第5話
覗き窓に掌大の紙人形がびっしりと貼り付いた教室前方の扉から、金属を水のようにすり抜けて教室に入ってくるものがいた。
いやに色彩豊かな着物を纏った、平安時代の女官のような出で立ちの影。
紛れもなく直立二足歩行、人間にだけ許されたはずの動きで教壇に立ち、ゆっくりとこちらを向くのは、毛むくじゃらの顔だ。目の周りには隈取りのような濃い色の毛が生えているが、輪郭はひょろりと長い。タヌキではなくイタチによく似ている。
背中には着物と同じく色とりどりの、大きな袋を背負っていた。装い次第ではサンタクロースにも見えるようなサイズで、人間でも一人か二人は入りそうだ。
陽人は、その外見情報に合致する妖怪を知っていた。
妖怪
平安時代の百鬼夜行をルーツとし、室町時代にはその姿が描かれていたとされる、古く由緒ある妖怪だ。人間に化けて宮中や屋敷の中に入り込み、袋の中に宝を詰めて奪い去っていくとされていた。
しかし中務庁の調査によると、現代日本に棲息する袋貉は財貨ではなく人間を攫う。
取って食うわけではなく、深い森の中や広い荒野に置き去りにして困らせるだけらしい。過去、犠牲者は青木ヶ原樹海や猿ヶ森砂丘に突如として出現し、演習中だった自衛隊経由で中務庁に報告が上がっている。
「千景を攫う気か。お前に殺意が無くても、害意があるならお前を殺すぞ」
「……陽人くん」
刀を構えて威嚇する陽人に、千景はどこか諫めるような声をかけた。
陽人は思わず舌打ちしそうになったのを自制する。
「千景。自分を狙ってる妖怪でも殺したくない、っていうのは、ただの甘えだぞ」
厳しい口調の陽人に、千景は「でも」と言い募る。
「でも、もしも降参したら、その時は見逃してあげて?」
これだ。これが、優れた霊力や才能を持ち合わせる千景が、戦闘能力で陽人に劣る理由だ。……彼女は優しすぎる。甘すぎるのだ。
陽人の戦いを邪魔したり、無理強いすることは無い。陽人を無用な危険に晒すことは、彼女とて望むところでは無いからだ。
だが人語を解さない妖怪が相手でも、自分が狙われていても、話し合いで解決できるかもしれないとか、殺し合う必要はないかもしれないとか、仲良くなれるかもしれないとか、そんな夢を見てしまう。ふわふわした「もしも」の考えが、戦意の刃を鈍らせる。
それが陽人には厭わしく、恐ろしい。
彼女がそんな思考をするようになった原因の一端は、きっと陽人にあるのだけれど。
そんな会話をする二人に、袋貉はニタリと粘つくような笑みを浮かべた。食肉目の牙が裂けた口元から覗く。
そして天井すれすれにまで跳躍し、狐のような動きで飛びかかった。牙の並ぶ真っ赤な口を大きく開けて、邪魔なサムライ小僧を食い殺そうと。
──笑えない状況だ。
物理攻撃の効かない妖怪とか、それでも陽人は霊力があるから攻撃できるとか、模倣大包平という素晴らしい武器があるとか、そんなことはさておき。単純に考えて、相手は人間サイズの食肉目だ。女官風の背格好から考えて、推定体重は約50キロ。陽人と10キロくらいしか違わない。
そのサイズの肉食獣が、獣以上の知性と、本能の域にある悪意と害意を持って襲ってくるのだ。
全く以て、笑えない。
現状を正確に認識した脳は、それこそ野犬や毒蛇に相対した時のように身体を強張らせ、震わせる。
「仄火、千景は任せた!」
本能的恐怖と危機感によって大量分泌されたアドレナリンに思考を妨害され、相棒の不在をすっかり忘れた陽人が吼える。
跳躍する肉食獣は人間大。ちょっとした熊みたいなものだ。妖怪としての特殊技能なんて関係なく、身体性能だけで人間に優越する。
迎え撃つは大上段に構えられた模造宝剣。偽銘大包平。陰陽術によって模倣された「模造品である」ということ以外は全て真作と同等の名刀。
史上最も美しいとされた鋼の煌めきは、ルールに縛られない実戦剣術の動きで振り下ろされる。
微かに残光を曳くほどの剣速。一枚の板に沿うような歪みの無い太刀筋。鎖骨を叩き割り胴体を斜めに裂く殺意に満ちた
獲った──そう確信した直後、毛皮の防御を過信した穴熊を一刀の下に斬り伏せた。
歪に分かたれた半身それぞれから黒い粒子が噴出し、残骸と共に空気の中に溶けて消えていく。
味気のない幕引き。
袋貉は口裂け女よりも格の劣る妖怪だ。無理もない。地に足を付けたまま、運動能力に物を言わせて肉弾戦に持ち込まれると面倒だったが、身動きの取れない空中に自分から跳んでくれて助かった。
「……俺、さっき仄火に話しかけてた?」
「うん。びっくりした。すっかり相棒だね」
恥ずかしそうに照れ笑いを溢す陽人に、千景もくすりと嫋やかに笑う。
