷くと、二本の指で輪っか状の頭を挟み、真っ直ぐ鍵穴に差し入れた。

 深々と根元まで刺さろうとする感覚は、十数年前に手放した自室の鍵と同様。ただし、年月のせいか、思ったよりも抵抗がある。金属の擦れる僅かな振動に呼応してか、心拍数が上がり、手汗が湧いてきた。緊張か、期待か、指先に神経が集中するのを感じる。自分が今、何を開こうとしているのか、……ただ、微かな音だけが時間の呪縛を削ろうとしている。最奥へ、そして血を巡らせると、一息に右へ捻る。

 ねじ切れた。

 首が見事に千切れ、鍵穴はぴったりと狙い澄ましたかのように埋められた。

 震える手には、輪っかとそこからちょぼっと飛び出した出っ張りが構成する、鍵だったモノが挟まっている。苔むした金色のリングのその断面は心なしか笑って見えた。

 「おい。」

 おいおいおいおい。期待させておいてこれは無いだろう。ひどすぎやしないか。ひどい詐欺だ。感情のクーリングオフを要求する。希望を還元しろ。今すぐに。期待を撤回させろ。今すぐに。恰好をつけて、黄昏れていたのになんだこれは、浸っていたのになんということ。恥を知れ運命。いや、恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。穴があったら入りたいぐらいだ。しかし鍵穴は塞がっている、どこに入れば? 墓穴?

 こんなところで、死ねるか。ふざけるな。

 むっとした勢いで金の輪っかを床に叩きつけた。小気味良い音を響かせて、鍵の頭は逃げるように弾け飛んでいく。階段まで吹っ飛んだらしく、小銭を落としたようなドロップ音が八回連なって消えた。どうやら物置に嵌まったようだ。

 肩の力が抜ける。同時に膝が崩れる。

 急速に熱が冷めていくのを感じた。

 蘇ろうとしていたあの日々はまた遠い過去に帰り、永遠の眠りについてしまった。期待など、する必要が無いのだ。すべてがどうでも良い。未知は閉ざされた。所詮俺は日々に食い殺される凡夫でしか無い。

 何度となく繰り返した諦めに、またその身を委ねるしかないのだろう。時々の希望よりもいつもそばにある思考停止を受け入れよう。歩いて行くにはこっちの方が疲れないのだ。

 また、足に力を入れ、屍のように立ち上がろうとした。

 その時、ギラギラとした夕日が差し込んできて、伏し目がちな瞼を灼いた。何故? 一拍遅れてまぶしさに視線を下げる。眩惑された視界に色が戻ると、音もなく扉が開いていた。

 誘うかのような光源に手を伸ばし、一歩、前足を世界の内側に這い進ませる。

 一歩一歩と、手が板張りの床を叩く度に埃が舞い上がる。キラキラと光を散乱させる。幻想的かも知れない。二十年、それ以上の時の中、降り積もった粒子。しかしそんなモノにむせ返っている暇はなかった。息をするのも忘れて、そこにあるモノ。モノ達に、ただ見とれていたから。

 そこにあったのは正しく幻想の産物。夢にまで見たあの男の夢想の具現が目の前に。――かつて弟はある夢を見たらしい。時計の夢。大きな時計の夢だったそうだ。それが今目の前にある、七本の針を持つ奇怪な円盤なのかも知れない。忙しなく巡る糸のような黒い一本と、一歩一歩を確実に刻む赤い針。久しぶりの外気に一度だけ身じろぎした青の針。その次に動きそうなのはたった今生えたアスパラガスのような緑か。剣のような銀の針と鈎状の白、太陽を模した金の針。文字盤には螺旋のレリーフと記号群。

 美しい。が、しかし意味が分からない。秒でも分でも時間でもない間隔で前進する針にそもそも意味などあるだろうか。彼はそんなガラクタばかりを愛している。ここにあるどれもがそうだ。美しく歪で、愉快にして、記憶のどこかに引っかかる。存在の琴線に触れる。

