第42話 来るな


「君の話を聞いた時気になったんだ」


 俺は後ろの柵に両手を置いて、タヌキさんと向き合った。その姿は肩甲骨まで伸ばした黒髪にブレザー、前髪で見え隠れする瞳。ビオリちゃんと変わらなかった。

 タヌキさんは、目にかかる前髪を鬱陶しそうに横に避けた。


「本当にタヌキさんの復讐対象は「世の中」なのかって」

「ええ、本当よ」


 彼女は肩を竦めた。彼女が手に持った懐中電灯が俺の胸元辺りを照らしている。


「どうせ、もうアナイさんは逃げられないんだし、昔話でもする?」

「まだまだ朝は来ないから余裕なのか」

「ええ、そうね」


 くすくすと彼女は肩を震わせた。


 俺は彼女の情報が書かれたノートを見た。

 ノートには復讐対象と怪談としての力の詳細は書かれていなかった。だけど、彼女の生前の記録を見ると、彼女が「世の中」に対して、復讐をしたがっているのも無理のない話かもしれない。


「私、裏切られたのよ」


 同僚から薬品をかけられ、顔が爛れてしまったことを皮切りに周囲の人間から裏切られた。彼女の生前には同情を禁じ得ない。


「新しい顔になるのなら、もう少し腕のいい医者を選ぶべきだったわ」

「医者?」

「整形手術のことよ」


 彼女が一番恨んでいるのは、自分の顔に薬品をかけた同僚か、もしくは彼女のことを捨てた恋人だと思っていたのだが、彼女の口からは俺が想像していなかった人物が出てきた。


「あのヤブ医者のせいで私は何度も何度も整形手術にお金を支払うことになったわ。一発で理想の顔になれると思っていたんだけど」

「顔全体を一気に変えることなんてできないだろう」


 整形手術にあまり興味がない俺でも分かる。

 いきなり鼻も口元も目元も作り変えてしまったらどこかで不具合が生じる。鼻を作り替え、経過観察して大丈夫そうだったら、他のところを、という手術の仕方をすると思っていたのだが、それは違うのだろうか。

 ノートに書かれていた情報によると彼女は五回ほど手術をしたみたいだが、それでは足りなかったらしい。


「顔全体が爛れてるんだから、それをどうにかするのが医者の役目でしょう?」

「……」


 医者にもできることとできないことがある。彼らは神ではない。

 ましてや、薬品を顔にかけられてしまい、顔全体の皮膚が爛れてしまった人がいた場合、美しい顔に作り替える、というよりも生活に支障がないように治療をする方が先だろう。

 整形手術を頼まれた人間が慎重になるのは当たり前だ。


「しかも、あのヤブ医者はこんなことを言ったの。ここまでひどいと思わなかったって。これは医者じゃなくて、あの同期の馬鹿のせいね。確かに顔にかけるように仕向けたけど、ここまで手加減なしにかけてくるとは思わなかったわ」

「え」


 俺は目を見開いた。


 彼女は同僚に薬品をかけられて顔が爛れてしまった。そのせいで恋人に見捨てられ、会社の人間からも白い目を向けられていた。そして、自分に薬品をかけた同僚に金銭を要求し、その同僚に殺されてしまった。

 彼女は、完全なる被害者だったはずだ。

 だったら、今の言葉はなんだ?


「君は、わざと自分の顔に同僚が薬品をかけるように仕向けたのか? わざと自分の顔をひどい状態にするように仕向けたのか?」


 思わず聞くと彼女は口を弧に歪めて、包丁を持った手を口元まであげて、その口を少しだけ隠した。

 眉尻を下げ、彼女は目を細めた。


「顔をリセットしたくて」


 分からなかった。

 自分の顔をどうにかしたいというのなら、勝手に整形手術をすればいい。

 わざわざぐちゃぐちゃにする必要がどこにある?


「でも、整形手術のためのお金がなかったのよね。でも、怪我をして顔がひどい状態になったら、治療費として相手に整形手術のお金を支払ってもらえるでしょう?」


 彼女の情報について知った時、どうして同僚の人間が整形手術代を支払いたくなくて、彼女のことを殺したのか分からなかった。やったことへの償いだから当然だと思っていた。

 しかし、それが顔に関係のない整形手術なら支払わなくていい。それが顔に関する手術でも、何回も整形手術をしているのであれば、払うのはおかしいと直接言えばいい。なんなら、第三者を交えて、意見をもらうのもいい。

 それもせずに、同僚が彼女のことを雨の日に歩道橋から落としたのは、何故か。

 最初から仕組まれたことだったのだ。

 同僚が彼女の顔に薬品をかけることも、お金を払うことも。

 この蛇のような女は、他人がどれだけ辛い思いをしようが関係ない。他人の尊厳など、地べたを這う虫けらほどにどうでもいいのだ。


「どうやって、顔に薬品をかけてもらったんだ?」

「他の人が見ていないところで色々言ったりしたかしら? あとは持ち物に悪戯? 仕事の日程をわざと教えなかったり、教育係が私だったけど、彼女に質問されても無視したり……よく覚えていないわ。私には関係のないことだもの」


