第40話 ラジオの声
「大丈夫だよ。他の人にもたくさん慰めてもらったから。凛花のことは……ゆっくりとけじめをつけていくよ。今すぐ割り切るのはどうしても無理だ」
電話の向こうで俺のことを心配した男の友人が「それもそうだな……」とどう声をかけていいのか分からないみたいで次の言葉を選ぶまで沈黙が降り立った。
しばらくして「また飯でも行こうな」と言われて、俺は「ああ、また話を聞いてもらうかもしれないけど、その時はよろしく」と言って、電話を終わらせた。
恋人が死のうとも仕事はある。大往生しろとは言われたが、俺は恋人ができてからやめていた煙草を口に咥えた。
雨粒がフロントガラスに打ち付けては滑り落ちているのをしばらく眺めながら、煙を口から吐き出した。
「結婚して子供作れって言われても……すぐには無理だよ、凛花」
俺は大きく息を吐いた。目を瞑れば、彼女のことを思い出す。肩口まで伸びた艶のある黒髪。人懐こそうな大きな目。細く白い指先。ピアノでクラシックを聴いているような心地いい声。俺に微笑みかけるとできるえくぼ。
白い病室にいた彼女のことを思い出す。俺が彼女のことを守って、幸せにするんだと信じていた時期もあったが、そんな幻想はすぐに打ち砕かれた。
俺は医者でもなんでもない。だから、彼女のことを治すことなんてできない。俺にできるのは、何度も病院に行き、彼女と話をして、花束を送り、彼女の手を握るだけ。
そんなことをしても、彼女の病状は良くならないと分かっていても、俺は彼女のことを見限ることはできなかった。
最初は「もう来ないで」と彼女は俺に言っていたが、そんな彼女も観念して、最後には俺に大往生しろなんて呪いをかけていった。
もちろん、それが彼女の願いであるのなら、俺は叶えるつもりだ。幸い、俺もまだ二十代だ。家族を作るのは、もう少しだけ彼女のことを引きずってからでもいいだろう。
煙草の火を消して灰皿にいれると、車のスピーカーから流れていたラジオの声がノイズで掻き消された。ジジッとラジオのいうノイズ特有の音を聞いて、ラジオのつまみを回す。スピーカーからの音があがったりさがったりして、ようやくラジオの音にまみれた人の声が小さく聞こえた。
人の声を大きくしようとゆっくりとつまみを回す。
『おいで』
ラジオから女性の声が聞こえた。
この時間に流れているラジオの司会もゲストの人間も全員男だったはずだ。車に乗って友人に電話をする前までどの局のラジオを聞こうかと選んでいたから知っている。
『おいで』
その声は、脈絡もなく、同じ言葉を繰り返した。
『おいで』
ラジオから出ているはずなのに、ラジオ特有のノイズがしんと静まり返り、その心地いい声が聞こえる。
「凛、花……?」
それは紛れもなく彼女の声だった。
俺の亡くなった彼女。
一週間前に火葬されてしまい、骨になってしまった彼女。
墓の場所も教えてもらえなかった俺の大切な人。
『おいで』
その人が呼んでいた。
俺のことを。
「おいで、ってどこに」
『進んで』
道を示すかのように彼女は俺に指示した。
進んで、まっすぐ、右、右、左、左、左、まっすぐ。
速く速く。
こっちに来て。
彼女がそう言うのだから、俺は彼女に答えないといけないだろう。俺はアクセルを踏んだ。ラジオから流れ出る彼女の声は確かに俺の大切な人の声で、彼女が俺に早く会いに来てと言う。
落ち着いていたラジオから流れる彼女の声が、だんだんと大きくなっていき、やがて、金切り声と大差ないものになっても、俺は構わずハンドルから手を離さず、アクセルを踏んだ。
全て彼女の言う通りにしていればいい。
「凛花、凛花。本当に会えるんだな? 俺は、やっぱり、凛花じゃないと……」
『まっすぐ』
「君以外の女性との結婚なんて無理だ、絶対に……」
『右』
俺の言葉にラジオから流れる彼女の声は一切反応しなかった。ただただ彼女は俺に指示をするだけだった。
そして、彼女の指示は一つになる。
『まっすぐまっすぐまっすぐまっすぐまっすぐまっすぐまっすぐ』
俺は足をペダルから一度離しかけたが、すぐに深くアクセルを踏み込んだ。
すると彼女は俺の行動にやっと満足したのか、ようやく指示以外の言葉を俺に言ってくれた。
『私のところに来てくれるよね?』
俺は、こくりと、頷いた。
車が宙に投げ出され、椅子から尻が浮く。シートベルトのおかげで天井に頭をぶつけることはなかったが、それも一瞬のことだった。
暗転と共に、意識が途切れ、次に俺の目を覚ましたのは、耐えがたい全身の激痛と、急激に冷えていく体温だった。
車体がひしゃげ、かろうじて生きているものの、ひしゃげた車体によって潰された胸。太ももの激痛より先の足の感覚がない。視界が半分、赤だった。
激痛に身体を震わせながらも、声をあげることもできなかった。ふと、周りを見ると、ひしゃげてしまったボンネットの上に足が見えた。
それは誰かの裸足だった。
『おいでおいで』
確かにその声は、俺の大切な人の声だった。
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