第15話

 不味い。

 不味い不味い不味い不味い──その言葉が何度も何度も脳内を駆け回り、そのせいで思考が空転する。


 大妖怪金毛白面九尾、或いは玉藻の前。

 超の付くビッグネーム。妖怪についてある程度詳しく、ある程度無知なら、或いは最強の妖怪として名を挙げるかもしれない。


 人間に化け、人間の術を使い、そして妖怪としての性能も極めて高い、傾城傾国の魔性。英雄の軍勢を以て漸く打ち倒せる、怪物中の怪物。


 仄火と別行動中で、よしんば殺されるとしても陽人一人だけなのは不幸中の幸い──ではない。

 仄火と陽人は使役術によって繋がっている。この繋がりを用いて下された命令は強い強制力を持ち、仄火一人の妖力では出来ないことでも、陽人を霊力の外付けバッテリーとして使うことで実現できる。


 使役下にある、陰陽道的には“傀儡”とか“式神”と言われる立場の仄火にはあまりメリットは無い。使役下にある限り妖怪狩りの対象にはならないことくらいだ。あと、陽人のいる方向が分かることくらい。


 今は別行動中だが、もうじき仄火と別れてから十分が過ぎる。

 別れた位置まで戻るのに五分、移動した分を埋めるのに追加で五分かかるとしても、そろそろ合流する頃合いだ。合流してしまう、と言った方が、陽人の苦々しい表情に似合っているか。


 「……妖怪に妙な動きをさせてるのはお前なんだよな? どうしてそんなことをする?」

  

 半ばで綺麗に切断され、刀というよりナイフくらいの長さになってしまった木刀の残骸を構えつつ会話を試み、何とか逃げる方法を模索する。

 大通りには停められた車やバイク、自転車なんかも散見されるが、鍵やエンジンをどうにかしなければ足にはなってくれない。遮蔽物としての有用性は、まぁそこそこか。


 駅までは少し遠いし、まさか電車に乗って逃げるような余裕は無いだろう。まずは撒く方法から考えるべきだ。


 「そない怯えんでも、今すぐ殺したりせえへんよ」


 怯えて尻尾を畳んだ犬でも見るような愛玩の念を滲ませる目で、遥火──玉藻の前が言う。


 噓ではないだろう。

 都市のど真ん中から人間を一人残らず消し去るほどの妖術は言うまでもなく、単純な腕力、白兵戦能力でさえ陽人を上回る。


 情けなく、そして業腹な話だが、玉藻の前が陽人を殺すのに、虚偽詐術の類を用いる必要は全くない。

 いや、もっと言うなら、あの愛玩動物を見るような目──高みから見下ろすような目こそ、彼我の格差をよく表している。


 今すぐ、なんていう辺り、何かしらの目的を遂げたら殺すつもりではあるのだろうけれど、それでもその言葉が嘘ではないことだけは確信できた。


 しかし、そうなると疑問が生じる。

 

 「そりゃまた、なんで? 俺はお前が欲しがりそうな情報は何も持ってないと思うけど」

 「いやいや、情報はもう十分や。もう十分もろうたし、揃っとるよ。欲しいのはの方──あぁ、ちょうどや。隠れとらんと、出ておいで」


 玉藻の前が路肩に停められた車に向かって言うと、その陰から仄火が姿を現した。

 一応は牽制のように指鉄砲を向けて魔弾を照準しているが、使役術のバックアップ無しでは射程も威力も大きく落ちる。まぁ、バックアップがあったとしても、相手は玉藻の前だ。


 仄火の総合的な強さを1とすると、この前の土蜘蛛が3とか4くらい。

 この基準に照らして、玉藻の前は100とか、そんなオーダーだ。


 魔弾が通じるとか通じないとか、そんな話は意味がない。絶対に勝てない。


 「……狙いは仄火か? 天下の大妖怪が、なんで狐火妖怪を……お前、前鬼と後鬼の仲間か?」


 自分で言っておきながら、陽人は内心で自分の言葉を疑っていた。

 そんなことがあるのだろうか──傾国の化け物が、国防装置になった妖怪の仲間などと。


 果たして、玉藻の前は頭を振る。

 愉快そうに──愚かしいものを見る嘲笑と共に。


 「まさか。むしろ逆や。は……言うても分からんか。私は、いう意味なんやけど……まぁええわ。私は、国を滅ぼす化生や。妖怪にはそこそこ詳しいみたいやし、こう言うたら分かるやろ?」


 信頼のような言葉を向ける玉藻の前に、陽人は浅く頷く。


 「妖怪の性質……使役術や妖術で操らない限り、妖怪は自らの行動パターンを変えることは無い」


 玉藻の前は国を弄び、国を亡ぼす性質の妖怪だ。

 口裂け女が犠牲者の口を裂いて殺すように、袋貉が人を攫って迷わせるように、玉藻の前はそういう風にしか動かない。


 それは恐ろしいことではあるものの、陽人のような死んだところで国には何の影響もない一般人を殊更に狙うことは無いという安心感はある。勿論、国を滅ぼす手段として、無差別大量殺人を選ぶ──国民の大半を殺し尽くすということも有り得るのだけれど。