 例えば窓際の、継ぎ目が無く着れない赤い甲冑も、無闇に大きな糸切り鋏も、恐ろしき骨リンゴも、幼少のいつかに見たモノだ。弟が産落とした世界の欠片が所狭しとならんでいる。知らないモノも多い。いや、知らないモノがほとんどか。

 俺の知っている弟は、いくつかの例外はあるものの、鍵や時計や鋏、甲冑、傘、靴、など既成の概念の上にモノを作り上げることに長けた奴だった。しかし、部屋の中を見渡してみる限りそうでは無い。例外以上にそこには形容しがたいモノが様々に転がっていた。

 自分が無知なだけで、既にこの世にあるということも考えられるが、確実にそうでないものは目につく。手近にあるモノなどは、形容できないほどでかい椎茸で、光っている。実用品なのか、そういう飾りなのかどうなのか、あるいは失敗作なのか、オーパーツじみた何かにさえ見える。どうとでもとれて、なんにでも見えて、その実何でも無かったりする。

 示唆的でありながら、道を示さず、見る者を欺き、混迷と夢想へ誘う。正に今迷い込んできたばかりの俺は、ただ目を眩ませている。

 弟は何がしたかったのか。欲望のままに生きた訳でもなく、人類のために貢献しようなどとは考えず、富や名声に見向きもしない。俺や友達がすげえと声を上げると照れながらそっぽ向いて鼻をこするくらいが関の山だ。世界征服も出来なければ、家の中でさえ謙虚だ。彼は、弟はなんだったのか。主張らしい主張、要求の類いはほとんどしたことが無かった。家を出るときに言ったことはなんだったか。

 夕日がじきに沈みそうだ。

 弟が旅に出たのも何故か夕方だったか。朝に出て行きそうなものだが、朝の弱い俺に気を遣ったのかも知れない。恐らくそんなことは無いのだろうが。


 「雨があがったね」

 弟が、少しもじもじしながらそんなことを言った。

 「雨なんか降ってたか?」

 「降っていたよ、気づかなかったの?」

 弟は何故雨なんてつまらないものを気にするんだろう? 洗濯物を干しているでも無し、気にしてどうしようというのだろうか。そんな興味なさそうな俺の反応にがっかりするでも無く、むしろ楽しげに、

 「虹が見えるかも」

 と言った。

 「虹?」

 読んでいた本から顔を上げて窓の外を見る。夕焼けが見えた。虹なんて、見えない。興味を無くして本に向き直ろうとする。が、弟は俺の首をぐりんとねじり、反対を向かせる。そこにあったのはなんと、壁だ。

 「虹はこっちに出るんだよ」

 壁にか? 新たな発明かもしれない。眉をひそめる俺をよそに、弟はそちら側にあるキッチンの窓から外を見た。そして首を出して、キョロキョロと空を見る。数秒後、歓声を上げた。見えたらしい。そんな様子を見届けると、大人びた猫のふりで俺は本に向き直った。

 「UFO!」

 俺は駆けだした。

 窓の外には見る者すべてを魅了する虹のアーチが架かって、いなかった。そうではなく銀に輝きながら素晴らしく謎の怪光線を放つ円盤、そんなものも、勿論無い。

 求めた何かを探すのをやめて、視線を落とすと、弟は隣で悪びれること無く言った。

 「嘘だよ」

 この嘘つきめ! と罵る気にはなれない。何故なら窓の向こうで、父と母が手を振っていたから。呆然とした。ただ、視線は外せない。そんな馬鹿な、と思った。もう既にこの世にいないはずの父と母が手を振っていたのだ。

 「見せたかったんだ」

 弟は言った。俺は何も言えなかった。弟の声は少し震えていた気がする。泣きそうになっていた俺よりもなお泣きそうな声だった。どうすればいい? 分からない。だが、弟の顔を見ることはできずに、窓の外を眺めているしかなかった。

手を振る父母の姿が鮮明に見える。微笑んでいて、楽しそうに、しかしずっと振っているせいか、ちょっと肩がつらそうに見える。

 時間が止まっていて、永遠が今訪れているような気がした。

 隣の弟は呆けたままの俺を見ていなかった。

 「僕はもう行くよ」

 世界が見たい、といつか言っていた。世界なんて、漠然としすぎている。広すぎるだろう。世界って。そうだ、広いのだ。彼が生きる世界はきっと、もっと広くなくてはならない。

