第10話
土蜘蛛と遭遇した翌日、正午を少し回ったところ。
陽人たちの通う高校は私立の進学校らしい意識の高さで土曜日にも午前中だけ授業があり、陽人と千景は一週間を戦い切ったプチ達成感に包まれて帰路を歩いていた。
「陽人くんって、将来は仕事ばかりで奥さんを放っておく旦那さんになりそうだよね」
「じゃあ理解のありそうな覚おねーさんと結婚する。それか仄火」
「……別に貴方が好きで好きでたまらないというわけではないけれど、それはそれとして「妥協して私」みたいな扱いには不服を申し立てたいわね」
「だってお前、戸籍ないじゃん。手続き死ぬほど面倒くさそうだし」などと言いつつ、千景の言わんとしていることを察した陽人は、そそくさとスマホをポケットに突っ込んだ。
土日祝は妖怪狩り禁止、サイトを見るのもナシ、という藤原家のルールを忘れていた陽人が悪いので、文句はない。
「玉藻御前のことが気になるのは分かるけど、そんなの、絶対外注されないよ?」
「そりゃあ、そうだろうな。されても困る」
アウトソーシングサイトを利用しているフリーの陰陽師は、陽人のような学生の小遣い稼ぎも含めて5000人程度。全国で5000人だ。そのうち半分以上は命の危険があるような依頼は請け負わない、安全志向。逆に言えば、放っておいても人的被害が出ないようなヤツばかり狩る、陽人に言わせれば居ても居なくても変わらないような妖怪狩りだ。
本当に玉藻の前が復活して、伝説に語られた通りの強さなのだとしたら、その全員が一斉に襲い掛かっても負けるのではないだろうか。
平安時代当時の軍勢が何人編成で、その中に英雄級の武将が何人いたのかは知らないが、平安時代と言えば妖怪も陰陽師も全盛期。研ぎ澄まされた術者の数も、その質も、今より遥かに上だったはずだ。
当時と現代の戦闘を比較すると、やはり銃器の存在が極めて大きいけれど──妖怪相手に銃器は効かない。というか、当時から弓矢の類、遠距離攻撃は効きが悪かった。
妖怪を討った妖刀や剣士の逸話は数多いが、妖怪を討った弓兵や鏃の話は稀有だ。山をも巻く大百足を弓矢で倒した藤原秀郷という勇将もいるが、高齢の身で平将門公を討った怪物的英雄は、流石に例外の範疇だろう。
そこまでは行かずとも、当時動員されたのは日本列島という小さな島を更にいくつもの国に分割し、領土戦争に明け暮れていた内戦国家時代の武将や陰陽師たちだ。それでも多くの犠牲を出すことになったのだから、現代のレベルでは……。
「でも気になる?」
「何か情報があるかもしれないって思ってるんでしょう? そんなわけないって分かってるのに、それでも期待してるってところじゃない?」
流石の理解度を誇る仄火の言葉に、陽人は苦笑交じりに頷く。
「……まぁ、確かに探索課でも、本気で隠れた玉藻の前を探し出すのは無理だろうな」
陰陽術は時代と共に劣化している。
正確には、妖怪の存在が非現実的なものとされていくにつれ、陰陽術や呪術の類もまた、胡散臭いものとして遠ざけられ、失われてきた。
平安時代──妖怪全盛期にして、陰陽術の黎明期にして全盛期。
人々は妖怪の名を、悪行を、恐怖と共に語った。このとき、怪談話の類は全て、恐怖を理由にしたものだった。怖いから共有する、経験や知識を共有して身を守る。そういう注意喚起的な側面を持っていた。
そして時代は流れ──明治以降に語られる妖怪話は、恐怖を楽しむために創作された娯楽の側面が極めて強い。この時点で、妖怪の実存は大衆的に否定された。陰陽術の類もほぼ全てが創作として語られ、人々の認識が完全に変わったのだ。
それでも必死に技術を伝えてきた先人がいて、かろうじて現代においても民間にも多少の妖怪退治の術を持つ者がいて、中務庁という秘密の国家機関が人々を守っている。
だが全盛期とは比べるべくもない。
失われた技術、育てられていない才能、文明の発達を利用できない陰陽術という分野の構造的欠陥。様々な要因が重なって、この国の対妖怪戦能力はほぼ失墜した。
対して、玉藻の前は全盛期に存在していた大妖怪。数多の陰陽師が詰める宮中で暗躍する智謀と、かの天才陰陽師安倍晴明の子孫を含めた数々の勇将が率いる軍勢を相手にして膨大な損害を出させた武力、二つを高度に兼ね備えた怪物だ。
プロの陰陽師とはいえ所詮は現代人の探索課が使う探査術に、まさか引っかかるほど低俗ではないだろう。事実、24時間体制でほぼ日本全土を監視しているというのに、感知されたのはほんの数秒だけ。
妖怪は唐突に発生することもあるが、唐突に消滅することはない。必ず誰かが討伐するか、他の妖怪が殺すかしなければ、基本的にはずっと存在し続ける。……最下級妖怪の狐火は例外で、勝手に燃え尽きて勝手に消えることもままあるが、それはさておくとして。