 だから、まあ、つまり。陽人を殺す殺さないとか、仄火がどうこうとか、そんなことは全部、過程の一つに過ぎなくて。


 こいつは今も、国を滅ぼすために行動しているのだろう。


 「そうやね。補足さして貰うと、自分が何者であるかを失念した妖怪も、行動基準を見失う。……なぁ、仄火はん?」


 さも当然のように──或いはひけらかすように、二人を見下して言う玉藻の前。

 木刀の切れ端を構える陽人も、魔弾を照準している仄火も怪訝な顔だ。


 勿論、仄火が“自分が何者であるかを失念した”妖怪であることは分かっている。


 だが仄火の正体は中務庁でさえ……いや、まさか。

 可能性はある。玉藻の前は陰陽術最盛期の妖怪だ。現代の術など児戯にも等しいことを思えば、中務庁の検査なんて、それこそお医者さんごっこみたいなものだろう。


 果たして、玉藻の前は確信に満ちた声で、その名前を口にした。


 「それともこう御呼びした方がええやろか? 大妖怪、百鬼夜行の発端にして終末──空亡くうぼう


 ──それは。

 妖怪などという、大衆的には前時代的な空想の産物の実存を知る陽人をして、なお空想の産物であると断じる名前だった。


 妖怪空亡。或いは“そらなき”とも呼ばれるそれは、百鬼夜行絵巻と名の付く文化財の幾つかに於いて、列を成す妖怪たちの最後尾に描かれた赤い球体……夜を闊歩する行事の終わり、朝の訪れ、つまり、太陽をモチーフとしている。

 それが太陽ではなく、赤い球体状の妖怪であったなら。そういう空想の下に、現代で創作された妖怪の名前だ。


 そのはずだ。


 「学者だか作家だかが創作した、想像上の妖怪……あんたはんの知識やと、そんなところやろか。けど、それは不正解や。そのクリエイターは、考えて空想して、その素晴らしい頭脳を以て──したんや」


 単なる創作。そのはずが、想像ではなく推理になっていた──創作したのではなく、読解した?


 「実在したっていうのか……!?」

 「よう考えてみい。百鬼夜行──あんだけ多種多様な妖怪が、性質も、気質も、人間に向ける悪意の形さえ一致せえへん怪異の群れが、おんなじ方見て同じ方行くワケなんか、一つしかあらへんやろ?」


 出来の悪い生徒にも根気強く指導しなくてはならない教師のような、呆れと倦厭を滲ませる玉藻の前。

 陽人はその侮蔑に気づいてはいたが、何も言わずに思考を回す。


 玉藻の前の問いに答えるためではない。


 どうにかしてここから逃げるため──最低でも、仄火だけは逃がすために。


 「……。それも、何十何百の妖怪を分け隔てなく平等に、そして抵抗の余地なく、完膚なきまでに殺し尽くすほどの上位存在からだ」


 心ここにあらずと見抜かれないよう、必死に表情と態度を取り繕う。

 演技の必要もなく、必死に考えこんだ結果、どうにか答えを出せたようには見えたはずだ。実際、必死に考えているのだから。

 

 「思うとったよりはよ当たったなぁ。流石は藤原千里の息子、言うとこか? あんたはん、妖怪狩りは何年目やっけ?」

 「うるせえよ」

 「あら怖い。……まあ、大概はそういうことや。空亡はいうたら、究極の格下狩り。同じ場所におるだけで、格下の妖怪を焼き尽くして取り込む貪食の太陽」


 その場に存在するだけで、格下の妖怪を殲滅する。故に、妖怪たちは悪意の本能ではなく、生存本能に駆り立てられて行列を為し、逃げ惑う。


 それこそが百鬼夜行。

 空亡出現の先触れであり、余波。


 「……それが仄火の正体だと? はっ、冗談。そんな上位の妖怪を俺なんかが使役できるわけがない」


 さっきから「逃げろ」という意図を込めてアイコンタクトを送り続けているのに、仄火は全く動かない。

 何か考えがあるのか、意地なのか、或いは気付いてさえいないのか。どれでもいい──どれでも、悪い。最悪といっていい。


 正直に言って、仄火が狐火妖怪ではなく空亡だという言葉を、陽人はほぼ信じている。


 本来はただの火球で知恵さえないはずの狐火が少女の姿を象り、分野によっては高校生である陽人以上の知識を見せ、地頭でも陽人に並ぶか超えるほどなのだ。これを“ただの突然変異した狐火”と考えるよりは、大妖怪の擬態だと考えた方がしっくりくる。


 それに、玉藻の前が陽人や狐火を狙うというのは非現実的だが、空亡という強力な妖怪のためだと──例えば、自分の配下にしようとしているとか、そう考えると現実味を帯びてくる。


 だから陽人の会話は、ただの時間稼ぎだ。


 「そら、全盛状態とは程遠いしなぁ。晴明に封印されてから千年やし? 千年った晴明の封印が凄いんか、力の大半を封印されて千年も消滅せえへんかった空亡が凄いんかは、よう分からんけど」


 上機嫌に語る玉藻の前が、あとどのくらい話し続けてくれるかは分からない。


 話し終えるまでに夕魅が来てくれなければ、今度こそお終いだ。


 「実体も意識もない、ただの妖力の塊──“存在”でしか無かった空亡が、ようやっと封印を緩ませて実態を取り戻したんが五年前や。そのほんのちょっとの綻びも、あの前鬼と後鬼には見つかったいうんやから、ほんま恐ろしいなぁ?」


 会話の空隙を察知し、陽人はなるべく沈黙が挟まれないよう──玉藻の前が話し続けるよう、答えの分かり切った問いを口にする。


 いや、極度の緊張下で咄嗟に口を突いたのがそれだったということは、答えを確信していても、それでも認めたくなかったのかもしれない。


 「お前の狙いは、まさか」


 現実逃避か。それとも、この場から逃避するための意義ある問いか。


 前者であるのなら、意味は無かった。

 玉藻の前の答えは、陽人が最も望まない恐ろしい答えだったのだから。


 「そら、空亡の封印解除──や」


 黄金の髪と美しい顔を持つ妖艶な化生は、京言葉の艶やかなアクセントでそう言って、邪悪に笑った。




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