たとえ日々が巡っても

 真澄は、のために、ピアノ調律師を急遽呼び寄せた。調律師はピアノを少しいじったあと、何度も試し弾きをした。ラヴェルの「水の戯れ」や、ショパンの「幻想即興曲」など。ひさしぶりに口をあけたピアノは、あの頃のままの音色をしている。

「特に音程のずれは無いようです。いいピアノですね」

 真澄は「せやろ」と言いかけたが、こらえて「ありがとうございます」と告げた。


 火曜日。念入りに調律してもらったピアノを磨き上げたあと、たった一人の客だけのために用意した個室に、折り紙の鶴を飾る。一輪挿しの花に気を配り、隅々を見渡して埃や塵が落ちていないかを確認する。掘りごたつの上に敷く座布団はふかふかに。そして……。

「注文通りのいい牛肉ですよ」

 七季が言う。真澄も、うなずく。

「ああ。ええ肉や」

「調理は店長がやるんですよね?」七季が尋ねる。「ホールの子じゃなくて」

「せや。俺のお客やから。俺がいちから十まです」

 七季は「どんな関係なんですか」とは一度も聞かなかった。真澄は七季に感謝しながら、割り下の準備を始めた。


 夜の開店時間とほぼ同時に、火曜日の客が姿を現す。七季が声をあげた。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですね」

 声は真澄まで届く。真澄は和服の袖を捲り、姿勢を正してその瞬間を待った。






「真澄」

「ようこそいらっしゃいました」

 深々と下げた頭の、その影で、真澄は涙ぐんでいた。

「真澄、顔上げや」

「お客様のご来店を、店舗一同お待ち申し上げておりました」

「真澄」


 大きな手が真澄の揃えた指先を掴む。

「なあ、お前の顔が見たい」

「見せられん。みっともないから見せられん」

 真澄は立場も忘れて首を横に振った。しかし客は、ぐいと真澄の肩を掴んだ。

「見たい」

 亜嵐のあおい瞳が視界に入りこんだ瞬間、真澄の涙腺はとうとう壊れた。

「……亜嵐あらん

「ああ、ほんまにひどい顔してる」

「だからゆうたやろ、みっともないから……っ」

 亜嵐は真澄を抱き寄せた。力強く有無を言わせなかった。

「会いたかった。めっちゃ探した。そしたら、見つけた。俺、すごくない?」

 ――すごい。そう言いたいのをこらえて、目に力をこめる。これ以上涙を流したくなかった。真澄にも、男の矜持がある。

「……お前のそうゆうとこ、嫌いやねん、俺」

「知っとるで。お前の『嫌い』は『大好き』だって」

 ぐうの音も出なくなってしまった。真澄は亜嵐の肩口に縋りついた。

「お前の関西弁、中途半端でほんま、嫌い」

「懐かしいこと言うなぁ」

 亜嵐は笑った。そして整えた髪の毛を乱さないように、真澄の頭を撫でた。

「なぁ、真澄。お前が嫌そうなこと、今から言うけど、ええやろ」

 真澄はされるがまま、目を伏せた。「すきにしぃや」

「俺はまだお前のこと好き。忘れられなくて探し回って見付けちゃうくらい好きや。お前は?」

「き」

 亜嵐は真澄の背中を叩いた。

「お前なぁ! 一世一代の大告白にそれはないて!」

「……いつかのしかえしや、アホ。俺だってあんとき死ぬ思いで告白したんやで」

「ええー……」

 真澄はにやりと笑った。情けない顔の亜嵐に、ゆっくりとその顔を近づける。

「亜嵐、俺はな。お前んこと、次にうたらもう逃がさへんて決めてたんや」

 部屋の隅で、一輪挿しの花がくるりと揺れた。



 ピアノの音色が聞こえてくる。バッハの「平均律クラヴィーア」。食べ終えたすきやきの皿や鍋を片付けるのは、やはりというか、七季である。

「久しぶりの再会らしいし、水を差すのはなしにしよう」

 ホールのアルバイトたちにそう吹き込んでから、七季は、聞こえてくるピアノの音に聞きほれた。

「これが店長が待ち焦がれてたピアノの音ってわけですね」

 ちらりと見た料亭の隅に、音を奏でているピアノが見える。

 ピアノの前には金髪の男。そして隣にたたずんで耳を傾けるのは、黒髪の美しい男。


 七季はつぶやく。

「でも、なんで『すきやき』だったんだろうな……」





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すきやき 紫陽_凛 @syw_rin

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