とにかく、玉藻の前は探索課の目を逃れ続けているということだ。
「具体的な戦力や妖力は全く不明にしろ、探索課の目から──サイトの情報精度を見るに監視衛星級の網だけど、それから逃れてるってだけで、玉藻の前の術は規格外だって分かる。探査術の専門家が常に数十人単位で行使してる儀式だって話だし」
尤も、ただの高校生でしかない陽人はスパイ映画でしか監視衛星を知らないのだけれど、そのイメージと実態はほぼ嚙み合っている。
日本全土とまではいわずとも、北海道本島から沖縄本島あたりまでは24時間体制で監視されており、物理的映像ではなくセンサー的なもので上空から地下までを走査している感じだ。具体的な外見情報は無いが、妖力パターンを取得し、データベースと照合して妖怪の種類を特定している。
「出会ったら確実に死ぬわね」
「どうだろうな? 玉藻の前は傾城傾国の化生、人間一人じゃなく国を相手に悪意を向ける妖怪だろ? 俺たちみたいな一般人を積極的に殺そうとするか?」
「祷祓課から隠れてるなら、居所を知る者は全員殺すんじゃない?」
確かに、と陽人と千景は揃って頷く。
少し考えて、紐で引かれるように、一つの根本的な疑問が浮かんだ。
「そもそも、なんで祷祓課から隠れてるんだ? そりゃ覚おねーさんとか滅茶苦茶強いし、あの人も祷祓課の中では五指……同格があと四人いるって考えると、脅威ではあるんだろうけど」
それでも、やっぱり伝説的妖怪の方が強いのではと、直感的にそう思ってしまうのは無知ゆえなのか、正しいからなのか。
仮に正しいからだとして──何か目的があって、祷祓課がその邪魔になるのなら、全員殺せばいいだけの話だ。
……駄目だ、情報が足りなさ過ぎて、玉藻の前についての考察はどうあっても確度が下がる。
「話じゃ、当時の陰陽師は顔を合わせても妖怪だって気付かなかったほどの擬態──妖力遮断精度らしい。最悪、道行く美人を全員疑わないと……うん?」
陽人は閃きに従い、自分の両隣を交互に見遣る。
右隣──千景。優れた霊力を持ち陰陽師としての適性も高い、楚々とした美少女。怪しさ50点。
左隣──仄火。妖力は貧弱なものの魔弾には妖怪特攻という特異性があり、狐耳を生やした金髪の美少女。怪しさ75点。
「……おい、ちょっと身内が怪しすぎないか」
「私たちのどちらか片方でも敵なら、貴方はとっくに死んでると思うけど」
軽口に苦笑する千景と、律儀に言い返してくれる仄火。陽人は二人の反応に心地よさを覚えつつ、ぐうの音も出ない反論に諸手を挙げた。
千景も仄火も、陽人の寝首を掻く機会には事欠かないだろう。
まぁ、そもそも玉藻の前の狙いが無差別殺人であるとは限らないので、陽人が生きているから二人がシロ、という理屈は成立しないのだが──それを言うなら、陽人の疑いだって軽口以上の意味はない。
「今のところはっきりしてるのは、妖怪の挙動を狂わせてるってことだけか……目的が全く分かんないのが怖いな」
「そうだね……あれ?」
武家屋敷風の豪邸である藤原家の門が見える曲がり角を曲がったとき、千景が不思議そうに首を傾げた。
何かあったのかと、ちょうど話していた仄火に向けていた視線を戻すと、家の門前に見覚えのない車が止まっていた。
白いハイブリッド車。
今日は剣道道場は休みのはずだし、貸道場としての利用も夕方からだったはず。利用者や門下生のもの、送迎の類ではないはずだ。
「お客さんかな?」
貸道場を使わせてくれと言いに来た誰かという可能性が、一番高いだろうか。
そんなことを考えながら車の脇を通って帰宅した三人は、玄関の土間に見覚えのある靴を発見した。
サンダースの黒いミリタリー・ダービー。
「おっ、覚おねーさんが来てるのか!」
二日連続で会えるなんてラッキー、と、夕魅に懐いている陽人が真っ先に玄関に上がり、話し声のする居間の方に向かう。
「お母さんと話してるかもしれないから邪魔しちゃ駄目だよ!」という千景の制止をスルーしたのは、陽人だけでなく仄火もだ。
三人とも、土間の隅にもう一揃い、見覚えのないパンプスが置かれていることには気づかなかった。
「ただいま! 覚おねーさん、いらっしゃい! ……ん?」
なんとなく、夕魅が景虎と千里と話しているのだろうと考えていたのだが、居間に入った陽人は、予想とは違う光景に戸惑った。
居間のソファには、女性が二人と男性が一人──夕魅と景虎、そして千里がいた。千里は千景がそのまま成長したような感じで、化粧気が薄いのに美人だと近所では評判のマダムだ。アラサーと言ってもギリギリ通ると自他共に認める若々しさがあるが、反面、管理職らしからぬ適当なところも多い。
陽人にとっては母親代わり。家のソファに座っていても何ら不思議はない。
