第4話
翌日。
通学電車の中で、陽人はずっとスマホの画面を注視していた。
周囲には同じ格好の学生や会社員もいて特に不審な動きではないが、隣に美少女がいて──距離感からすると恋人のように見える──退屈そうにしているのに、難しい顔でスマホを弄っているのは嫉妬交じりの反感を呼ぶ。特に、同じ学校の、今年から同じクラスになった男子などの。
ドアに凭れていた二人のところに、別なドアの近くにいた男子高校生が近付いてくる。ブレザー制服の胸元の校章は、陽人や千景と同じものだ。
「おはよう、藤原さん」
愛想よく挨拶する男子に、千景も愛想のよい笑顔を浮かべた。
「おはよう、えっと……上岡君、だったよね? 同じクラスの」
千景の声で漸く他人の接近に気付くほど没頭していた陽人は、今年度からのクラスメイトという微妙な距離感の知人に、愛想笑いと共に片手を挙げて挨拶する。向こうもそんな感じの返しだ。
それきり、陽人も上岡も互いに興味を失ったように、一瞥も呉れない。陽人はまたスマホと睨めっこだ。
仲の良い友人とはクラスが別になり、いつの間にか女子グループに千景を取られた陽人は、クラス内で特筆して仲の良い友人がいない。
原因の半分は、剣道部でもないのに木刀の入った竹刀袋を持ち歩いているからだ。まさか遅れて罹った中二病でもあるまいし、素行不良だと思われている。たまに職質を喰らっても「藤原剣道道場の門下生です」と言うと、景虎が元警官ということもあり、所轄内にも門下生が多いから「あぁ、あそこの子ね」と放免されるのだが、それをいいことにずっと携帯しているからだ。
流石に校内や家の中では持ち歩いていないが、通学路だけでも見ている者は多いし、教室の机の横に立てかけてあればクラスメイトは全員気付く。原因の半分は、それだ。
残りの半分は、陽人がたまにブツブツ独り言を言って、何ならくつくつと喉を鳴らして笑ったりしているから。気味の悪い奴──それを目撃した生徒からじわじわと噂が回り、気色の悪い奴だと思われ始めているのだ。
言うまでもなく、誰も聞いていないと思って仄火と喋っている陽人が悪い。去年、高校一年生の時は注意していたのだが、二年生になって慣れが出た。完全に油断している。
「藤原さんたち、いつもこの電車なの?」
「ううん、いつもは一本早い電車だよ。今日は陽人くんが寝坊したから」
自分の名前を呼ばれて意識を引き戻され、『寝坊』という単語に責められた陽人は、スマホから顔を上げて千景の方を見た。
怒ってはいない。むしろ、柔らかな笑みの形に細められた双眸は、親しみと揶揄の光を湛えている。
「あ、二人とも、いつも一緒に登校してるんだっけ。家、近いの?」
上岡は何の気なしに尋ねたようだが、陽人も千景も気まずそうに口籠った。
「近いというか……」
二人は顔を見合わせ、苦笑を交わす。
中学の時にクラスメイトにバレて「お前ら同棲してんのかよー!」と散々揶揄われた挙句、学校側からも二人と保護者に事情説明を求められ、四者面談までする羽目になったことはまだ忘れていない。が、その一件で、嘘を吐いても意外とバレるという教訓も得ている。
あの時は受験前で陽人が荒れていた──千景と同じ高校に行かないという選択肢は無く、千里も景虎もそれを期待していたから、偏差値を10くらい上げなくてはいけなかった──から問題が大きくなったが、今はもう違う。
「俺、小学生の頃に両親が事故で死んだから、千景の家に置いて貰ってんの。養子じゃないから、所謂居候ってやつ?」
唐突に暗い過去を暴露され、朝の清涼な空気──或いは、学校めんどくせー、という怠惰に弛緩した空気が一気に冷えて重くなる。陽人の語り口調が明るかったのも妙に演技臭くて、禁忌の部分に踏み入ってしまったのではないかと危惧させた。
「あ、そ、そうなんだ……」
気まずい沈黙が流れたところで折よく電車が止まり、高校の最寄り駅であるK駅に着いた。上岡は「後で」とかなんとかボソボソと言って、そそくさと足早に行ってしまった。
陽人と千景は顔を見合わせ、肩を竦めてその後をのんびりと歩く。
「……お母さんに言うよ?」
「今のは千里おばさん直伝のやつだよ。面倒な奴は重いパンチで殴ればいいってな」
中学の時は「そりゃそうだろう」と、文字通りぶん殴って解決しようとしたのだが……その時は千里は大笑いしていたが、景虎が本気で怒った。武術を修める者が自らの鬱憤を理由に拳を振るうとは何事か、と、滾々と、二時間くらい正座で。千里も笑い過ぎだと、途中から横に並んでいたが。
「本気じゃない?」
問われて、陽人は当然と頷く。
「ならいいけど。でも、あんまり寂しいこと言ってると、婿養子にされちゃうよ?」
隣を歩く陽人の顔を覗き込んで言う千景。彼女の目に映る陽人の表情に寂寥の色は一片もなく、素っ頓狂なことを言った千景に引いているようだった。
