第12話

 それは、陽人と千景が小学生のころ。

 正月が終わり、六年生の三学期が始まる、ほんの数日前のこと。


 雪景色の夜、陽人は一人、家に続く道を歩いていた。

 時刻は20時を過ぎ、辺りはすっかり暗闇だ。こんな時間に小学生が一人で出歩いているのは、妖怪が見えて触れる、妖怪に障られやすい陽人でなくても危険なことだ。


 しかし、その日はちょうど景虎が警察官時代の同僚と出かけていて家におらず、千里と千景も風呂上りに食べるアイスを買いに出ていた。陽人は留守番を申し出て、誰もいない隙を突いて外に出たのだった。


 夜のパトロール。

 妖怪が家に近づいていないか確かめて、いたのなら退治する。


 「もう中学生になるのだから」と、小学校の先生たちから耳にタコができるほど繰り返されていたから──「もう中学生になるのだからいいだろう」と、論理性のない子供の理屈で、そんな愚行に及んでいた。

 一応、藤原邸には強力な妖怪避けの結界が敷かれている。家の中は勿論、並大抵の妖怪は外壁から100メートル以内には近づくこともできない代物だ。


 だから普段なら何事もなく、何も見つけられずに帰ってきて、もしも千里に見つかったら滅茶苦茶怒られる。その程度のことだった。

 だが──その日は運が悪かった。致命的に。文字通りに、致命の可能性があるほどに。


 「……ん?」


 空に、星が瞬いた気がした。

 顔を上げて確認すると、また光が瞬く。空に──明らかに星々よりも近くの、電信柱の高さくらいの空中に。


 目を凝らすと、夜闇に瞬く光に照らされて、一瞬だけ人影のようなものが見えた。

 

 かなり遠くの、民家の屋根の辺りだ。明らかに藤原邸から100メートル以上離れている。……だが、子供の足でも十分に駆け抜けられる距離だ。


 妖怪に違いない。きっと陰陽師が戦っているんだ。

 そう思った陽人は、即座に駆け出す。雪の降り積もった道を走るのは運動神経と身体の成長が噛み合わないことの多い子供には難しかったが、幸運にも──或いは不運にも、一度も転ばずに。


 そして、最悪のタイミングで邂逅した。


 「うわっ!?」


 何かが目の前に降ってきて──落ちてきてバウンドした。

 べちゃっ、と。湿った音を立てたのは、降り積もって部分的に溶けた雪だ。その物体から流血のように後を引くのは黒い灰のような粒子で、湿った音が出るはずもない。


 ちょうど真上にあった街灯の明かりに照らされたのは、金髪の少女──右の脇腹がごっそりと抉れて無くなった、死に体の妖怪だった。


 「な、あ、よ、妖怪、なのか……?」


 見ればわかる。しかし、陽人はその疑問を抱いた。

 狐耳の生えた人間がいるはずもない、妖怪に決まっている。血の代わりに黒い灰が噴き出す人間がいるはずもない、妖怪に決まっている。……けれど、彼女はこれまでに見たどんな妖怪よりも──否、これまでに見た誰よりも、綺麗だった。当時の陽人の価値観と語彙に合わせるなら、かわいかったのだ。


 背格好が陽人と変わらないか、少し年下くらいに見えるのも、理由の一つだ。傷のせいか弱々しく見えて、庇護欲をそそられる。


 「お、おい、大丈夫か……?」


 また分かり切った、馬鹿なことを訊く。

 大丈夫であるはずがない。妖怪の中には優れた治癒能力を持つ種もいるが、傷が癒えず、脇腹の巨大な傷から噴き出す黒い粒子は止まる気配がない。


 人の形をするような妖怪はまだ倒したことがなかった陽人だが、一目見ただけで重傷だと分かる。もう長くない? いや、今すぐにでも死んでしまいそうだ。


 少女は何も答えない。答えられる状態ではないのか、その意思がないのか。

 答えがないことに気づく余裕さえ、陽人にはない。

 

 「だ、大丈夫か!?」


 死んでしまう。

 その一言だけが頭の中を駆け回り、他の正常な思考の全てが吹っ飛ぶ。意味のない言葉を繰り返したのはパニックのあまりだ。


 尤も、ここで冷静に「助けを呼んでくる!」とか、「俺に何かできることは!?」なんて言っていたとしても、この後の展開には全く影響がなかったのだけれど。


 「──いいや、大丈夫じゃあない。大丈夫であっては困る」


 たった一声。街灯の光が当たらない闇の中からのただの一声で、陽人の動きは完璧に静止した。

 それは地の底から響いてくるような声だったのに、どこか嗜虐心に満ちた愉悦を孕んでいた。


 そして直感する。──、と。


 この声に逆らっては駄目だ。

 この声に従っては駄目だ。

 この声に近づいては駄目だ。

 この声から逃げなくては駄目だ。

 この声の前で迂闊に動いては駄目だ。


 この声の主は、。存在してはいけないやつ、ではなく。そいつの前に立っては駄目なやつだ。

 

