第43話 復讐の終わり
柵から身を乗り出して、下を見る気にはなれなかった。
ただ、本当に自分の力がこんなにも曖昧なものだとは思わなかった。
「死の案内人さん……」
俺の忠告を無視して、俺に突っ込んできた車や人は崖から落ちて死んでしまう。俺に今夜怪談の力として残されたのは、俺の忠告を無視して突っ込んできた相手が俺の身体を突き抜ける、というものだった。
まさか、こんなにも使い方が限定されているとは思わなかった。
もしも、タヌキさんが図書室で俺の情報を見ていたら、俺の忠告を聞いてしまい、上手くいかなかったのだろうが、どうやら彼女は俺の情報を見ていなかったらしい。
俺のやりたいことがバレていたら、確実に殺されていただろう。
俺は思わず柵の前で尻餅をついた。
「見事!」
後ろからぺちぺちと慣れていない拍手が聞こえた。
肩越しに振り返るとそこには、今まで姿を現さなかったコクリさんがいた。
肩口までの黒い髪。
手の平まで伸びている薄緑色のカーディガン。
真っ白なズボンに包まれた足。
頭に生えている狐の耳に、カーディガンの下から伸びた狐の尻尾。
彼女はぺたぺたと裸足で俺に近づいてきた。
「醜く無様に生き残ったのは、死の案内人さん! 相内朋広!」
俺は震える膝に手を置いた。
俺は生前、人を殺したことはない。怪談になってからも故意に人を殺したことはない。
今、初めて、人を殺した。その恐怖に震える膝を押さえつけて、ゆっくりと立ち上がると、俺はコクリさんに向き直った。
「お前」
ぴたりと、ぺちぺちと慣れない拍手の音が止まった。
「お前だろう。俺のことを呼んだのは」
コクリさんの声は、まぎれもなく、俺の恋人の声だった。
コクリさんの顔は、まぎれもなく、俺の恋人の顔だった。
しかし、彼女ではない。彼女は満足げな顔で死んでいった。未練など残していない。
「元々山で人のことを死に導いていた案内人はお前だろう」
コクリさんは、こくりと頷いた。
その口元は、人間の顔でありながら、絵に描いたようにありえないほど吊り上がっていた。
「お前みたいな雑魚カス霊のせいで、私の獲物が減った」
コクリさんの口から、柔らかい女性の声ではなく、しわがれた男性の声と高い女性の声が混じった不快な音が出てきた。
「一つの山に二つも怪談はいらないんだよ」
俺は「死の案内人さん」と呼ばれていた。「おいで」「おいで」と崖の方に人を誘い、誘われた人の前に現れ、本当の道を示す怪談として知られていた。
しかし、俺がしているのは本当の道を示すことだけだ。
人を崖に、死に導いていたのは、今、俺の目の前にいるコクリさんだ。
「だから、俺のことを殺そうとこんな大がかりなことをしたのか?」
ケケクケと彼女は奇妙な音を出した。ここまで不快な笑い声など、一度も聞いたことがない。
「つまらないつまらない。つまらなさで消滅してしまいそうだ。私は昔、崇められていたのに、お前のせいで、お前らのせいで、私の名が薄れた。忘れられてしまう。この土地に私以外の怪談はいらない」
俺は大きく息を吐いた。
彼女の声も言葉も姿も非常に気味が悪く不快だが、それでも怖いとは少しも思わなかった。
「お前は山の中の存在だろう。それなのに、市内の怪談を集めて、人間みたいに死ぬ身体にして、復讐まで叶えてやると言った」
俺には確信があった。
コクリさんは、言ったことを守らなければならない。
俺達怪談が、自分のやるべきことから逃れられないように。
怪談、いや、崇められていた彼女のような存在が一度「叶える」と言ってしまったことは、叶えられて然るべきなのだ。
「俺はお前に復讐したい。お前という存在をこの世から消したい」
彼女はケケクケケと奇妙な声をあげ続けた。
笑っているのだろう。
ひとしきり笑った後、彼女は口元の笑みを消した。
「お前、それでいいんだな」
「それでいい」
「復讐か、このまま存在するか、どちらかを選ばせてやると言っても?」
「それでいい」
いつの間にか、身体の震えはなくなっていた。
「お前が消滅すれば、俺はもう人に道を示さなくてもよくなる」
ふ、と。
彼女の顔が消えた。
いや、顔だけではなかった。
耳と尻尾と服を残した人の部分が全て消えていた。それは透明人間のようだった。すぐにぎょろりと球体の目玉が金色の瞳をぎらつかせて、俺に向けられた。
牙が生えそろった赤い口が開かれる。
「山に怪談はいなくなる! それでいいんだなぁ⁉」
俺は自分の手を見た。
服を残して、俺の手も消えていた。
恐怖など微塵もなかった。
俺の顔も消えているのかどうかは分からないが、俺はこくりと頷いた。
「怪談がなくても、人は生きていける」
――ぱさりと。
――服が屋上に落ちる音だけがその場に取り残された。
怪談殺し 竹藪焼汰 @sunayabu
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