弟の卒業式。
出張から2ヶ月ぶりに帰ってきた父は、なぜか子犬を抱えていた。
なんでも、駅で利用したコインロッカーのちょうど真上の段に置き去りにされていたらしい。大層困惑した父は駅員と相談して、色々あって結局引き取ることにした。
私はどちらかと言えば猫派だったのだけれど、冬の曇り空のような灰色の毛、おっとりとしたアイスブルーの目に、頭の上で凛々しく立った三角の耳がかわいらしくて、彼を好きになった。
家に来てからしばらくは、部屋の隅で様子を見るように座り込んでいて、ドッグフードにもなかなか口をつけなかった。私のことも警戒しているらしく、手を近づけると噛みつくようなことはなかったけれど、そっと後退りして撫でさせてはくれなかった。
しかし、父には少しだけ馴れているようで、されるがままなのがちょっと悔しかった。
命の恩人か、親だと思っているのかもしれない。
私は一人っ子なので弟ができたらこんな気分になるのかな、と思ったけれど、それだと私が父ではなくてこの子に嫉妬してるみたいなので、考えるのをやめた。
そして我が家には彼がいることが当たり前になり、彼もここにいることが日常となってきた頃、そういえばまだちゃんと名前が付いていないことに気がついた。
私はただオーイと呼んでいたし、父は太郎と呼んでいた。
だからなんとなく、父の拾ってきた犬なのだし、正式には太郎なのだろうと思っていた。
けれど昨晩、母が彼をアンジェロと呼んでいることに気がついた。
お前、太郎じゃなかったのか?
と思い、私が「太郎~?」と声をかけると、こちらを振り向きはしたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
「オーイ」と声をかけると、駆け寄ってきた。
この子は自分をオーイだと思っているのだろうか?
と少し心配になったが、父が「太郎」と呼ぶとしっかりと反応して尻尾を振っていた。
では、お前はやはり太郎なのか?
と私の中の太郎説が強くなって来たところ、母が「アンジェロちゃん、ご飯だよ~」と呼び掛ける声には何より素早く反応して、元気に「わう!」と返事していた。
どうしてアンジェロなのかと母に訊ねると「寝顔が天使みたいだから」とのことだった。
ちなみに父は歩き方が太郎っぽいと言っていた。
私はどちらにも理があると思ったので間をとってオーイと呼ぶことにした。
それでも、彼はそれぞれの呼び掛けに応えてくれるので、彼の正式名はなんだかんだアンジェロ・オーイ・太郎なのかもしれないなんて考えていた。
しかし、父の見解としては、声の主と特定の呼び掛けの組み合わせで反応しているんじゃないかということで、そう考えると彼は結構賢いのかもしれない。
父は学者然としたいかにも真面目な顔で「さすが、うちの太郎だ」と誇らしそうだったが、このままでは自分の名前という概念が定着しない恐れがあるので、その後、家族会議で彼の名前を正式に決めることにした。
さらば、アンジェロ・オーイ・太郎。
そして厳正なる審議を重ねた結果、彼の名前はサブロウになった。
母曰く「横顔がサブロウっぽい」とのことで、父はある程度の同意を示した後「いや、むしろ背中がサブロウ」と溢していたが、私は耳のラインがサブロウだと思った。
全く。うちの家族は意見が合わなくて恥ずかしい。
それから、サブロウはサブロウとしての人生、いや犬生なのかを歩き始めたが、しばらくはサブロウがサブロウであるということに気がつかなかったらしく、誰の声にも反応しなかった。2週間ほど経ってようやく、サブロウは立派なサブロウになり、私達の誰がサブロウと呼んでも駆け寄って来るようになった。
ところで、サブロウはとてもお行儀がよく、ちゃんとトイレの躾をしていないにも関わらず、粗相をすることがなかった。
やはり、相当に頭が良いのだろう。ドッグフードはいつも残さず食べるし、遊んだおもちゃは片付ける。
それどころか父が出しっぱなしにしたテレビのリモコンを戻したり、母が脱ぎ散らかした靴を揃えたり、私が忘れていきそうになったお弁当を持って来てくれたりする。
私は、やっぱり弟ができたらこんな感じなのかな、と思った。愛らしくて、賢くて、しっかりしてて、優しくて。
誰が何と言おうと私達にとって大切な家族だった。
それから季節は巡り、時は流れて、とうとうその日がやってきた。
彼を一目見たときには、まさかこんな日が来るなんて思わなかった。
けれど、一緒に暮らしていく中で、私は、私達は、いつか来るこの日のことから、少しずつ、少しずつ目を逸らすことができなくなっていった。
大きくなっていくサブロウの体、家の中での存在感、私の胸の内の想い。
父も、母も泣いていた。
もちろん私も。
そう、今日はサブロウとの別れの日だ。
我が家に子犬として拾われて、家族として育ったサブロウの……巣立ちの日。
「父さん、母さん、そして姉さん。今までありがとう。」
花で胸元を飾りつけ、ピンと立たせた耳は凛々しいままに、透き通ったアイスブルーの目を静かに瞑ったサブロウは、決してそう口にしたわけではないけれど、私達には分かっていた。
一緒に過ごした18年。
泣いて笑って助け合った大切な日々。
だから、こちらこそありがとう。
あっちに行っても元気でね。
サブロウ。
ある日突然、私の家族になった弟。
そしてあなたはいつまでも私の弟。
式が終わり、耐えられなくなって私はその場にうずくまった。
そんな私の肩にそっと優しく手が置かれる。
「もう、泣かないでよ姉さん」
私は姉の威厳もどこへやら、ぐしゃぐしゃにして泣きじゃくった顔を上げる。
だって、だって!
すると彼は少し困った顔で、
「どこに行っても、姉さんを見守ってるよ」
ほんとに?
と問いかけると、彼は遠くを見た。
アイスブルーの透き通った瞳で。
「もちろんほんとさ、だって僕らは」
私の泣き声に少し煩わしげな耳を震わせて微笑む。
「血は繋がってなかったとしても」
灰色の髪を揺らした風に目を細める。
「家族だからね」
笑ったように涙を流す彼は、
「だから泣かないでよ」
「姉さん」
ある日突然家族になった子犬で、
たった一人の弟として育ち、そして、今日。
狼のように旅に出る。
「じゃあ行ってくるよ」
どうやら人狼と呼ばれる存在らしいけれど、覗き込んだ横顔も、手を振りながら叫んだ「オーイ!」という私の声に、くすぐったそうに背中を震わせるその後ろ姿も、見えなくなっていく耳の輪郭も、やはりどうしようもなくサブロウだった。
元気でね。
こぼした小さな声に振り向くことなく、彼は彼の道を行く。
桜舞い散る3月吉日。
そう、今日は私の大切な弟の、卒業式。
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