少し近いところで。

 団地から、自転車に跨がり十五分。コンビニはおろかポストも無い。あるのは道路脇に打ち込まれた立て看板の、いつの物かも定かでは無い風化と褪色に彩られた選挙ポスター。間に何々があると明確に言い表せないざっくりとした用地と民家を挟んだ市の外れを過ぎ、休閑地の様相を呈する田畑の脇を抜けると旧道がひょっこり尻尾を出す。辿る道は舗装が甘いながらも交通量は少なく走りやすい。三本目のカーブミラーを越えるとぶつかるのは、町の中程を流れる一級河川のその支流。頼りない赤さびたガードレールを生やす川沿いの道を遡上。なだらかな坂は疎らな山林を遠慮がちに迂回して縫っていく為、あまり疲れることも無い。そして道なりに十分。ようやくのこと辿り着いたその病院は、緑一色の山中に不釣り合いな黄ばんだ白色で、山の高台から市を一望するように屹立していた。

 辺りは森の匂いというのか、カメムシの匂いがした。

「すまんなぁ。急に入院することになって」

 そう言う朋哉の声は明るく、別段申し訳なさそうでは無い。しかし、そのトーンはいつもに比べると五十ルクス程明るく思えた。過度の心配を嫌う意図で軽薄軽快を装っている。或いはただの照れなのか、詮電話越しでは思い過ごしかも知れないが。

「気にすんなって」

 それも実際に顔を見ればすぐ分かる。表情が曇っているのか、晴れているのかなど。

 門を抜けて駐輪場を探し歩く。しかし目につくところには職員用のものしか見当たらない。電話の向こうの朋哉に聞くが知らないと言われた。自分の入院している場所のことぐらい把握しておけと軽口を叩いてみたが、知らないのも無理は無いだろう。朋哉はここに自転車で乗り付けた訳も無いのだから。

 政治がなんだ、バラエティがどうだ、博打がこうだと、朋哉に話題を牽引されるまま唯々諾々、半ば相槌も雑に話しながら敷地内を徘徊していると、足の下で何かが悲鳴を上げた。と言っても、生き物を踏んだ訳では無く、非生物的な悲鳴。

 ぎゃりっと、何かを摺り潰す感覚。草臥れたアスファルトと平らな靴底とに挟まれていたのは、硝子。より正確に言うならば、拾い上げたそれは銀を含んだ鏡の砕片だった。ポケットに入れて、そのキラキラとした粒を辿ると、黒い光沢を持った樹脂の破片が散っていて、顔を上げた先でそれと目が合った。

 煤けたブルーシート。

 その奥で鈍く輝く隻眼のヘッドライト。

 鼓動が弾む。

 ような気がした。朋哉の馬鹿話を聞くともなく耳に受けながら、ブルーシートに近付くとそれを捲る。ひん曲がっているが間違い無い。黒い車体、見覚えのあるナンバー。これは朋哉の物で間違い無い。

「見つかった? 駐めるとこ」

 結局それらしき場所も無かったが「まぁね」と頷く。自転車を横付けに駐めた。

 並んだバイクを置き去りに、正面玄関へと向かう。駐輪場は駄目でも、流石に入り口くらいはすぐに分かった。

 朋哉が一体どこから電話を掛けているのかはさておき、そのまま病院に入るのも如何なものかと切ろうとした時、朋哉は短く「上」と言った。

「上?」

 見上げた先の空を、紙飛行機が渡っていた。

 風を受けて揺らめきながらも、描きかけの青空のように白い紙が空を滑り、高い木の陰を二つ過ぎた辺りでそれは見えなくなった。

「こっちこっち」

 機械を通さない小さな声が響いた。

「雪翔ぉ!」

 視界の下の方、開いた窓からカーテンが白波のように揺らいでいた。その後ろに、一人の青年が手を振っているのが見えた。

 振り返すのも馬鹿らしい。

 それでも、内心の暗雲が晴れたように綻んだ口元に気が付いた。それこそ照れ隠しでも無いが、俯くと電話を切って一瞥もやらぬまま建物の庇に入る。消毒液の匂い。

 朋哉はまだ手を振っているような気がした。

 扉はセンサーが切れているのか、時間外でも無いのに手動で押し開かなければならなかった。開けた扉を戻して正面の受付に行くが案の定、人がいない。遠目でも分かっていたので落胆こそしないが、言葉も出なかった。溜息半分、安堵半分。そんな吐息が溢れるばかり。空調も止まっているらしくじんわりと出る汗を袖で拭った。