だから陽人が首を傾げたのは、彼女や夕魅の存在にではない。
ソファの前に置かれたローテーブルを挟み、三人と対面する形で床に座っている──正座している女性には、見覚えがなかったからだ。
「あ、どうも、こんにちは」
「……こんにちは。お邪魔しております」
愛想笑いで挨拶した陽人に、女性は折り目正しく一礼する。
ブラウスを開けて煙草を吹かしながら刀を振り回しているようなのとか、「服装はちゃんとしないと」と夫に怒られながら襟元を正されているようなのを見慣れている陽人だったが、彼女は授業参観の日の先生たちのように、スーツをきっちりと身に纏い、黒髪をシニョンに纏めていた。
座る姿もきっちりと背筋が伸びていて、習い事の茶道や華道をしている時の千景を思い出す。
几帳面そうな縁なし眼鏡の奥にある眼光は鋭く、こちらを値踏みするような気配さえ感じられた。奇麗な人だが、なんとなく近寄りがたい雰囲気がある。
「おかえり、陽人。ちょっとこっち来なさい」
「……なんで?」
心なしか怒気を孕んだ声の千里に、何かしただろうかと高速で脳を回転させる陽人。
「そんなビビんなくても、説教しやしないわよ。むしろ、陽人は説教する側だから」
「え……?」
どういうことなのと思いつつ、通学鞄と竹刀袋を置き、素直に夕魅の隣に座る。四人掛けのソファだが、ガタイのいい景虎がなんとなく1.25人分、人の家だというのに長い足を組んでどっかりと背を預けている夕魅が同じく1.25人分くらいを占領しているので、微妙に狭かった。仄火と千里はソファの後ろで成り行きを見守っている。
「こいつは中務庁陰陽部探索課の課長補佐、
「身と蓋どこに置いてきたの? 覚おねーさん」
イラついたように──多分、苛立ちの半分くらいは、この家の中が全面禁煙だからだ──言う夕魅に、陽人も思わず苦笑する。
いや、言っていることは分かるし、中務庁という組織の性質上、表に出していい顔と駄目な顔があることぐらいは知っている。ちなみに千里はダメな側だ。陽人も仄火も景虎も、彼女の所属する部署や仕事の内容なんかはまるで知らされていない。
今回の一件──祷祓課が対処すべき強力な妖怪である土蜘蛛の逃走と、民間人である陽人との遭遇は、組織としては謝罪するべき事案として受け取ったらしい。ただ、本当に謝るべきが誰なのか、どういうミスがあったのか、そういう内部情報までは明かせない。と、そういうことだろう。
だから“表に出してもいい顔”──藤原家程度の、ほぼ裏みたいな相手であれば──出してもいい顔である、遥火という女性が出向いてきたらしい。
態々土曜日に、頭を下げるためだけに。たった今、下げる頭の価値が大暴落したけれど。
「……酒々井さんの言うことはともかく、謝罪にお伺いしたのは事実です。この度は──」
「──あ、いや、結構です」
頭が下がりきる前に、陽人が止めた。
それはそれで失礼なことなのかもしれないけれど、それなら、下げる用の頭を下げるべくして下げられるというのも、中々に失礼な話だ。
というか。
「別に、貴女に非がないなら謝られても困るというか、何の意味もないので……」
むしろ「あぁこの人も苦労してるんだな」とか妙な同情をして、むしろ気分を害してしまう。
それでは面白くない。
いや、まぁ、多少は鬱憤が晴れるかもしれないけれど、完全に解消される──何事もなかったかのように、雲散霧消するということはないだろう。そのくらいには、探索課に怒りを抱いている。
絡新婦相手に殺されかかったのだとしたら、それは陽人の責任だし、自分を過信した愚者の末路として納得は出来る。地獄で愚者と謗られよう。
だが想定もしていない相手、それも中務庁がマークしていた相手を取り逃がして襲われたとなれば話は別だ。それでは死ぬに死にきれない──そんな理由で仄火を死なせるわけにはいかない。
「俺も仄火も死にかけたわけなので、怒ってないってことはないですよ、勿論」
怒っていないどころか、遥火のせいだったら、今すぐ木刀で綺麗な顔面の原型が分からないほどボコボコにしているところだけれど。
相手が妖怪でも美人の顔面を吹っ飛ばすのに抵抗がある陽人が、だ。仄火も自分も死にかけていては、流石に甘いことを言っていられないし、思うだけの心の余裕もない。
ただ、同じ組織に属しているだけの他人を、八つ当たりでぶん殴ったり、頭を下げろと強いるほど子供ではない。
それに。
「こういうのは貸しにしておくべきだと教わっているので」
具体的に誰に教わったのかは口にしなかったが、千里がニヤリと笑ったことで隠している意味はあまりなくなった。
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