 恐怖で硬直した身体は一ミリも動かせない。そのくせ、勝手に震えて止まらない。


 気が付くと、陽人は金髪の少女を背中に庇うように振り返っていた。全くの無意識に──これまでずっと、千景に対してしていたように。


 「ほう。オレに抗うか、小僧」


 嗜虐心に満ちた声と共に、牙を剥き出しにした凶悪な笑顔が街灯に照らされて現れる。

 その顔は陽人が見上げるほどの高さで、背丈は二メートル以上あった。筋骨隆々の体格、額には二本の角、全身の肌は血のように赤い。赤い──鬼。


 「お、鬼……!?」


 震えた、か細い声を聞く。それが自分の声だと、陽人はすぐに分からなかった。


 自分の声すら、発声の自覚すら判然としないほどの恐怖心が沸き上がる。


 鬼とは、数ある妖怪の種の中で、種族的には最強とされる。

 人間がそうであるように種族の中でも個体差があり、強さにもムラがあるものの──結局、単純に、腕力が強くて再生能力があるというシンプルな強さが、人妖を問わず恐れられる“強さ”だ。その上、個体によっては妖術まで使えるというのだから恐ろしい。


 当時小6だった陽人どころか、今の高2の陽人でも手も足も出ないような相手だ。それが──二人。


 「見られたのなら殺すしかないけれど……子供を殺すのは胸が痛むわね」


 もう一つ、声。

 冷たく暗い湖の底から届いたような、一片の温度も感じられないような声だ。およそ人間から出てはいけないようなそれは赤い鬼のものより高く、女性的だった。

 

 ややあって姿を見せたのは、一本角の青い鬼。

 赤い鬼よりも背が低いが、双眸に湛えた光は赤鬼の何倍も冷酷だった。


 赤い鬼は鉄の斧を、青い鬼は錫杖のような棒を持っているが、どちらも少女の脇腹を凄惨に抉り飛ばした武器には見えない。錫杖の傷にしては大きいし、鬼の膂力で振るわれた鉄斧は少女の体など容易く両断するだろう。


 「な、仲間割れ……?」


 少女は確実に妖怪。だが鬼が人間であるわけもないし、陰陽師が使役しているのなら、見られたから殺すというのはおかしい。陰陽師であるなら誰しも、人手不足の深刻さを知っている。妖怪が見えるのなら、むしろコミュニティに引き入れて育てようとするはずだ。


 だから陽人の推測は、恐怖で思考が回っていない直感的なものにしては非常に正確なものだった。


 だが、赤鬼は凄惨に笑い、青鬼は不愉快そうに陽人を眇める。


 「「不正解」」


 二つの声が揃う。

 そしてそれ以上の問答をする気はないらしく、青鬼の方が一歩、陽人に向かって踏み出した。


 瞬間、陽人の体を標本のように釘付けにしていた緊張感が爆発した。


 剣道をしているとき、極限の集中によって意識が加速し、身体の動きが意識に遅れるという経験はあった。

 しかし、今の状態はそれとは真逆。自分の意識が鈍重に感じるほど、身体が素早く動いていた。


 自分でも何をしているのか分からないままに金髪の少女を抱きかかえ、家の方に向かって全力疾走する。溶けてから再凍結した雪の積もる悪路であることを感じさせないほど、陽人が後にも先にも経験したことのない超健脚だ。鍛えているから同年代の少女を抱きかかえることはできても、その状態で走れるかどうかは未知数だったが、極限の恐怖がリミッターを外したのだろうか。


 そして。


 「……いい子なのね。ご両親には、綺麗な死体を遺してあげるわ」


 走る身体が、視界が、かくん、と下がった。

 それから何歩か、5メートルくらい走り、走りづらいことに気付いたときには、少女も自分の体も投げ出すような形で、不格好に、そして豪快に転倒していた。


 地面を転がって小さく呻く少女に、陽人は慌てて「ごめん!」と叫ぶ。そして急いで立ち上がろうとして──両脚の膝から下が無くなっていることに、遅ればせながら気が付いた。


 「──え?」


 雪の道に、点々と赤い跡がある。視界が下がった辺りから、ちょうど五メートルくらい。その辺りの側溝の近くに、着ているズボンとよく似た下地の、赤く汚れた塊が落ちていた。


 「え……?」


 膝の下から激痛が上がって

 本来感じるべき痛みが大きすぎて、脳の防衛機能で感覚が遮断されたと言われても納得できるくらい、何の感覚もない。


 しかし自分の足が半分無くなっている光景は衝撃的で、小学生であることとは全く無関係に理解不能だった。痛みは無くとも衝撃と恐怖で泣き出さなかったのは、その理解不能さ故にだった。衝撃も恐怖も、何もかもが理解されずに脳の表層を上滑りして飛んで行った。


