第41話 逃げ場はもうない
「……思い出した」
俺はノートを閉じた。
あの時、俺は恋人の声に誘われて、そのまま車を走らせ、崖から落ちて死んだ。恋人にかけられた呪いよりも、その声は強く俺を導いた。そして、俺はまんまとその声に導かれて、自分の命を投げ出したのだ。
ノートの文章を読んでいれば、あの時の光景はついさっきの出来事のように脳裏に浮かんできた。それと同時に、その後のことも思い出す。
あの山には夜中に時折車が来る。
俺が崖の傍に立っていた。頭から血を流して、死んだ時と同じように身体が潰された状態で、どうして立っていられるのか分からなかったが、そこに立っていた。
『こっちに来るな』
俺は崖を後ろにして、道を指さした。
たいていの運転手は慌ててブレーキを踏むが、俺の見た目から俺がもう生きていないと分かると、車を停めて、その隙に俺に乗り込まれたらたまらない、と思いっきりアクセルを踏む奴もいた。
まぁ、それも全体の一割程度だが。
死んでしばらくして、あの崖の近くは事故の多発場所だと言われているのに気づいた。
『母さん、もう来ないでくれ』
母は何度か俺に会いに来た。
夜中に人や車の気配がすると現れる俺のところに母は何度もやってきた。いつ、母の耳にあの声が聞こえるか分からない。
俺はもう二度と、誰にも死んでほしくなかった。
母さんは俺に家に帰ってこないかと聞いた。俺は首を横に振った。ここでやらなければいけないことがあると言うと母さんは悲しそうな顔をした。
何度も何度もそのやり取りをして、ついに母さんは「あなたの意見を尊重するわ。頑張ってね」と掴めない俺の手に自分の手を重ねて去っていった。
あの時にはもう、母さんは自分はもう長くないと分かっていたのだろう。
全て思い出すと、呆気ないもので、俺は自分の怪談に恐ろしさを全く感じなかった。
ジゲンさんやショウさんのように生きている人間のことを弄び、命を台無しにするような趣味の悪い怪異でもなければ、タヌキさんのようにその人の尊厳を台無しにするようなものでもなかった。
自分の記憶が曖昧な時は、自分がいかに恐ろしい怪談として語られているのか不安だったが、なんてことはない。
俺はただただ人の死を見たくなかっただけなのだ。
今も昔も。
自分にとって、誰かにとっての大切な人が死ぬのを見過ごせないだけだった。
そして、もうこの学校内に俺が大切に思った人はいない。
「殺そう」
もう心は決まっていた。
俺は自分の意思でタヌキさんのことを殺す。
彼女を生かしておいたら大変なことになると考えながらも、俺の頭の中の大半が、ビオリちゃんの姿でミライくんのことを刺し殺したタヌキさんへの怒りで満ちていた。
よりにもよって、彼女は、ビオリちゃんの姿を使った。
やろうと思えば、彼女はショウさんの姿を使うこともできた。ジゲンさんの姿を使うこともできた。
それなのに、彼女はビオリちゃんの姿を使った。
自分で命を絶ったビオリちゃんにとって、それはなによりもひどい冒涜だ。
「武器を手に入れないと……」
タヌキさんが持っていた包丁は家庭科室にあったものだろう。家庭科室は図書室に近いから手にいれることは簡単なはずだ。しかし、武器を所持しているタヌキさんが、俺にも同じように武器が使えるように包丁をそのまま放置しておくわけがない。
家庭科室にある残りの包丁は彼女が手にした時に全て隠されている可能性がある。俺だったらそうする。
それなら、教室の掃除用具入れに入っているモップを使うか。
それなら、包丁よりもリーチがある。しかし、モップで包丁による攻撃で防ぐことができても、モップで人を殺すことはできないだろう。それに、ただモップを振り回すだけでは彼女の包丁を防ぐことができるかどうか怪しい。
「一か八かだけど、武器を持たない方法もある」
ここで悩んでいてもしょうがない。
俺がこのままここに隠れていても朝が来て、タヌキさんも俺も消えるかもしれない。それでも、俺はタヌキさんになんとしてももう一度会わなければいけない。
俺はブランケットを畳んで椅子の上に戻すと、深呼吸をして、扉の鍵を開けた。
「……」
扉を勢いよく開いたと同時に走り出し、図書室のもう一つの扉の鍵を開けて、外に飛び出す。
頬の横を鋭い風が通り過ぎた。
包丁の切っ先が俺の頬を掠ったのだ。すかさず、タヌキさんの顔に懐中電灯の光を向けると彼女は思わず目を瞑った。
俺はその隙に彼女に背を向けて走り出した。
「危なかった……ほんとに危なかった……ッ! あのまま飛び出してたら、殺されてた……ッ!」
彼女はずっと俺が図書室から出てくるのを待ち構えていたのだ。扉から出ようとした直前に扉のガラス窓から何かの影を見て、俺は急いで反対の扉から飛び出すことにしたのだ。
タヌキさんはショウさんとは違い、黙ったまま、俺のことを追いかけてきた。制服のスカートをばたばたとさせながら走るのを見る限り、走るのはそこまで得意ではないのだろう。足音も思っていたよりも大きいため、彼女が俺を追ってきているのが、振り返らずとも分かる。
俺は理科室の前に到着すると、すぐに三階への階段を駆け上がった。
俺も足音を潜めながら走っているつもりはないため、姿は見えなくとも彼女が俺を追って階段を上ってきたのが分かった。
屋上の扉には、鍵がかかっていない。
逃げる手段をなくすためにタヌキさんが屋上の扉を閉める可能性もないと分かっていた。
だって、屋上の鍵は俺がビオリちゃんとミライくんと一緒に職員室に行った時からずっと俺が持っているからだ。
俺は勢いよく屋上の扉を開けると、なにもない屋上に飛び出した。
懐中電灯の光を消して、扉から一番離れた柵へとまっすぐ進み、柵にもたれかかりながら、屋上の扉を睨む。
まだまだ空は暗かった。
俺が殺される直前になって、朝日が昇って、俺もタヌキさんも消滅、なんて都合のいい展開が来ないことはすぐに分かった。
開いた扉の向こうから一歩一歩確実に進んでいる足音がする。
もう走って追いかける必要はないと彼女は悟ったのだろう。
この屋上に、逃げ場はない。
「クソ……心臓は動かないのに息が上がるのはやめてほしいわ……」
彼女は肩で息をしながら悪態をつく。
彼女の声はビオリちゃんそのものだったが、その声で喋っているのはビオリちゃんではないという違和感が付きまとっていた。
彼女は肩を竦めると、離れた場所にいる俺に届かせるように声を張った。
「もう鬼ごっこはおしまいかしらぁ?」
「ああ、そうだな。この屋上には逃げ場がない」
そう。
この屋上には逃げ場がない。
しかし、それは俺に限った話ではない。
彼女にとっても、この屋上は逃げ場がなかった。
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