第16話
百鬼夜行──幾多の妖怪が列を成し、遭遇した人間を連れ去ったり、通り道にあった集落に地獄絵図を齎す災害。
予測不能。
抑制不能。
対処困難。
個々の妖怪に対処することはできても、百鬼夜行という現象そのものへの対処は不可能だ。最強と名高い陰陽師だった安倍晴明でさえ、殲滅ではなく隠形を用いてやり過ごすことを選ぶほど。
「あれはええ見世物やった。幾十幾百幾千の悪鬼羅刹が狂騒し逃げ惑う。人々は恐れ慄く妖どもに殺され攫われ魅入られ喰われ、妖怪の数だけ、悪意の形の数だけの死に様を晒した。ただ逃げ道の上にいたというだけでなぁ。あんたはんも身に覚えがあるんとちゃいます? 名作と呼ばれる映画は、繰り返し何度も見たくなるもんでしょ?」
本当に楽しそうに──それこそ、推しの俳優が出ている映画を見に行った帰りの千景のような、恍惚とした表情で語る玉藻の前。
顔立ちが完璧に整っていることもあり、普段の陽人なら簡単に魅入られていただろう妖艶な魅力があったが、陽人からは軽口の一つも出ない。
そんな余裕はない。
どうやら玉藻の前は仄火を殺すつもりはないようだが、それは想定され得る最悪の可能性が消えただけだ。陽人も仄火も死ぬ可能性──ほんの二分ほど前までは、実現可能性が最も高かった最悪の可能性が潰えただけ。
いや、それはもはや最悪ではない。
ではなくなった、と言うべきか。
玉藻の前はおそらく、仄火にかけられているという封印をすべて解除し、百鬼夜行を引き起こす大妖怪“空亡”を復活させるつもりだ。或いは目覚めさせる、思い出させると言ってもいい。
今想定される最悪は、その目論見が達成されること。
百鬼夜行が幕を開け、この町に地獄絵図が再現されることだ。
そして、陽人にとっての最悪は──。
「陽人。私一人の魔弾出力ではどうにもならないわ。命令を頂戴」
仄火も気付いてしまった。
空亡覚醒という最悪を避けるための、最悪の手段に──仄火自身の自害という方法に。
仄火の魔弾は、陽人の使役術のバックアップがあっても玉藻の前には通じない。だが──仄火自身の頭を吹っ飛ばすくらいの威力にはなる。
玉藻の前は空亡を利用して百鬼夜行を引き起こし、逃げ惑う妖怪の群れで大量殺戮を引き起こすつもりだ。
なんとも迂遠な傾国の方法だが、単純で物理的であるが故に、対処が難しいのも事実。
だが、トリガーとなる空亡の覚醒を防ぐことが出来れば、百鬼夜行の発動そのものを阻害できる。抑制不能な災害を、抑制することができる。
その方法は二つ。玉藻の前が仄火の封印を解くのを止めるか、或いは──トリガーとなる仄火を消してしまうか。
前者はほぼ不可能だ。
仄火の魔弾も通じないし、白兵戦能力で陽人に並ぶ時点で、そもそも魔弾を撃つだけの隙が作れない。長々と詠唱している間に、逆に頭を吹き飛ばされるのがオチだ。
だが、それを言うなら後者もそうだ。
仄火に限らず妖怪は大半の物理的干渉を無効化する。手元にロープがあって首を吊ったとしても、すり抜けて落っこちるだけだ。ナイフで手首を切ったって、陽人から霊力が供給されている限り、傷はじわじわと癒えていく。
首を斬れば或いはといったところだが、頸動脈まで深々と斬れるほどの刃物は手元にも、手近なところにもない。
だから魔弾で吹っ飛ばすのが確実なのだが──そんな隙は与えてくれないだろう。
「……早く! 百鬼夜行なんて起こったら、千景もこの町の住人も、皆死ぬわよ!」
陽人は苦々しく歯を食いしばるばかりで動かない。動けない。
千景かそれ以外の他人かという二元なら、千景を守ることに躊躇いのない陽人だが、仄火は他人ではない。
千景を含む大多数か、仄火一人か。いや、仄火が死ねば、玉藻の前は用無しになった陽人も殺すだろう。だから仄火と陽人自身。いま突き付けられているのは、そういう二択だ。
物理的にも、心情的にも、陽人は動くことが出来ないでいる。
「貴方、幼稚園に入る前から千景を守ってきたんでしょう!? 貴方の最優先はあの子なんでしょう!? 早くして!」
叫ぶ仄火。
彼女もかなり焦っている。普段の冷静さがあれば、玉藻の前の眼前で魔弾行使を命令するなんて、到底不可能だと気付けるだろうに。