 出迎えて欲しいわけでは無かったが、連絡があって荷物や何やかやを持ってきたのだから、せめて職員の一人くらいと思う。休憩時間だろうか、しばらく待って誰も来ないのを確信すると、病院で大声を出すのも憚られるという思考停止から、カウンター脇にある象牙色の案内板に張りついた。

 表示通り、受付右手のエレベーターに向かった。

 袋に入った着替えを軽く膝で蹴っ飛ばしながら歩いていると、ある物が目に入りまた溜息が溢れた。

「おかしいよ。おかしい。おかしい」

 スイッチが反応しないのか首を傾げて呟きながら、首もとをだるだるにした白シャツの老人が扉の前に立っていた。

 風で剥がれてしまったのか、それとも老人が剥がしたのか、彼の足下にはA4用紙に明朝体で書かれた『故障中』の張り紙が落ちていた。見れば、扉上部の階数表示ランプが切光を宿していない。

「おかしいよ。これは、おかしい」

 心拍のようなリズム。

 老人は故障にも僕の存在にも気付かず『△』を押し続けていた。

 先刻確認した限り、西館にもう一基あると知っていた。だからと言って、そこまで歩くのも、まして老人にそのことを伝えるのも億劫な自分は、黙って脇の階段を使うことにした。別に悪いことをしているのでは無い。隠れるつもりも無かったが、自然、老人の後ろは極めて静かに通った。

「猫にでもなった気分だ」

 スイッチに話しかけているような有様の彼の背中をふと見た時、縫い付けられた赤い布ぎれに、黒マジックで『松代』と書いてあるのが目に入った。

 別段、珍しい名前でも無い。

 いや、少し珍しいかも知れない。朋哉の名字、佐藤よりは珍しい。とはいえ気にするほどの名前でも無いはずなのに、何か見覚えがあるような気がした。

 新聞、ニュース番組、表札、小説、選挙ポスター。目にする機会はありそうな物だがぴんとこない。

 松代。松代。松代。と、口中で転がしながら上っていくが、結局何にも思い当たることなく、四階に着いた。

 階段室を出た左手には故障中のエレベーター。自動販売機が設置された休憩スペースの奥は閉めきられた扉が一つあって、どん詰まりになっていた。目につくところにナースステーションのような物はないので、西館側にあるのかも知れない。

 先刻見た紙飛行機の飛び発った窓を思い浮かべて当たりを――と言うほどでも無いが道なりに。特に迷い無く歯磨き粉のような色の壁を見ながら歩いた。少なくとも先刻見上げた正面玄関側の部屋、通路の左手に朋哉はいることだろう。

 そして、その部屋を見つけるのにそう時間は掛からなかった。

 四部屋目“四一五”と番号の書かれた下に挿入されたプラカードには、楷書で『佐藤』とあった。が、それ以外の名前は無かった。また、他のカードを差し込む隙間も無い。

「あいつ、一人部屋かよ」

 良いご身分だ。今後の生活のことなどを心配して来たが、考えてみれば窓から手を振る姿には特に裏も表も無かったのだ。実家との折り合いは悪い筈だが、非常事態で金くらいはと、折り合いでもついたのだろう。腹立ち半分、安心半分、気の利いた皮肉を浴びせようと扉を横に滑らせる。

 それで室内が陰圧になったわけでもあるまいが、強い風が吹き込んできた。突風。吹き付ける風にしかし瞼を閉じることが出来なかった。

 目を奪われたのだろう。

 窓から差し込む空の青をなびかせて、ハンカチのような白いカーテンが、この広い病室に広がった。

 青の窓枠を背景に、ベッドの上にいた『彼女』は振り返った。

「――え」

 奪われた目が合った時、自分とその人、どちらの口から声が溢れたのだろうか。恐らくは自分だ。嗚咽のように湧き出す気まずさから離れようと、我ながらなんと言ったのか曖昧な謝罪を唱えて踵を返した。

