第14話

 ──ちなみに、お詫びの昼食で連れていかれた店はファストフードだった。バーガーじゃなく、チキンがメインのやつ。

 夕魅と千景が来なければ1食6000円のフレンチだったそうだが、これまで食べたことのないような高級ランチでも遥火とサシは嫌だったので惜しいとは思わなかった。


 陽人は別に遥火に対して殊更に隔意は無いのだが、夕魅のことを“化け物よりも化け物”なんて言った時点で、あまり仲良くしたい相手ではなくなっている。何より、あの無機質な真面目さは苦手だ。真剣な話し合いの場なら頼もしいかもしれないけれど、一緒に食事がしたいタイプではない。


 そして遥火に昼食をご馳走になった日から数日。

 仄火と千景と並んで最寄駅から家までの道のりを歩いていた陽人は、今一つ話題に乗れない箏曲の話で盛り上がっている二人の会話に片耳だけ向け、スマホゲームに興じていた。


 いつもは「歩きスマホは駄目だよ」なんて口煩い千里は、仄火と「平安前期に作られた習作譜面が見つかった」とかなんとか興奮気味に話している。注意の散漫具合で言えば同レベルだ。

 そうなると、陽人は逆に周囲に気を配らなければならない。妖怪がいないのは中務庁のサイトで確認済みだが、普通に車や歩行者と接触するかもしれないし。


 いつもは注意されても空返事の陽人だが、今日は「しょうがないな」と言いたげな溜息と共にスマホをポケットに突っ込む。

 雅楽どころか楽器全般に興味がない陽人が話に入ると邪魔になってしまうから、なんとなくきょろきょろしながら一緒に歩くだけだ。


 ──そして、それが功を奏した。


 ちり、と首筋に焦れるような感覚が走る。

 条件反射で竹刀袋に手を伸ばし、鞄を投げ捨てながら木刀を抜き放つ。周囲に人がいないのは幸運だったが、陽人は周りに人がいるかなんて気にしていなかった。


 この感覚──吐き気がするような悪意と害意。妖怪の気配だ。

 それを前にして最優先すべきは、自分と他人の命。いきなり道端で木刀を振り回すやべー奴だと思われたとしても、通報されたとしても、そんなのは全部どうにかなる。だが、命ばかりはどうにもならない。


 神経が焼け付くほどの焦燥感に駆られて木刀を振り抜き──そこには、黒いコートを着込んだ影のような女がいた。


 カッ、と乾いた音と共に、木刀が阻まれる。

 女が両手に持った鎌が樫の木に浅く食い込み、首筋に激突するのを防いでいた。


 口裂け女? しかし。

 思考が疑問の方に逸れかけて、陽人はそんな場合ではないと思い直す。


 「仄火! 千景をうちの結界まで!」

 「っ、了解! 5分で戻るわ!」


 千景の手を引いて駆け出した仄火に、内心で「五分は地味に長い」とぼやく。しかしこういう時、変にゴネないのは二人の良いところだ。

 物分かりが良く、都合が良い。千景は少し夢見がちというか、甘いところがある。陽人が命懸けで仄火という妖怪を助け、今ではこうして相棒になっているからだろうが、それは仄火が特別なのだ。


 陽人には「類似のケースは有り得ない」と断言できるだけの遭遇と戦闘の経験があり、千景にはない。それが意識の差の原因だ。

 それが悪いことだとは思わない。本来は妖怪に狙われやすい千景が戦わなくて済んでいる、妖怪と出会わずに済んでいるということは、それだけ陽人が彼女を守れているということなのだから。


 しかし、通常の口裂け女相手なら、五分という時間は、簡単ではなくとも確実に耐久出来る時間ではあるが──こいつは挙動が妙だ。


 お決まりの「わたしきれい?」も無かったし、出会い頭でいきなり殺気を飛ばしてきた。おまけに。


 「──、」


 そいつは陽人に感情の籠らないガラス玉のような目を向けると、踵を返して逃げ出した。

 本当に、陽人に背を向けて、千景たちが逃げ込んだ藤原邸とは逆方向に去っていく。


 「……はぁ!? 口ッ……クソ!」


 口裂け女が逃げるだって!? なんて、驚いて叫んでいる場合ではない。


 普通、口裂け女は害意のままに人間を襲い、顔を斬りつけてくる妖怪だ。傷を負わせるだけでなく、死に至らしめることもある。

 特に戦闘技術を身に着けているわけではないので、陽人としては相手取りやすく、放置も出来ない相手だから積極的に狩ってきたが──獲物、或いは敵を前に逃げ出す奴は初めてだ。