決着直後にそんな弛緩した空気を纏えることから明らかなように、二人ともこの程度のことには慣れていた。尤も、慣れているだけであって、脅威であることに変わりはないのだが。
「……あ、結界と刀、ありがとう。もういいぞ」
陽人は照れ笑いを引っ込ませると、深く考え込みながら言った。
──いやに好戦的な個体だった。まさか刀で武装した男に襲い掛かってくるとは。連中は神隠しの原因の一端ともされるが、大概は一人でいる女子供を狙い、拉致する以外で危害を加えることはないと聞いていたのに。
虚像の上書きが解けた木刀を持ったまま思考に耽り、窓一面に貼り付いた紙人形が炎に舐められたように消えていくのを、見るとはなしに眺める。
と、外の廊下を歩いていた巡回の先生と目が合った。最悪なことに、厳しいことで知られる体育の先生と数学の先生、おまけにベテラン女教師の学年主任までいる。下手な言い訳は一瞬でバレそうなメンツだ。
「あっ……」
「うわ……」
こんこん、とノックされ、陽人が渋々鍵を開けると、教師たちは怪訝そうな顔の体育教師を先頭にぞろぞろと入ってくる。
「……何してるんだ、お前たち? 1組は理科室だろ?」
「素振りしてました。そろそろ昇段試験なので。藤原さんは忘れ物を取りに来たらしいっす」
素早く、そして清々しいまでの嘘だった。
陽人は一応剣道二段の保有者だが、ルール無用の剣術に傾倒しているからこれ以上の段位には進めないし、進むつもりも無いから、昇段試験を受ける予定も無い。
「ちょ──」
自分だけ庇われて言い募ろうとした千景を、「余計なこと言うな。嘘ついたら余計に怒られるだろ」という意図を込めた咳払いで黙らせる。
「素振りィ? お前、いま授業中だって分かってる?」
バッカじゃねぇのコイツ、と明記された顔の体育教師に、陽人はヘラヘラと笑う。
小ぶりな熊みたいな妖怪を斬り伏せた後なら、どんな説教でも涼しく受け流せる気がする。或いは、自分でも知らない間に手が出るかのどちらかだ。
「と言うか、絵面だけ見たらカツアゲの現場だな。いや、家族同士でカツアゲなんぞしないだろうが」
「藤原さんはもう行きなさい。高橋先生、一緒に。橘、お前は残れ。……で、ホントにカツアゲとかしてないよな?」
めちゃくちゃ疑ってるじゃん、と眉根を寄せる陽人。千景が断固として「何もされてない。陽人を疑うのは止めろ」という旨の主張を繰り返してくれて何とか疑いは晴れたものの、サボりの罰として、陽人は放課後に居残りで掃除させられた。
◇
私もやるよ、と申し出た千景を無理矢理帰らせて──勿論、帰路に妖怪の出現報告がないことを確認してから──掃除を終わらせた陽人は、校門で仄火と合流し、家とは反対方向に向かう電車に乗った。
「袋貉に襲われた? 攫われそうになった、とか、持ち物を盗られそうになった、とかじゃなくて?」
「あぁ。間違いなく俺を殺すつもりだった。……どう思う? そりゃ千景は妖怪から見ても魅力的だろうけど、邪魔者は殺すってのは妙じゃないか?」
怜悧な美貌に浮かぶ真剣な表情に見惚れそうになりながら訊ねる陽人。小児性愛者ではない彼だが、性愛は催さずとも純粋な美しさには心を動かされる。
そんな視線に気付いていないのか、気付いていて受け流しているのか、仄火は金の双眸を伏せて考え込み、陽人の方を見ようともしない。
尤も、それは陽人が自分の方を向いているからで、陽人が余所見をした時に、怪我は無いかと頭の天辺から爪先までを素早く丹念に確認していたのだが。
「……そうね。妖怪は普通、基本性質以上のことはしない。驚かせる妖怪は驚かせる以上のことはしないし、怨念で殺す妖怪は娯楽では殺さない。妖怪とはそういうものよ」
陽人が自分の方に向き直ると、仄火は自分もたったいま陽人の方を向いた風を装って、落ち着き払って語る。
仄火の答えは、陽人の知識と一致していた。
だからこそ、袋貉──人間サイズの穴熊が『雑魚』と評価されるのだ。普通は女子供を騙して攫うだけで、騙されなければ、或いは正体を見抜けば簡単に追い返せるはずだから。
「例外があるとすれば──」
「──何者かの使役下にある個体は別だ。そういう手合いは主人から知恵を授かったりして、基本性質以上のことをする知性と自我を持つようになる。……そういえば、仄火は俺と出会った時からそんな感じだったよな」
仄火と出会ったのは小6の冬だ。
彼女はその頃から変わっていない。外見もそうだが、知性の面でも。小学生レベルの勉強も、中学校の課題も、受験勉強でも、高校の試験でもなんでもござれの万能家庭教師だった。