 部屋を間違えたのだ。

「待って」

 しかし背中に声がぶつかった。鈴と呼ぶには落ち着いた、鐘と呼ぶには重くない、そんな声色だった。

「ごめんなさい、顔を見せてくださる?」

 自分が部屋を間違えたのと同じように、彼女も別の来訪者と間違えているのかも知れない。ならばここは、立ち去ってしまうべきだ。思考はそう告げるのに、足はしかし止まったまま動かない。そして、止せばいいのに背骨は彼女を振り返った。

 目は合わない。彼女は、足から順に自分を精査するように見ている。逆に、そんな彼女を自分も見るだけの余裕があった。

 青白い病衣から抜け出た腕はベッドの足よりも細く見え、今にも消え入りそうな顔の輪郭は生気に欠けた蝋燭のようだ。もう一吹きすれば、風に溶けてしまいそうだった。

「やっぱりそうでしたか」

 再び目と目が合い、彼女の青みを帯びた水晶体が入り込んできた。

「待っていました」

 何を。と問うより早く彼女は「あなたのことを」と言った。

 身に覚えの無いことだ。人違いでは無いかと聞くが、彼女は首を振るばかり。知らない女、初めて会う女。しかし彼女はこちらを既知の仲だとでも言うように、強い瞳で見つめ返してくる。

「あなただけを待っていましたの」

 自分は、何かを忘れてしまっている。幼い頃の記憶、或いは前世の約束。

 そんな物さえ疑ってしまうが、きっと何かの間違いだ。気の迷い。いや、迷い込んだのは確かだが、もし、何か思い違いがあって、こんなことになっているのなら、何か、薄情では無いだろうか。

 見舞いの人間も無く赤の他人を待ち続け、こんな広い部屋に独り。せめて、同室に他の患者がいたのなら、同病相憐れむとは言わずとも少しは、苦しみの一つでも、和らげることも叶うのに。

 思えば朋哉を見舞いに来たのも、その為だったような気がする。

 自然、目の前の彼女がそういった寂しさの病衣を纏っているように思え、別段憐れんだとか、まして寄り添おうなどと思い上がったわけでは無かったが、足を踏み出した。

 しかし、カーテンが俄に戦いだ。

「来ないで」

 断ち切るように短く彼女は言う。

「ごめんなさい、来ないで」

 哀切を匂い立たせる彼女の声は、隔離という言葉を想起させた。

 足を引っ込める自分を見て、彼女は微笑した。ありがとうと言われたような気がした。実際にはもう一度、ごめんなさい。と、言ったのだ。

 自分が何をしたというのだろうか。出来ることさえ無い。どうしたら良いのか。いや、どうしてこんなことになっているのだろうか。そもそもだ、自分はどこに足を踏み入れたのか。

 こちらの困惑が見て取れたらしい彼女は、また謝った。

「いえ、勝手を言ってしまってごめんなさい。そうね、もう帰って下さって結構です。ありがとう。こうして人と話したのは久しぶりで、なんて言うのでしたっけ、そう、テンションが上がってしまったのね。それで舞い上がってしまって、あなたに命令をしようだなんて本当にごめんなさい。病人風情が烏滸がましいわ、けれど嬉しくて、何も無い場所にいる何も無い私が何か満たされたような気がして、嘘でも良いの、幻でも――」

 細く、切れてしまいそうな糸を弾く声が、調度の少ない無機質な白い箱の中で反響して耳に入るが、驚くほどに脳内には響かない。このまま聞いていれば延々と喋り続けそうな気がして、正直、異質な気持ち悪さから打ち止めをした。

「なんで、僕なんですか」

 はたり、と空気の振動が損なわれ、静けさに包まれた。過呼吸に話す彼女が窒息したように絶望みたいな目を見開いた。ような気がしたのは束の間。浅く咳をした彼女は俯きながら言った。