 明らかに挙動がおかしい。


 少し遅れて口裂け女を追いかけながら、片手でスマホを操作して電話をかける。

 無料通話系のアプリも入っているが、使うのは電話回線の方だ。こっちの方が情報の機密性が高いらしいのだが、住宅街の道路を木刀を持って走りながら喋っていれば、もう暗号化も何もあったものではない。


 『……はい、酒々井』

 「もしもし覚おねーさん!? 挙動のおかしい妖怪が出た! 逃げる口裂け女! これ玉藻の前と関係あるかな!?」


 運動神経はかなりいい方だと自他共に認める陽人だが、相手は流石に化け物だ。みるみるうちに距離が離れていく。口裂け女の都市伝説が100メートルを6秒だったか、50メートルを6秒だったかは忘れたが、陽人の50メートル走が7秒前半なので多分100メートルなのだろう。


 叫ぶように話す陽人に対して、夕魅は剣呑ながらも落ち着いた声色で返す。


 『……今どこ? っていうかもしかしてアンタ、そいつを追ってるの?』

 「当たり前でしょ! 今……クッソ、あいつ滅茶苦茶足速い! こないだのチキン屋過ぎたとこ! ごめん、見失うかも!」


 話している間にも、陽人と口裂け女はどんどん移動する。

 振り返るまでもなく、チキンの有名なファストフード店はかなり後方になってしまった。


 夕魅は正義感溢れる少年の無防備な迂闊さに舌打ちしつつ、伝えるべき事柄を頭の中で整理する。


 『チッ……いい、よく聞いて。絶対に人通りの少ない場所には入らないで。建物の中も駄目。ついさっき、玉藻の前の妖力反応が検知されたわ。術式解析はまだだけど、多分、隠形と操作。そいつを探査術に引っかからないようにして、操ってるのよ。玉藻の前は──』


 ぶつ、と端的で無慈悲な音と共に通話が切断され、スマホの電波までもが完全に遮断されていることに、肩で息をしている陽人は全く気が付いていなかった。


 しかし、気付いていたとしてももう遅い。

 陽人は既に挙動不審な口裂け女を追って、に来てしまっていた。


 平日の夕方だというのに、大通りには車の一台もなく、歩道を行く人の一人もいない。完全で、歪な無人だ。


 陽人はそれに気付かない。気付けない。

 目ではそれを見て、脳はそれを認識していても、そういうこともあるだろうと見逃してしまう。


 「はぁ、はぁ……ごめん、なんだって? こっちは全力で走ってて、全然……はぁ、ふぅ、その上、あいつを見失った。こないだの人……探索課の人に繋げる?」

 「──その必要はあらしませんよ」


 そう言った陽人が、返事がないこと、そして電話が切れていることに気付くより先に、背後からそんな声がした。

 聞き覚えのある声だと一瞬では分からなかったのは、京言葉のアクセントだったからだ。艶やかな上品さを滲ませていて、以前の無機質な不愛想さは全く感じられない。


 それでも陽人が勢いよく振り返り、木刀を構えたのは、声から強烈な悪意が感じられたからだ。

 強烈で、純粋な──アリの巣に水を流し込み、ダンゴムシをつついて丸める子供のような、無邪気なる害意が。


 「内供さん。何故ここに?」なんて訊いて、木刀を構えながらじりじりと下がる──そんな悠長なことは言っていられない。


 振り返った先にいたのは、やはり遥火だった。しかし──顔立ちと声以外は完全に別人に見えた。

 几帳面そうに纏められていた黒髪は解け、眩い金髪に変わっている。夕日を浴びた時の輝き方は自然で、染めたという感じではない。黄金に変わった瞳の色も、カラーコンタクトの類ではないだろう。