 「……なんだ、もう終わりか? 不甲斐無い」


 興覚めだと言わんばかりに溜息を吐く赤鬼。全力で走っていたはずなのに、二人の鬼は散歩のような歩調で陽人たちに追いついていた。

 青鬼はつかつかと歩み寄ってくると、どこかから水瓶を取り出し、その中身を陽人の足へ垂らす。


 水のように透き通り、殆ど粘度のない内容液は、夜闇の中で微かにきらきらと輝いていた。星空を映しているように──或いは、水瓶の中に星空があるのではと思わせるほどに美しく。


 そして──気が付くと、陽人の両脚は元通りになっていた。いや、ズボンは膝下で無残に破れ、靴も靴下もない素足だったけれど……その事実が、遠くに転がっている潰れた肉塊と自分の関係性を強く意識させたけれど。それでも、陽人に泣き出す余裕はなかった。


 目の前に鬼がいるというのもある。その恐怖が一番大きい。

 そして二番目は。


 「くっそ……!」


 即座に立ち上がって踵を返し、手を伸ばす先──もう虫の息に見える、金髪の少女だ。


 あの青鬼は陽人を生かすつもりで足をのではない。

 言葉通り、陽人の死体を綺麗なものにするために、欠損部位をのだ。


 陰陽術の類ではない。陰陽術に、そのレベルの物理的負傷を治す術は無いと聞いている。


 そんなことが出来る奴と戦ったって勝ち目はない──尤も、相手が鬼というだけで勝ち目はゼロに近いのだけれど。ゼロではなくゼロに近い、というのは、鬼に勝てるような第三者、ヒーローの登場を望む弱い心だ。


 弱い──確実な死から目を逸らす、弱い心。


 或いは。


 どんな絶望的状況でも、自分のことも、他人のことも最後まで諦めない、強い心。絶対に絶望には呑まれない、希望の灯火が消えない心。


 きっと誰かが来てくれる。

 それは子供らしい、親や大人の庇護に強い信頼を置く、幼い考えだ。勿論、全ての大人は全ての子供がそう信じられるように、その信頼を裏切らないように在るべきだし、千里も景虎もそれに相応しい大人だ。


 しかし──陽人はそこで終わらない。

 幼稚園に入る前からずっと千景を守ってきた陽人は、その辺りの思考回路が既に完成している。相手が弱い妖怪ばかりだったことは関係ない。


 きっと誰かが来てくれる。だから──と。


 だから諦めない。

 絶対に。何分でも、何秒でも、ほんの一瞬、刹那でも、誰かが来てくれるその時に向かって、なるべく多くの時間を稼ぐ。


 「おい、目を開けろ! ……くそっ!」


 脚を吹き飛ばしたというのに、治した瞬間に立ち上がり、先ほどと同じように少女を抱きかかえて逃走を再開した陽人に、二人の鬼は虚を突かれたように呆然と──或いは感心したように、暫し、放心して立ち尽くしていた。


 普通、足が吹き飛んだら、すぐに治癒させたとしても即座には立ち上がれないはずだ。

 傷がどうこう、筋肉や神経がどうこうではない。水瓶に入っている薬は、その手の後遺症が出ない伝説級の──伝説上の薬液だ。


 だが意志的に、感情的に、立ち上がろう、走って逃げようという気力が起きないはずだ。それなのに、あの子供は。


 思考と感心を、二人の鬼は数回の頷きで嚥下する。

 そしてまた、散歩のような歩調で歩み始めた。


 追撃が。

 再開した。


 「おい、聞こえるか! 俺がお前を助けてやる! だから諦めるな! 目を開けろ!」


 陽人の絶叫が通じたか、少女の閉じられていた瞼が僅かに開く。髪の毛と同じ金色の瞳に見つめられると、陽人の心臓が恐怖とは別のベクトルできゅっと縮み上がった。


 「……わたし、何も……自分が誰かも分からなくて……あの二人は、私が悪いって言うけれど……それでも、助けてくれるの?」

 「そんなの、弱いものイジメしてる奴らの方が悪いに決まってる!」


 即答する陽人。

 道理も状況も無視した子供の論理だが、それはあくまで理由の一端だ。


 それに、と陽人の言葉は続く。少女とはいえ誰かを抱えながら、雪のアスファルト道路を裸足で駆け抜けるのは凄まじい負荷だったが、生存本能が全てを忘れさせていた。全力疾走で酸欠気味にもかかわらず、まともに口が利けるのはそのおかげだ。


 「それに、俺はお前が良いヤツだと思ったから助けたわけじゃない! そんなこと考えてるヒマなかっただろ!」


 なかっただろ、と言われても、殆ど気を失っていた少女が知るわけないのだが、陽人は共通の理解が得られた前提で言葉を続ける。


 「助けたいと思ったから助けんだよ! 誰かを助けるってそういうものだろ!」


 幼稚なエゴイスティックさに満ちた叫び。

 誰かにとっての善は誰かにとっての悪である、という当たり前のことも知らない子供の論理だ。誰かに“悪”と断じられることの重みも、あの鬼たちが何者であるかも、腕の中の少女の名前さえ知らない、故に、純粋無垢な絶叫だった。


 自分が誰かも知らない少女が、心を動かされるほどに。






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