ずっと分からなかった自分の正体が簡単に明かされ、陽人もそれを信じたことの衝撃は、彼女の思考力を大きく低下させていた。
「優柔不断は嫌われる、言うけど……この場合、選ばせるんは酷とちゃう? どっち選んでも大差ないいうことは置いといてな」
言って、玉藻の前はすらりと長い指を仄火に向けた。
陽人や、現代を生きる陰陽師たちのような長々とした詠唱は必要なかった。
元来、“
だから古来、貴人は御簾によって姿を隠し、官名や
そしてその二つに並んでポピュラーな呪詛の一つは、現代でも無礼なこととして習慣づけられている。指を差すことだ。
たったそれだけ。
陽人たちが魔弾を撃つときの指鉄砲よりなお簡易な、ただ人差し指で指向するだけのワンアクション。それだけで、玉藻の前の術式は機能する。
「ッ!?」
仄火の身体がびくりと震える。
それと全くの同時に、陽人は自分でも気づかないうちに地面に横倒しになっていた。
「──っ、は」
息を吸ったのか、吐いたのか、自分でも分からない。
肺が──否、内臓、骨格、筋肉、神経、身体の中身全部がごっそりと抜け落ちたような感覚を、陽人は最後に残された脳で知覚していた。
体は全く何もなくて、重さも無くなってしまったようなのに……頭だけが、異常に重かった。
遠く、仄火が身を隠していた車の傍で苦悶し、身体をくの字に折っている。
それを無感動に見つめる玉藻の前に「やめろ」と言うことさえ出来ず、陽人の意識は暗闇の中に落ちていった。
「無理もあらへんよ。空亡の妖力出力──あんたはんへの霊力要求量は常識外れの桁外れ。一瞬で食い潰されるんは当然や」
玉藻の前はそれきり陽人への興味を失い、激痛に襲われたように絶叫する仄火に視線を戻した。
◇
同時刻──陽人たちから1キロ離れたビルの屋上で、夕魅は双眼鏡を目元に翳しながら煙草を吹かしていた。
耳に付けられたマイク内蔵のイヤーピースからは、絶えず説得の言葉が紡がれている。
『酒々井さん。繰り返しますが、絶対にそれ以上近づかないでください。空亡が覚醒し、玉藻の前との二対一になれば、貴方でも勝ち目はありません』
「五月蠅いな、戦わないって。橘君を助けるだけ。上にそう伝えて」
短くなった煙草を吐き捨て、革靴の底で踏み躙る。
足元にはもう、何本も同じような吸い殻が落ちていた。
ヘビースモーカーではあってもチェーンスモーカーではない夕魅だ。一体どれだけの時間、そこにいて──どれだけのストレスを紫煙と共に吐き出したのか。
『この件に関して、陰陽部は介入できるだけの知識も武力も持ち合わせていません。それが祷祓課長の判断です』
「それは正しい。玉藻の前と空亡を同時に相手取ることになったら、私たちは全滅する。で、それとあの子を助けに行ってはいけないことに、どんな関係が?」
通話の向こう、オペレーターからの返答は無い。
彼女は所詮、夕魅という戦力を効率的に動かすための指揮官ではなく、それと夕魅とを繋ぐ窓口でしかない。
八つ当たりのように、夕魅は続ける。
「陰陽部はデータが欲しいんでしょ。今回、探索課は玉藻の前の隠形を見破れなかった……だから今後のために、玉藻の前と空亡のデータが欲しい。よしんば百鬼夜行が起こったとしても、そのデータを取ったうえで、恐慌状態の妖怪共さえ私たちが始末すれば、それでいいと思ってるんだ」
夕魅の配置は、そういうことだ。
彼女たちの、というべきか。玉藻の前を中心に半径一キロの円を描くように配置された祷祓課の戦闘員は、玉藻の前を捕獲するための要員から、対百鬼夜行要員にそのままシフトした。状況の変化と共に。
「……アンタさぁ、前鬼と後鬼に対峙したことある?」
『は? いえ、ありませんが……』
「そう。じゃあ、どれだけ強そうなのかも、どれだけ怖いのかも、あの怖気が走る正義感も知らないわけだ」
淡々と語る夕魅に、通話口のオペレーターは困惑して黙り込む。
ただでさえ“化け物以上の化け物”とまで言われる夕魅の担当になって、どうしようか戸惑っていたのに、再三の反抗的態度──意見具申とも言うが──に加え、これだ。もう通話を切ってしまいたかった。