 きっちりと着込んでいたスーツは夕魅のように胸元を開けて、タイトなスカートには切り裂かれたようなスリットが入っている。縁なし眼鏡も外しており、むしろ陽人が一瞬で遥火だと気付けたことが驚きの変貌だ。


 服装はどうとでもなるし、髪と目はウィッグとカラコンで誤魔化せる。

 まだ、何かの悪戯かドッキリ企画の可能性も、ほんの僅かに残っていた。だが、陽人は咄嗟に──恐怖に駆られて思考が吹っ飛んだ結果として、木刀で首を刎ねようとするかのように、渾身の一撃を繰り出した。


 もしかしたら人を殺してしまうかもしれない──そんな恐怖心は、より大きな恐怖心で塗り潰された。即ち、死の恐怖に。

 

 そして。

 陽人の動体視力と知覚速度を振り切って、木刀が真っ二つに断ち切られた。鉄芯や強化術式の類は無いとはいえ、剣道で使う樫製の逸品が。

 

 瞠目し──驚愕に見開かれた目を狙って、木刀を切り裂いた鋭利な爪が襲い掛かる。


 間一髪、という言葉が文字通りの意味を帯びるギリギリの回避を見せた陽人は、そのまま半ばで折れた木刀の鋭利な断面を遥火の首に向けて叩き込んだ。


 片手喉突き。

 陽人の十八番であり、普段相手取る強さの妖怪であれば大きな隙を作り出せる、場合によっては決め手にもなる、自信のある攻撃だ。


 それを遥火は。


 


 「──っ!」

 

 びりびりと手が痺れるほどの衝撃。

 岩でも打ったような──というか、稽古の中で実際に岩を打ったことはあるが、その時のような衝撃だった。


 遥火の顔には嗜虐的な笑みが浮かぶだけで、痛みを感じている様子は微塵もない。


 「化け物か──!?」

 「──えぇ、そうです」


 京言葉のアクセントで軽く肯定され、次の瞬間にはガードレールを超える勢いで吹っ飛んでいた。


 車道をごろごろと転がり、痛みに呻きながら慌てて身体を起こしたとき、陽人は漸く、この大通りに車の一台も、人っ子一人もいないことに気が付いた。


 明らかな異常事態だ。

 中務庁はごく偶に、偽の気象警報なんかを使って町一個を無人にして妖怪狩りをするらしいけれど──それはもっと田舎の方の話だ。大都会とまでは言わずとも、人口20万人を超える中核市ではあるこの町の中心から、立ち並ぶ商業施設やらファストフード店から、誰一人残さず人払いするなんてことが可能とは思えない。


 『地盤沈下でビルが倒れるかもしれません』とか『地下でガス爆発が起きる可能性があります』とか言われたって、野次馬根性で残る馬鹿と、なぜか自分だけは大丈夫だと確信して残る馬鹿はいるだろう。馬鹿な話だが。


 それさえない──馬鹿の一人も残さない、完璧な人払い。

 警察や消防が動いている形跡もなかった。つまりこれは、常識的手段によるものではない。


 「……結界」


 おそらく一定範囲内の人間すべてを催眠状態に落とし、範囲外へ強制的に退去させるような、極めて強度の高い術だ。


 でなければ、全員、何の抵抗も出来ない一瞬のうちに殺されたか。

 生きた人間をこの世から跡形もなく消し去ることは、どんな術、どんな妖怪でも不可能だ。しかし死体なら──魂や霊力を持たない肉と骨の塊なら、術によって消滅させられる。


 「流石は平安の世を生きた大妖怪って感じだよ、完敗だ。内供さん……金毛白面九尾、それとも玉藻の前って呼ぶべきか?」


 陽人の言葉に、遥火は──否。陽人が吹き飛んで視線が途切れた一瞬のうちに、狐の耳と九つの大きな尾を持つ姿へと変貌していた玉藻の前は、食肉目の発達した犬歯を覗かせて、獰猛に笑った。





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