短編・掌編集「りんごころころ」
音佐りんご。
鯉。
小さい頃の話なんだけどね。
母さんに連れられて通ってた図書館があったんだ。
今でこそ全然本読まなくなったけど、絵本とか、紙芝居とか、そういうのが好きだったみたいでね。
それで、その図書館の裏には小さな池があってね、蓮の花で有名だったんだけれど、そこには鯉が泳いでたんだ。
図書館に行ったあとは、いつもその池に寄って帰るんだけど、家から持ってきたお麩を鯉にあげるのが好きだったんだ。
水面から大きく広げた口を出して、落ちてきたり浮かんでいるお麩を食べて、沈んではまた戻ってくる。
普段は池の中を悠然と泳いでいる鯉が、その時ばかりは必死になって口を開いて待っている。
それがなんだか愛おしくって。
思えば本当は、絵本や紙芝居が好きだったんじゃなくて、池を散歩して、鯉を見るのが好きだったのかなって。
けれど、ある時その池が埋め立てられることになっちゃってね。
なんせ小さい頃のことだから、詳しいことは分からないけれど、市だか団体だかの財政的にそこを管理することが難しくなったんだろうね。
気がつくと、遊具も、木も、ベンチも何もない、もちろん、蓮の花も咲かなければ、鯉もいない市民広場になっていた。
「あの鯉はどこに行ったの?」
って、母さんに聞くと少し困ったような顔で、
「え? ……きっと、旅に出たんだよ」
って。
ちょうどその時は春。
もうすぐ、こどもの日だったから、近くの河川敷にたくさんの鯉のぼりが泳いでいたんだ。
「見に行こうよ」
って、母さんに連れられてった。
正直、そんなに興味がなかった。
見たかったのは水面から顔を出す地味な色の鯉で、五月の空にはためく色とりどりの鯉のぼりじゃなかったから。
「すごいねぇ」
って、母さんが指差して楽しそうに言うから、
「すごいねぇ」
って、言って笑った。
でも、何がすごいのかはよく分からなかった。
本物の方がすごいことを知っていたから。
お麩を見つけても、見つけなくても口を開けっぱなしの鯉なんかって思って顔を逸らすと、川面が見えた。
そして、案外速く流れているらしいその川の中に何かが揺らめくのが見えた。
鯉。
それは大きな鯉だった。
思わず駆け出した。
で、躓いてこけて、川に落ちた。
どぼんと頭から。
小さい頃のことだからね、そんなに深い川ではなかったんだけど、子供の足じゃ底に届かない。
届いたとしても、流れは案外速くて立っていることもできなかったんだろうけど。
服は水を吸って石のように体を川底に沈める。
水面に、悠々と空を泳ぐ鯉のぼりに向かって力いっぱい手を伸ばし、口を開けてもがきながら、ふと思った。
鯉だ。鯉になったんだ。
溺れることは怖かったけれど、なんだかそれが少し嬉しかったのを覚えてる。
そして、沈みながら、頭の上を大きな鯉が悠々と通りすぎて行くのを見た。
とても綺麗だった。
よく見ると、その鯉はあの池で見た鯉に似ている気がした。
けれどそのまま意識を失ってしまい、気がついたときには母さんに抱き締められながら顔をひっぱたかれていた。
「なんで急に走り出したりしたの!」
って。
それで、
「鯉がいたんだ」
って説明すると、母さんは言ったんだ。
「この川に鯉なんていないよ」
って。
「でも、見たんだ!」
って、言っても、母さんは信じてくれなくて。
「あの池の鯉だよ!」
って必死に伝えると、母さんは首を傾げるんだ。
「あの池の鯉ってなんのこと」
って。
そして、母さんは言ったんだ。
図書館の池に、
「鯉なんていなかったよ」
って。
小さい頃の話なんだけどね。
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