「なにその斬新な脅し……こわ……」
一番怖いのは、千里ならやりかねないところだ。
彼女は陽人のように刀を振ったり魔弾を撃ったりせず、「ちちんぷいぷい」で妖怪を退治できる優れた陰陽師だが、同時に国家が擁する秘密組織の一員でもある。本人の同意なく戸籍を弄ることも可能なはず。気が付いたら陽人の苗字が変わっていても「あ、遂にやられたんだ」と納得してしまいそうだった。
冗談ばかりではない危惧に二人して乾いた笑いを溢していると、陽人の制服の袖がくいくいと引かれる。仄火だ。
「それより陽人、情報は?」
「あ、忘れてた……授業中にでも調べるか……」
しまった! と眉根を寄せる陽人。
昨日の夜から寝坊する程度には夜更かしして調べて、今朝もずっとスマホを睨み付けていたのは、昨日の失踪事件の情報を調べていたからだ。
何かが起こったとき、妖怪が絡んでいるよりも、人的な事件である可能性の方が高い。それがこの業界での常識だが、どうにも引っ掛かる。直感的に、妖怪絡みだと感じるのだ。
妖怪なんてスピリチュアルなものを知っているから、こういう非論理的な感覚も馬鹿には出来ない。
幸いにして、完全に新種の妖怪が生まれるケースは稀で、既存の妖怪のデータは概ね揃っている。
平安時代、室町時代、江戸時代、それ以前も、それ以降も、今でいう中務庁のような組織が、文筆家や画家たちに命じて資料を編纂して残してくれているからだ。
人間を拉致する妖怪、都市に現れてもおかしくない妖怪という情報もある。あとは、素晴らしき文明の利器たるスマホとネットが頼りだ。
「休み時間に調べなよ……」
呆れたように言う千景の言葉を、陽人は努めて聞き流した。
◇
日中、陽人と仄火は基本的に別行動だ。
大抵は授業を聞いていてもつまらないからと言う理由で、仄火の方から勝手に何処かに出掛けて行く。ごく稀に──主にテストの時──陽人の傍で、問題の解法や答えを囁いていたりするが。
今日はテストではなく、仄火は教室にはいない。陽人の使役術はまだ未熟で、仄火が会話できる距離にいないと発動しないから、これはかなり無防備な状態だ。勿論、学校に行く前に、中務庁のサイトで学校近辺に妖怪が居ないことを確認してはいるものの、ふらりと現れるようなモノが居ないとも限らない。
窓側最後尾というベストポジションの席でスマホを弄っていると、授業終わりのチャイムが鳴った。スマホをポケットに突っ込んで、日直の号令と共に立ち上がって一礼。すぐに座ってスマホを取り出す。そんな動きをしている生徒は陽人ばかりではなく、特に浮いているということはない。
ただ、廊下側最後尾、教室を挟んで反対側の席の千景には、呆れ交じりの苦笑を向けられていた。
「陽人くん、三限、理科室だよ!」
「んー……、ん? 教室移動か!」
スマホ弄りに没頭していた陽人は、空返事から数秒して、かけられた言葉の意味を理解した。
「しょうがないな」と言いたげな千景に照れ笑いを返し、教科書を取り出した時には、彼女は女子グループに囲まれて教室から連れ出されていた。「あんな奴放っておきなよ」と聞こえよがしに言われたので、陽人も中指を立てて応戦する。残念ながら見向きもされていなかった。
まぁバレたらバレたで、今度は「ねぇ中指立てられたんだけど!」と騒ぎ立てられ、爆速で女子グループの中に伝播し、なんやかんやで陽人が一方的に悪いことになって先生に怒られるので、一段落としては悪くない。
目的地が同じなので千景たちの後ろについていくと、ふとポケットのスマホが振動した。
ほぼ全ての通知を無音無振動に設定している陽人だが、例外が五つある。家族三人と、中務庁からのメール、そしてもう一人の“恩人”だ。
歩きながらスマホを見ると、新着メールが一件。緊急タグ付きで、差出人は中務庁陰陽部探索課。
タイトル──緊急警告・至近に妖怪の反応アリ。
「っ!」
息を呑み、即座に教室へ踵を返す。木刀は竹刀袋に入れて、机に引っ掛けたままだ。仄火は下校時間まで合流しないこともあるし、校内にいるとは限らないので、探している暇は無い。
緊急警告メールが来るのは、危険度の高い──少なくとも狐火や転ばせ妖怪程度ではない、実害を出すレベルの妖怪が、地図上で同じ建物内にいるか、半径20メートル以内に入った場合だ。
何かが居る。恐らく、この校内に。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
木刀を引っ掴んで教室を飛び出すと、陽人の後を追ってきたらしい千景とぶつかるところだった。
「び、びっくりした……。ね、陽人くん、もしかして──」
「あぁ、妖怪だ。狙いは十中八九、お前だろうな。いいか、俺を含めて誰に何を言われても、俺の傍を離れるなよ」
妖怪は、自分を視認できる相手を好んで襲う。この学校で妖怪が見えるのは、陽人の知る限り、陽人と千景の二人だけ。
