次代の礎(二十七話〜四十八話)の登場人物・豊臣方(セリフのあった人)

蒲生氏郷(1556〜1595)

伊勢松坂城主。幼少期は織田家の人質となるも、その才を認められ、信長の娘、冬姫を娶った。将来を渇望されたが、僅か四十歳で病没する。非常に名君だったと言われている。


蜂須賀家政(1538〜1639)

蜂須賀小六の嫡男でのちの阿波徳島初代藩主。小田原征伐時は韮山城攻城戦で先鋒を務め、手柄を挙げた。気づいていない人も多いと思うのでここに記述するが、この物語の中では掛川城攻城戦にて戦死している。


堀秀政(1553〜1590)

越前北庄城主。信長や秀吉に仕えた。当初文官として活躍していたが、後に戦場で活躍するようになる羽柴姓を始めて下賜されるほど秀吉に優遇されたが、小田原征伐の最中に病死した。


池田輝政(1565〜1663)

池田恒興の嫡男で播磨姫路藩初代藩主。姫路城を築いたことでも有名。兄の元助と父の恒興が小牧長久手の戦いで戦死してしまったので家督を相続した。関ヶ原の戦い時は福島正則と激しい功の争いをし、一番乗りを果たすも、正則と同時に攻め入ったことにしたという。


立花宗茂(1567~1643)

大友家の家臣である高橋紹運の子で立花道雪の義子。西国無双と呼ばれるほどの活躍をした。関ヶ原では西軍につき、領土を没収されるも、後にその力量を惜しまれ、復帰する。

西軍の中で元の領土に復帰したのは宗茂のみである。


立花誾千代(1569〜1602)

立花道雪の娘で立花宗茂の夫。武勇に優れ、民に慕われていた。加藤清正はそのことを知り、小西行長の領土に入る時に誾千代の領土を避けたと伝わっている。宗茂とは不仲だったと言われているが、不仲ではないと言えるようなエピソードが数多い。


織田秀信(1580〜1605)

織田信忠の子で信長の孫。三法師だと知っている人も多いのであろうか?清洲会議にて織田家の家督を継ぐも、実質は秀吉の傀儡だった。関ヶ原の戦い時は岐阜城を守るも、福島正則らに落とされた。その後は高野山で自害したとも、病死したとも伝わっている。

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