狐火妖怪は妖怪の中でも最下級。知性どころか、人の似姿を象ることもできない浮遊する火の玉。たったそれだけで、熱くも無ければ延焼もしない。そういう存在のはずなのだが。
「そうね。でも、私は特別、例外よ。……と言っても、私は特別だ、ということしか分からないのだけれど」
そうだな、と応じる陽人。
中務庁に使役妖怪登録を届け出るとき──書類が三枚ぐらい必要だった──陰陽部で調べられたが、「この弱さはやっぱり狐火妖怪だよね」という失礼な結論が出たのだった。強力な妖怪が擬態しているにしては弱すぎるとか、なんとか。
妖怪が突然変異するとは知らなかった、と研究施設送りになりかけたのだが、そこは
結局、今でも仄火がどうして狐火妖怪の中でも突出した強さを持つのかは分からないままだ。だが、陽人は理由についてそこまで気にしていなかった。
「別にいいよ。お前が特別じゃなかったとしても、仄火が仄火であるだけで、俺にとっては特別だ。相棒」
陽人が右手の拳を挙げると、仄火は小さく傷一つない白い拳をこつりと当て、照れと呆れの綯い交ぜになった微笑を浮かべた。
「……自分で言って照れないで頂戴」
「ふふ、ごめん……ふふふふ……」
アニメの主人公みたいなコト言っちゃった、と我が事ながら照れ臭くなる陽人。
照れ笑いを満面に浮かべていたし、頬だけでなく耳まで赤くなっていた。
仄火もつられたように顔を綻ばせ、「それで」と話題を戻して気恥ずかしい空気を散らす。
「それで、夕魅には訊いたの?」
「勿論。説教終わった直後にメールしたよ。でも、なんか忙しいみたいだった」
中務庁勤めの恩人であれば何か情報を持っているかもしれないという期待を持ったのは、陽人だけではないようだ。
しかし、陽人は残念そうに頭を振る。それは情報が足りないからという理由ばかりではない。陽人は彼女によく懐いているのだった。
「ふぅん……。それで、今日の案件は?」
「
スマホの画面を見せると、仄火は「チョロい相手ね」と言わんばかりの退屈そうな表情を浮かべた。
絡新婦は袋貉と同じく、主に人を攫う妖怪だ。ただ、こちらは純粋に食うために拐かす。
名前の通りジョロウグモの妖怪変化であるとされ、人間、特に美しい女に化けて男を誘惑したり、貴婦人に化けて「娘が貴方を好いている」などと甘言を弄して巣の中へ誘い込み、喰らう。
虫である以上は火に弱く、陽人と仄火は何度か討伐の経験がある。人間態を持つ妖怪は急所が露骨で好きなのだ。
ただ、陽人にしては珍しい選択だった。
陽人の依頼選びには二つの傾向がある。
一つは勿論、自分と仄火の二人で問題なく勝てる相手であること。もう一つは、学校と家の近くに出没する個体であること。妖怪狩りは小遣い稼ぎにもってこいだし、陽人は可能な限り多くを助けたいタイプだが、優先順位は決まっている。最優先は千景だ。
「どういうチョイス? 家とは反対方向……待って、この場所って確か」
いつもの陽人の狩場からは離れた場所だ、と不思議そうに首を傾げた仄火だが、地図を見た瞬間にピンときたようだ。その地図に見覚えがあるのだろう。昨日の夜から、陽人が頻りに見ているものだったのだから。
「あぁ。例の高校生拉致事件の現場から、通りを挟んで向かい側だ。露骨に怪しいだろ?」
「……怪我人以上の被害を出した妖怪は祷祓課の駆除対象でしょう? サイトに残ってるなら違うんじゃない?」
この絡新婦こそ、高校生拉致事件の原因ではないか。そう考える陽人だが、仄火は懐疑的だ。
祷祓課の陰陽師は精強だ。
過去に彼らの駆除対象になり、その後で人間を害せた妖怪も、7時間以上の逃走に成功した妖怪も存在しない。絶対数が少ない故に殲滅力はないものの、害意に対する殺意、応報への執念はマフィアを彷彿とさせる。
そんな彼らが、実害を出した妖怪の駆除を外注するとは思えない。これが妖怪の仕業であるのなら、陽人の直感なんかより確実な証拠を基に、必ず動いている。
電車が止まり、空気の抜けるような音を立てて扉が開く。
ホームの看板と地図に記された駅の名前が同じであることを確認して、陽人はさっと電車を降りる。ホームには市立高校の制服を着た学生たちが沢山いたが、気にせず会話を続ける。ごった返すほどに人が多いと、あちこちの会話が混線していて、独り言はバレにくいものだ。
「かもな。ま、どちらにしても駆除しておいて損はない。俺も千景も関係ない町だけど、妖怪に脅かされてるなら助けないと」
「当然だろ?」と言うように笑った陽人に、仄火は呆れたように肩を竦めたが、何も言わずに陽人の隣に並んだ。
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