そして獲物が複数いる場合、優れた霊力を持つ方を狙う。
霊力とは簡単に言えばMPみたいなもので、陰陽術や使役術を使うのに必要な力だ。人間であれば誰しも持っているが個人差が大きく、最大値が一定値を超えると妖怪が見えるようになったり、陰陽術に高い適性を示したりする。
一般人を100、妖怪を視るのに必要な閾値を150とすると、陽人は概ね200くらい。陰陽師の平均は250から300くらいなので、可もなく不可もなくといったところだ。
そして千景の霊力は、同じ基準で数値化すると、およそ500から600。
並みの陰陽師の倍近い霊力こそ、千景が子供の頃から妖怪に狙われ、陽人が妖怪狩りに使命感を抱くようになった理由だ。
僅かに目を瞠り、安心したように穏やかな微笑で頷く千景の手を取り、誰もいなくなった教室の扉を閉める。陽人は襲い来る妖怪を、自分の教室で迎え撃つつもりだった。
引き戸に鍵をかけるが、廊下側の壁にも、引き戸にも窓がある。このままでは巡回の先生に見つかってしまう。
「千景、頼む」
「うん、任せて」
乞われた千景は、スカートのポケットから手帳を取り出す。
何の変哲もない掌サイズの、半分は校則の書かれた生徒手帳。いま重要なのは校則やメモ用紙ではなく、前見返しの部分に挟んである一体の紙人形だ。陰陽道に限らず呪術や祈祷術などで用いられる、形代、または形身代と呼ばれるもの。
千景はそれを丁寧に両手で包み込み、深く集中するように目を閉じた。
「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女。九字九神の名の下に我が形代に命じる……」
詠唱に従い、千景の手の内から淡い輝きが漏れる。
どこか神々しくも感じるその光の正体は、活性化した霊力だ。これを見られるのも妖怪を視る才能を持つ者だけだが、怜悧な美貌が蛍や星の光とは違った美しさの明かりに照らされる神秘的な光景を見られると思えば、妖怪に狙われやすいのも「ちょっとしたデメリット」くらいに感じる。
「お前は柊、お前は御簾、尊きわたしを守りたまえ、垣間の目より守りたまえ。急急如律令──!」
詠唱が終わり、千景が手を開く。
直後、吹き荒れる紙吹雪。
たった一枚を手に挟んでいたはずの形代が、数百、或いは千にも届くほどに増殖し、教室の中を席巻する。紙の奔流は大蛇のように踊り狂い、窓ガラスを埋め尽くすように貼り付いた。
内側から見ると補修に失敗した失敗した障子戸か、奇抜なデザインの壁紙にも見える。しかし、外側からは全く無人の教室が見えているはずだ。所謂、結界。
「魔除けは要らないんだよね?」
「あぁ。家並みのやつが貼れるなら是非欲しいけど」
魔除け──妖怪の類を遠ざけたり、侵入を阻止したりする結界もあるが、それは流石に形代一枚を増殖させただけでどうにかなるものではない。
地脈だの、建物の形や立地、方位だのを計算し、土地そのものに刻み込む必要がある。本職の陰陽師5名を要する大儀式だ。中央省庁や皇居などには結界が敷かれているが、ただの私立高校には無い。
藤原家は民家の中では数少ない例外で、妖怪避けの結界が貼られている。その強度たるや、狐火や髪切り虫のような弱い妖怪は、家どころか半径100メートル以内には近付けないほどだ。
だから仄火が陽人の使役妖怪になったときには、それはそれは面倒で煩雑な儀式の果てに家の結界の例外に指定した。
と、まぁ過去の苦労話はさておき。
結界だけでは他人の目から陽人と千景の姿を隠すのが精々だが、陰陽術とは結界だけが全てではない。
「こっちも頼む」
陽人は木刀を横向きにして差し出した。刃が自分の方を向くように、手渡すような形だ。
千景はそれを受け取ると、横たえて捧げるように持ち替えた。
「分かった。九字九神の名の下に命じる。お前は鋼、斧と羂索、黄幡神の名を讃え、悪しきものを祓いたまえ。急急如律令!」
結びの言葉と共に、今度は樫の木刀が淡い光に包まれる。
瞬きの後に千景が手にしていたのは所々ニスの剥げた木材ではなく、磨き上げられ、妖しげな光沢を纏う金属だった。
刃部長89.2センチ。反り3.5センチ。元幅3.7センチ。地景しきりに入り、淡く乱れ映り立つ。
幅広く、長く、しかし薄く軽く、何よりも美しい、日本が誇る名刀。
勿論本物ではない。陰陽術は時に質量保存則さえ無視するが、自分の物でもない物体を、遥か遠方の東京国立博物館から口寄せするほどの利便性はない。
これは所詮、陰陽術によって姿形を投影され、模造された虚像だ。ただの偽物──本物と同じ美しさを持ち、砥ぎ上げられた本物と同じ切れ味を持つだけの贋作。
凶器には十分だ。
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