「私はさぁ、五年前にあのガキどものために奴らと対峙してんの。死ぬほど怖かったし死ぬかと思ったけど、流石にガキ見捨てて生き延びたら、布団に入るたびに死にたくなる。そんな生き辛い人生は御免だったからさ」
夕魅は新しく煙草を取り出すと、白銀のオイルライターで火を付ける。
バネとフリントの小気味の良い音がインカム越しに聞こえたが、オペレーターが抱いたのは不快感だった。
しかし、不快だというのなら、夕魅の抱いている不快感の方が余程大きい。
「けど、アンタは……アンタらは、そうじゃないってワケだ。たかが外注バイトの学生一人、玉藻の前と空亡相手に全面戦争するリスクに比べたら安い命だっていうわけ」
挑発的な言葉に、オペレーターは。
『──そうだ』
声が、変わった。
いや、声の主は同一人物だ。しかし、声の質が先ほどとは全く違う。
虚ろで、ただ言葉を発するだけの感情なき機械になってしまったような声。
夕魅はその変容に瞠目し、忌々しそうに眉根を寄せた。
この感じは知っている。今話しているのはオペレーターではない──オペレーターの口を使って、別の人物が話している。
人間の遠隔操作。
超の付く高等技術を行使している、超の付く強力な陰陽師。かつて中務庁の立ち上げに最大の貢献をした、先代の長官。名前も性別も年齢も、悉くが秘匿された謎の人物──“陰陽大師”と呼ばれる、今を生きる偉人だ。
『ここで開戦すれば、祷祓課の戦闘員が少なからず消耗する──再起不能級の負傷、或いは死亡する。日本に巣食う妖怪がその二匹だけであるのなら、全力を投じることに異存はない。私も諸君に“死ぬ気で戦え”と命じよう。だが、違う。この国には幾千万の妖怪が未だに息づいている。奴らを一匹残らず根絶するまで、諸君に減耗されるわけにはいかない』
オペレーターの声で紡がれる、意思というものをほとんど感じない声に、夕魅は煙草を咥えたまま舌打ちを漏らす。
音声合成ソフトの類よりずっと人間らしいのに、具体的に何処がどうとは言えない“違い”を感じて気色悪いのだ。
不気味の谷現象に近い。人間のようでありながら人間ではないモノを恐れてきた人間の、本能的忌避感。まるで人間に擬態した妖怪に対峙した時のような、言語化の難しい嫌悪感があった。
そんな夕魅には気付かず、声は続ける。
『君は自分のことを強いと思っている。そして、それは客観的にも正しい。君はこれまでに多くの日本人を救い、これからもそうするだろう。故に、無駄なリスクを負うことは許容できない』
許容? と、夕魅の形の良い眉がぴくりと跳ねる。
現代の道満法師だか何だか知らないが、夕魅が何かするのに誰かの許しを得ることなんてそうはない。
いや……最近は、陽人がうるさいから千景の前で煙草を吸わなくなったけれど、その時だって千里に「丸くなったねぇ」なんて笑われたくらいだ。
一々許可を出されなくとも、夕魅は自分のやりたいように戦い、妖怪を狩る。
それが、半分鬼である彼女の宿業なのだから。
それに、今回はそういう戦闘の本能に端を発する戦いではない。自分を慕う可愛い後輩たちを守るための戦いだ。
『……勿論、君はこの言葉だけでは従いかねるだろう。もう一言、添えておく。“前鬼と後鬼は既に空亡を標的と認識していない”』
そんなことは有り得ない、と、夕魅の知識では判断されることを、陰陽大師は淡々と告げる。まあ、淡々としているのは“人形”を通しているからかもしれないが。
妖怪について夕魅以上の知識を持つ彼女──オペレーターが女性だから、つい“彼女”なんて考えてしまうが、陰陽大師の性別は不明だ──の言葉は、信用に値する。理屈では分かっているが、やっぱり、唯々諾々と従うわけにはいかない。
流石の夕魅でも、一キロも離れていては即座の介入は不可能だ。
「……50メートル地点まで接近し、致命的状況まで待機する」
『許可しよう』
人形のような声は即答した。夕魅がそう言うのを分かっていたかのように。
昏き太陽のセレナーデ 志生野柱 @nyarlathotep0404
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