駿州争乱(十一話〜二十七話)の登場人物・反北条(セリフがあった人)

大友義統(1558〜1605)

大友宗麟の子。朝鮮出兵にて、失態を犯し改易。後に関ヶ原の戦いと同時に発生した石垣原の戦いで黒田官兵衛に敗北し、出羽国に流罪となる


島左近(1540〜1600)

石田三成の家臣。本名は清興。それ以前は筒井家に仕えていた。関ヶ原の戦いで奮戦し鉄砲の銃撃により討ち死にした。当時、戦った黒田兵は、あまりの恐ろしさに左近について何もおぼえていなかったという


細川忠興(1563〜1646)

細川藤孝の嫡子。短気で知られている。息子を殺したりだとちょっとヤバい人。妻は明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ)少しヤンデレ気質があったようで、彼女を見ていた植木職人を斬り殺したりしている。


真田昌幸(1547〜1611)

真田幸隆の三男。兄の信綱と昌輝が長篠・設楽原の戦いで討ち死にしたため、真田家の家督をついだ。天正壬午の乱を目敏く生き残りついたあだ名は【表裏卑怯のもの】。徳川家康を二回破っており、特に36000の徳川勢を相手に大太刀回りした第二次上田合戦は有名。関ヶ原の戦い後、高野山に流され、その地で病没した。


真田信幸

真田昌幸の嫡子。妻は本多忠勝の娘、稲。関ヶ原の戦いでは、東軍につき、真田の家名を残した。天草島原の一気に出陣するなど戦術にも優れていた。


真田信繁(1567〜1615)

真田昌幸の次子。通称幸村。関ヶ原の戦いでは兄の信幸は徳川家康についたので、自身は父のいる豊臣秀頼についた。昌幸病没後は、大阪の誘いにより、大阪の陣に参戦。家康をあと一歩まで追い詰めた。ついた渾名は【日の本一の兵】


依田康国

依田玄蕃の嫡子。家康に気に入られ、松平の姓を授かるも、小田原征伐時、上野石倉城を攻略中、戦死した。


上杉景勝

長尾政景の子で上杉謙信の養子。同じく謙信の養子の景虎に御館の乱にて勝利後は上杉家当主となる。笑わない人だったらしく、家臣の前で笑顔を見せたのは猿が景勝の真似をしているのを見た時の一回のみだったという。


直江兼続

樋口兼豊の子で直江景綱の養子。景綱死後、景綱の妻、お船を娶り、直江家を継ぐ。長谷堂城の戦いでは、見事な殿を務め、無事、会津城に帰還した。景勝の軍師


長谷川秀一(不明〜1594)

信長の近習として仕える。荒木村重に小便をかけ、謀反の原因を作ったとも言われている。朝鮮出兵にて病を患い病死した


長宗我部元親

長宗我部国親の嫡子。四国統一まで後少しまで行き、ついた渾名は土佐の出来人、鳥無き島の蝙蝠。嫡子の信親死後は、政治に興味を失い、長宗我部家滅亡の遠因となった。


長宗我部盛親

元親の四男。元親に溺愛され、長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍につき、改易された。その後は大坂の陣に豊臣方として参戦し、奮戦するも、敗北。戦後処刑された。


九鬼嘉隆

信長の配下。九鬼水軍の長。木津川口の戦いなどで毛利水軍と戦っていた。第二次木津川口の戦いでは鉄甲船を率い、毛利軍を破った。関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後自害した。

九鬼守隆

九鬼嘉隆の嫡子。父と違い、関ヶ原の戦いでは東軍につく。戦後、父の助命を願い赦されるも、すでに嘉隆は自害していた。


小笠原貞慶(〜1595)

名門小笠原氏の当主、小笠原長時の子。武田信玄に圧迫され、各地を流浪する。小田原征伐で手柄を立てるも、尾藤知宣を匿った罪で改易に。後に家康に仕える。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る