「だって、あなたは」

 遮る物の無い静寂の中。

 その時は押し黙ったように風さえ吹いていなかったけれど、彼女が一体なんと言ったのか、僕は知らない。

「******、だから」

 動き出した時間がカーテンを揺らして、彼女の顔は見えなくなった。

 彼女へと歩み寄ろうとした僕は、動けないままにそれを見ていた。


「何黄昏れてやがるんだよ、窓の外ばかり見てよ」

 掛け布団の上にギプスの右足を投げ出した朋哉は太陽みたいな調子で言った。予想に違わず晴れがましい程の態度である。

「別に良いだろ、そういう気分なんだよ」

「別に良いが、取り敢えず俺の顔を見ろ」

 何が悲しくてお前の顔を見なくてはならないのかと、返す軽口には説得力が無い。ここまで来たのはそもそも顔を、様子を見るためであり、見られたことが嬉しくこそあれ、悲しくは無かった。

 きっと許可されてはいないのだろうが、窓際まで行けるくらいには元気で、陰鬱さの無い朋哉の表情に僕は安心感を抱けることだろう。しかし僕には、彼の顔を見ることが出来なかった。

「良いから見ろよ。俺の顔を見ろ」

 朋哉は不機嫌な口調で僕を振り向かせようとしたが、生憎朋哉は親友、友人でこそあれ彼女では無い。多少機嫌が悪くなろうとも構うことは無い。

 構ってもらえないと分かった朋哉はベッドを軋ませて横たわった。

「……なぁ、単位大丈夫かな」

 彼の声は背を向けていたせいか少しトーンが落ちて聞こえた。

 朋哉本人は悪童で鳴らしているつもりらしいが、その割に講義の出席率は高い。それで言えばよっぽど僕の方が怪しい。今ここに居るのも響くと言えば響くだろう。とはいえ、朋哉が気にする程で無いことは確かだった。

「優しい言葉でも掛けて欲しいのか?」

「そうじゃねぇけど」

 言葉に詰まった様子で「迷惑掛けたな」と言った。

 この程度、なんとも思っては居なかったが、平静を装うとも無く繕って、高くつくぞという旨のことを言ったが、朋哉には聞こえていなかったかも知れない。

 平然と絞り出した声があまりに小さくて。

「泣くなよ」

 朋哉はまだ後ろを向いていた。

「泣いてないって」

 僕も窓の外を見たままだった。

 しばらくは何か、恐らく空調の低い唸りだとか、窓に吹き付ける風の音だとかが室内を満たしていたが、どちらからと言わず飛び出した「そういえば」を呼び水にして、俄に言葉が溢れた。

 それからは比較的明るい話題が多かった。担当の看護師さんが年嵩ではあるがきれいだとか、彼の弟からの結婚報告のメールだとか、宝くじで三等が当たった話だとか。

 どうでも良い幸せで、沈黙と一つの不幸を埋めるのに僕らは躍起になっていた。その甲斐あって滞りがちな時間は流れてくれて、やがて面会時間が終わった。

 朋哉は別れ際に、またなと言った。

 僕も、ああと頷いた。

 空になった手で病室を閉めた時、扉の向こうのカーテン越しで夕日を眺める朋哉の後ろ姿が目に入った。

 薄ら暗くなった廊下を足早に過ぎ落ちるように階段を降りて未だスイッチと格闘している『松代』老人を横目に病院を抜けるとカメムシの匂いのする外に出てあの窓の下を通り野ざらしになったままのバイクにブルーシートを掛け直すとすぐに自転車に跨がった。

 夕日を受けて赤く染まった、朋哉の頭の包帯と、バイクの隻眼。

 纏わり付いた物を振り払うように、ペダルを強く踏み込んで、沈んだ太陽を追いかける僕はただ、帰路についた。


 例のあのバイクは結局廃車になった。

 朋哉の両親が縁起悪さを嫌って、渋る朋哉に有無を言わせず強行したらしい。今では屑鉄の山に眠るか、生まれ変わって峠や町中を走っているだろう。何分昔のことだから、それがまた鋳溶かされているということもあり得るかも知れない。