 住む世界が違う。俺自身何度となく思ったことだ。

偶然、重なっていた世界が、離れていく。俺にとって中心であるこの場所は、彼にとっては辺境でしかなくて、ちょうどそういう風に見えただけの星座のようなものかもしれない。全然別の時間を生きていて、俺という片割れがその足を引っ張っていたのだろう。

行ってらっしゃい。

そんな一言は、しかし言えないでいた。何も言えない。言える筈がない。どんな顔をして言えばいいのだ。笑えばいいのか怒ればいいのか、それとも、この、泣いたままの顔で、言えばいいのか? 視界の中心で手を振る両親はどんどん歪んでいくのに。

 「兄さん」

弟が窓から離れていくのを感じた。

 弟が離れていく。体をひねって、振り返ろうとするが筋肉が強張って動こうとしない。そっちを向かないといけない。そう思うのに体はいうことを聞かない。

いや、むしろ心が振り向きたくないと、そう叫んでいるのか。叫びの中、声は耳朶を打つ。

「行ってくるよ。今までありがとう」

 弟の声は震えた隙間風のように曖昧に響いたが、確固とした塊になって鼓膜を殴った。痺れた聴覚が、未練がましく弟の足音を掴もうとするが、足が止まることは無い。一歩一歩と離れる存在を留めることは叶わないのだと既に諦めている自分が、突然に憎らしく感じた。



 長い長い後悔の後、やっと振り向いたその場所には弟の姿はもうなかった。

 扉は閉じ、その背中はもう見えない。どこに行ってしまったのだろう。分からないが、もう会うことはないのだと、なんとなく分かる。それが、繋がりというモノなのかは知れない。

 窓の外では消えかかった両親が未だに手を振っている。ここで、それを見続けるのが何だか耐えがたいような気がして、離れる。案外こんな心境だったのかも知れないなと、なんとなく思った。

 よろけるような足取りで、ようやっと椅子にたどり着く。深く深く息を吐いて顔を上げたときそれを見つけた。

 テーブルに、先ほどまでは無かった白無垢の花瓶が置いてあった。弟が残していったのだろう。言葉ではなくモノであるというのが、らしい。

 手で触れると、思ったよりもすべすべとしていて心地の良い肌触りだった。飾り気の無い純白のその在り様は、まるで弟そのもののように美しい。

 抱え上げると、ただ静かに床へと落下させ、叩き割った。

 涙の音がした。いや、しなかった。


 気がつくと眠っていて、知らぬ間に夜になっていたらしい。日はすっかりと落ちて、弟の部屋はほとんど闇に包まれている。ほとんどではあるが、七針時計の銀と金の針をはじめとしたいくつかのモノが光を放っているせいか、そこまで暗くは無い。先ほどまで枕代わりにしていたらしい人間大のキノコの置物などは一際輝いている。材質はよく分からない。よく見れば不気味だ。

 その置物から一歩退くと、よく眠ったせいか腹が鳴った。

 今が何時なのかと時計を見るが、さっぱり分からない。深夜かも知れないが背に腹は代えられない。夜食は肥満のリスクが高いとよく言われるが、諦めて下へ降りて何かを食べることにする。

 踵を返し、部屋を後にしようと振り向いて、正面にとらえた扉はいつの間にか閉まっていて、目をこらすとその前に何かがあるらしい。

 何なのか、薄ぼんやりとしていてよく分からない。

 背後のキノコを引き寄せて、明かり代わりにそれを照らしてみる。案外この謎キノコは照明器具なのかも知れない。

 と、闇の輪郭を削って現れたのは、いつからそこにいたのか、或いは最初からいたのか、少女だった。

 しかも小さい。光キノコよりもかなり小さく見える。少女なのだから、小さいのは当たり前ではあるのだが、スケールが通常の少女の半分か、或いは三分の一も無いかも知れない。