 自分の顔を台無しにさせて、整形手術代を支払わさせるためだけに彼女の同僚はその尊厳を踏みにじられた。

 その上で彼女は歩道橋から突き落とされた。

 なのに、彼女は「世の中」を恨んでいて、復讐したいと思っている。


「その人のことを追い詰めて、自分の思い通り、顔を台無しにしてもらったくせに世の中が憎いのか?」


 思わず頬が引きつる。

 彼女は包丁を下げて身体を左右に揺らしながら「ふふふ」と笑った。


「だって、私が好みの顔で生きられなかったのは、世の中が悪いもの」


 寒気を感じた。

 これは怪談としての気味悪さではない。

 この蛇のような女が生前から持っていた気持ち悪さだった。


「私の顔を予想以上に壊したあの女も、私の顔が完成する前に私の顔にお金を出せない、出て行けって言ったあの男も、あの女に相談されて正義ヅラして私のことを避けた職員どもも、私の顔を完成させることができなかったあのヤブ医者も」


 ビオリちゃんは控えめに言ってかわいい顔立ちをしていた。小顔に整った鼻立ちと薄い唇と大きな瞳。長い前髪でその大きな瞳が見え隠れしてしまうのはもったいないと思っていたが、彼女がいじめられていて、少しおどおどしていたから、きっと自分に自信が持てなかったのだろう。

 そんな彼女が俺とミライくんと行動した時に見せた笑顔は可愛らしかった。

 しかし、ビオリちゃんの姿で笑うタヌキさんの笑顔は、控えめに言って汚かった。


「全員死んでしまえばいいと思った」


 もうその顔で笑ってほしくない。


「そもそも、私が歩道橋であの女に襲われた時、誰かが私の周りにいたらあの女は行動しなかったと思うの。だから、あの時、あの歩道橋に誰もいなかったのも悪い。もし、私が歩道橋から落ちたとしても、トラックの上とかに落ちたら、まだ大丈夫だったと思うの。だから、あの時、トラックとか緩衝材になるものを積んだ車が通らなかったのが悪い」


 彼女はさも当然であるかのように、満面の笑みで言った。


「私のことを理想の顔で生み落としてくれなかった母親も、私の顔の形に遺伝という形で干渉した父親も悪い。そして、私が理想の顔になろうと努力したのに、それを踏みにじったのは生きてる人間たち。だから、世の中。ぜーんぶ、世の中が悪い」

「……俺もか?」

「ん?」


 彼女はこてんと首を傾げた。


「世の中が悪いのなら、ここに存在している俺も悪いってことになるのか?」


 彼女は声をあげて笑った。げらげらと、身体と髪を揺らしながら。


「ええ、ええ! そうね! 死んでくれなかったら、あんたも悪いわね!」

「悪いことは言わない。来るな。あっちに行け。君は、救いようがない」


 俺はすっと右手をあげると自分の右側をまっすぐ指さした。その先にはなにもない。柵をそって右へと向かえば、やがて、屋上はなくなる。

 あるのは、宙だけ。

 俺が指さした方向へと進めば、落ちるだけだ。


「死ぬのはあなたの方よ。私は生き残って、コクリさんにお願いするんだから。世の中に復讐してって」


 彼女は懐中電灯を床に投げ捨てた。がしゃんと音が鳴ると共に、彼女は両手で包丁の柄を掴むと、俺へと一直線に走ってきた。

 どうせ、俺が柵にもたれていて、さらに左手で柵を掴んでいるから、すぐに避けられないと思ったのだろう。

 万が一、避けたとしても、仕留められると思っている。俺は丸腰だから。


 彼女はまっすぐ走ってきて。

 俺を通り過ぎた。


「え」


 彼女の包丁の切っ先は俺の身体で止まることはなく、そのまま彼女の顔も上半身も俺の身体を突き抜けた。勢いは消されぬまま、彼女は腰までしかない高さの柵の上に上半身が勢いよく飛び出すことになった。


「俺は忠告した」


 すばやく屈んで、ばたばたとかろうじて柵の内側に留まって、上半身を戻そうとする彼女の足を腕で抱えると俺はそのまま立ち上がりながら、彼女の両足を持ち上げた。


「来るなと言ったのに、突っ込んできたのは、君だ」

「ま、待って!」

「ミライくんは待ってなんて言えないまま、お前に殺された」


 持ち上げた両手から手を離すと、彼女は包丁を掴んだまま、獣のような叫び声をあげて、柵の向こうへと落ちて行った。

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