 そんなことをふと思い出したのは、洗濯機のゴミ取りネットを浚っている際に小さな怪我をした為だった。

 まるで記憶の棘が刺さるように、なんて言うと聞こえは良いが、ポケットに収めたまま時間の渦に呑まれて行方も知れず、洗い流された十年越しの不注意が今になって牙を剥いたに過ぎない。それだけの間、ネットを清掃しないでおいたのもまずいことは間違いないか。或いは慣れないことはする物ではないというメンタリティが招いたしっぺ返しとも言える。

 綿屑でぱんぱんになったネットの中に一片の光の粒は紛れていた。降り積もった記憶を赤く染める思い出は、過ちであり、形見。

 形見と言っても朋哉のでは無く、あくまでバイクのである。帰る場所を無くした断片はかつての誰を映すとも無く、ただ触れる指先を傷つけた。しかしその刺激は呼び水として十分だ。

 思い立った僕は行くことにした。自転車でも無論バイクでも無く、自動車で乗り付けたその場所は例の病院。

 指を切ったのは確かだが、車を出してこんなところまで来る緊急性は無い。実際、車を走らせている内に絆創膏の下ではもう裂け目が引っ付いていて、痛みも然程無い。自然に治る物。強いて言えば洗濯槽の中で醸成された菌が入って化膿する恐れがあるくらいだが、夜中に見通しの悪い道を通るリスクの方が幾らか高いだろう。

 それに、こんな傷一つを診てくれるのかはさておくにしても、常ならば時間外受付はしてくれない。

 なので僕は怪我を治しに来たのでは無い。別に何をしに来たという訳でも無い。親友が入院している訳でも、身内に不幸があった訳でも無い。

 端的にただ、来たくなった。

 そんな理由でガソリンを無駄にするのは環境破壊も甚だしいが、町外れに出て山間の間道を十分ほど。記憶より短いドライブの末、駐車場に車を入れた。

 バイクはどこにも駐まっていない。

 それ以前に、車の一台さえ駐まってはいない。

 なので車庫入れの下手な僕でさえ、何の問題も無く駐めることが出来た。頭から突っ込むでも無く、バック駐車で、スペースを律儀に守って、過去と今を重ねる位置へと丁寧に車を納めた。

 嘘だ。豪快に枠内からはみ出していた。

 四五回切り返しを繰り返して、寧ろ最初よりの悪化に諦めた僕はエンジンを切った。

 ヘッドライトが消えると辺りは真っ暗。人工の光は殆ど見えない為、車載灯を握りしめて車を降りた。

 星がよく見える。雲はかからず月も煌々としていた。見上げた視界では、どの窓も閉まっていた。誰かが手を振っているようなことも無い。

 当然か。

 正面玄関まで行くと、手動ドアと化したそれを押し開き、中に入る。開けた扉をそのままに正面の受付に行くが果たして、人はいない。

 僅かに入り口から差し込んだ月光や星明かりがリノリウムの床で反射して、空間は薄ぼんやりとしている。闇の中へと続く廊下の奥はどこからか迷い込んだ微光で濡れていた。床を叩いた反響音も水を打つようで、どこか地下水道を進んでいる気になった。匂いに湿っぽさは無く乾燥していたが。

 エレベーターは朋哉の見舞いに来ていた頃と同じく、相変わらず動かないままで、どのランプも灯っていない。

 あの『松代』老人は今どうしているのだろう。

 そんな気懸かりは、上階へと続く段々の闇に溶けて消えていった。

 二階、三階、四階。踊り場を過ぎる度に、折り返す下層階の開口部に視線を感じるのは気のせいだろう。こんな時間のこんな場所に人など居る筈が無い。

 無い筈、というのは違うだろうか、現に自分は居るのだから。

 四階階段室を出て左手、エレベーター前休憩スペース。自動販売機は既に無く、寂しげな空間の奥の扉は開いていたが、暗くて何も見えなかった。踵を返し反対方向へ歩き出す。階段を上るときから自分の足音が気になっっていたので、少し抑えめに歩いた。

 白か黒かも曖昧な壁に左手を走らせながら進むと、何番目かの凹凸に腕が引っかかり、足が止まる。

「着いた」

 思わず呟き、向き直った扉の向こうは“四一五”の病室。

 ここに来るまで僕は誰とも擦れ違わなかった。擦れ違ったとしたら、それはそれで問題なのだが、ともかく誰と顔を合わせること無くここまで辿り着いた。思えばあの日もそうだった。僕に気付かない『松代』老人も含めて、僕は誰と向き合うこともしていなかったのだ。