普通の少女とは此如何に。

 さておき、少女は海を凝らせたような、ビー玉みたいな瞳でこちらをじっと見つめていた。

 俺は、ただそれを見つめ返す。見つめ返す以外に何があるというのだ。目を逸らすことで何かが解決されることは無い。ならば見つめ続けるしか無い。今までいろんなものから逃げてきただけに、より強く確信した。

 互いに見つめ合い、どれくらいの時が流れただろうか。大して流れていないかも知れない。少なくとも体感的には停滞していたそれが、唐突に均衡を崩した。

 少女(小)が僅かな歩幅で、それでも確かな足取りを以て、こちらに近づいてきたのだ。正体が分からず無言の上、身長差のせいで表情も窺えない、何とも言いがたい緊張が、太った死神のようにじんわりと近づいてくるのを感じる。

 そして、ピタリと立ち止まった。少女にとってはあと一歩。俺からすればほぼゼロ距離と言って差し支えない位置で停止する。身長差がかなりあるため、ここまで接近されるとほとんど真下を向くことになる。同様に、少女も結構な仰角でこちらを眺めている。続く沈黙。

 何だ、お前。

 そう問いかけるより早く、少女が視界から消えた。

 幻覚? ではない。すぐに、少女がどこに消えたのか判明する。むしろ実体であると主張するかのような行動に出た。右足に重みがあり、言うまでもなく、そこに少女が張り付いていた。

 払いのけようと手を伸ばすと、小さいというより細かい指で押し返された。見た目通りの力しかなく、押し切ることは簡単に思えたが、俺は手を引いた。想像よりも、その質感が生命的であったからだ。

 引いたら押されるのは世の定めとでも言うべきか、少女はこちら側に踏み込んできた。踏み込む。否、乗り込んで、乗り上がって、登り上がってきた。突然の予期せぬことに戸惑っている間に、太ももに足をかけ、背中側を抱き、肩に手をかけると右腕に足を絡ませ、きゅっと矮躯を引き寄せて少女は、肩の上に座ってしまう。

 小さく、その分軽いと言ってもゼロではない。というか、結構重い。太めの猫か、猿くらいの重さはある。と、そんな心の声が聞こえたわけでもないだろうが、髪をぎゅっと掴まれる。

 痛い痛い痛い。

 振り払おうと、体を激しく動かすとロデオのような有様で、しかもしっかり乗りこなされてしまっている。髪が抜ける上、首を絞められた。

 人間基準で言えば愛嬌のある顔をしているクセに、やることは意外にもえげつない。この様子だと、強引に引きはがそうとすると指を噛み千切られるかも知れない。試してみる気はない。

 首を回して、少女の方を見ようとすると、弾みで彼女は落下しそうになる。俺の髪の数本を犠牲にしてなんとか持ち直す。慌てたそぶりで、しかし何も喋らない。もしかしたら喋れないのかも知れない。それでも、目は口ほどにものを言う、不満げな眼光を据え付けてきた。

 その表情だけの主張の中に、別の色も見えた。

 空腹。ちょうど今の俺と同じ顔をしているような気がする。

 「何か食べるか?」

 問いかけてみた。しかし考えてみれば、喋れないのではなく言葉を理解していないということもある。あまり意味のない問いかとも考えられたし、そもそも食事をするのかさえ分からない。が、少女は逡巡のようなそぶりの後、小さく、確かに頷いてみせた。

 よし。と俺は言って、歩き出す。そして、閉じられた扉を再び開ける。

 その際、内側に開いた扉の陰に、箱のような物があるのを見た。少女の住処かも知れない。彼女が何者なのか、何なのかは知れないが、おいしい何かを作ってやろうと思った。当の本人は何も気にしていないと言いたげな顔で、しかし足はぱたぱたと動かして、うれしそうにしている。地味に痛い。

 部屋を出る。

 おんぼろの階段を降りる際の、調子外れの音響が、何かの前触れのようで心が躍る。

 さて、塩気のある物と甘い物と、どっちが良いだろうか。ただし時間帯は考えない物とする。


 楽しい夜食の後、突然に呼び鈴が鳴った。夜は未だ明けていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る