 だから、僕はその扉を開いた。

 カーテンの無い窓際に一台のベッドがあり、丁度月明かりがその上を照らしていた。

 誰も居ない。

 彼女は居ない。無論、朋哉も居ない。

 僕は部屋の中に足を踏み入れた。

「来ないで」

 と、彼女はあの時そう言っていた。押されるように押しつけられるように、その場から動けなかったあの時とは違って今は前に足が伸びて、病室の床を確かに踏みしめた。

 ベッドが近付いてくる。

 いや、あくまで僕がベッドに近付いているのだけれど、近くて遠かったその上には、一羽の折り鶴が鎮座していた。座っているのか立っているのか、羽を広げて或いは羽を休めてその場所に居る鶴に、僕は見覚えがあった。

 覚えはあったが憶えていたのでは無く、思い出した。

 これも呼び水なのか、それとも呼び声なのか、故意に忘れていた物が血のように滲み出してきたのだろう。

 折り鶴を手に取った。

 歪んだ嘴と不揃いな翼。その感触には妙な馴染みがあり、予感は確信に変わる。

 間違いない。

「これを折ったのは、僕だ」

「そうなの」

 僕の呟きと同時に、声が聞こえたような気がした。だが入り口を、部屋中を、ベッドの下を、クローゼットを、見回してみてもそこには誰も居なかった。

「気のせいか」

 畳んだ鶴をポケットに入れ、僕は期待外れの安堵を残して入り口へと足を向けた。そして、背後で風が吹いた。僕は振り返る。

 窓が開いている。無かった筈のカーテンがあり、戦ぎながらベッドの上を、そこにある筈の無い影を映し出していた。

「****!」

 叫んだ。

 ここが病院であることも忘れて、大きな声で叫んだ。突き出した舌は縺れて、張った喉は解け、何と言ったのか分からない。僕以外には。そして、その闇夜の紗幕の向こう側に居る誰かにも或いは届いたかも知れない。

 僕が足を踏み込み、手を伸ばすと、そこには空っぽのベッドだけがあって空を掴んでいた。顔を上げるとカーテンは無く、窓は閉まっていた。しかしよく見ると、そこには硝子が無かった。

 風はここから吹いていたのだ。声は風鳴りで、カーテンは音と触覚の共感覚から引き出されたフラッシュバックだろうか。

 僕は立ち上がると、今度こそ部屋を後にした。

 廊下はやはり暗くぬめった光を帯びていて、何か胃カメラで映した食道のようだった。足が融けていくような感覚さえする。完全に崩れ落ちる前にと、僕は足を速めて階段を駆け下りる。途中、かち、かち、かち。と、呼吸音の様な規則的な音が聞こえた。

 僕は気にせず一階にまで辿り着くと、受付を通り過ぎて入り口の手動ドアを押し開き外に出た。

 月は雲間に隠れて、より世界は曖昧になっていたが夜明けが近いのか、若干、空が白んでいた。空だけで無く、辺りも薄く靄が掛かって見えた。

 急ぎ足で車に乗り込むと、僕はポケットからキーを勢いよく引っ張り出してエンジンをかけた。エンジンはすぐにかかり、ローに入れること無くセカンドで発進した。

 木々はぐんぐん過ぎ去り、帰路を車が辿っていった。


 やがて家に帰り着いた僕は、家の鍵を取り出そうとポケットに手を入れた際、何かが無くなっていることに気が付いたのだが、一体何を無くしたのか全然思い出せなかった。

 思い出せないと言えば、川沿いの道を走っている時のことだっただろうか、向かいから光点が一つだけ走ってくるのが見えたのだ。何というのだろう、まさかというような予感がして身構えたが、それは何のことは無い。ヘッドライトの片方が切れた軽自動車だった。

 あんな時間から、どこへ行くのだろうか、あの先にはそういえば何があっただろう。

 僕は、何かを忘れながらに、眠りに着く。

 いつの間にか指に絡みついていた絆創膏の下には傷があるらしかった。

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