すきやき
紫陽_凛
歌声レストラン編
レストランのピアノ
「弾いてもいい?」
レストランに置いてあるアップライトのピアノ。それをまっすぐ指さして、彼は聞いた。
「――、てんちょーに、聞いてくるさかい、まっとってください」
「わかった。待ってる」
真澄は盆を落っことしそうな勢いで厨房に走っていって、中で大きなフライパンを振るっている父親に尋ねた。
「おとん、あのピアノ、弾けるん?」
「なんやて?」
オムライスの卵を焼いている料理長は、フライパンの立てる音に負けてしまう真澄の声に耳を傾けた。
「どしたん真澄、ピアノがなんや」
「おかんのピアノ、弾きたいいう子がおるねん……」
真澄はあんな子のピアノなど聞きたくなかった。けれどお客様だ。お客様は神様。父は常にそういう。
父は少し考えたが、すぐに「ええやん、弾かせたり」と答えた。
「でもうるさなるよ?」
「おかんのピアノかてちゃんと鳴るはずや。ええやんたまには」
真澄は黙ってしまった。断る口実がなくなってしまった。
今は亡き母のピアノは、ふたを開けるとフエルトの鍵盤カバーがしてある。真澄は丁寧にそれをよけて、ピアノの上に丸めておいた。
「どうぞ」
ここまで来ても、真澄は気乗りしなかった。ここでピアノを弾くのは母だけだったから。本当は誰にも弾かせたくなかった。
――だれも俺のおかんにはかなわへん。おかんは音大ピアノ科の首席なんやで。
無表情の下でむっつりと唇を尖らせている真澄をよそに、少年は鍵盤を前に目をキラキラさせた。一音鳴らしてから、真澄を見る。
「きちんと調律されてるね。大切にしてるんだ」
「せや、俺のおかんのピアノや、毎日俺が磨いとるねん」
「じゃあ、大事に弾かせてもらわないとね」
椅子に座り、両手を鍵盤の上に滑らせる。意外と長い指だな、と思った次の瞬間。
湧き出る泉のような音色が、レストランの空気を変えた。談笑も小さな言い争いも全てピアノの音に呑まれていく。そして気づけば、全員が、アップライトの前に座る少年の背中を見ているのだった。
父が帽子も外さずに飛んできて、目を擦った。
「ラヴェル……」
真澄もこの曲は知っている。「水の戯れ」。母も弾いたことのある曲だ。だけど、こんなにまぶしい曲だったろうか。彼は水遊びでもするみたいに、指先を跳ねさせて音をはじいた。
「すごい」
弾き終えた少年は弾むように立ち上がると、ピアノに頭を下げた。
「ありがとう」
そして店を満たす割れんばかりの拍手の中で、真澄を振り返って、穏やかに笑った。俳優のようだった。
「ありがとう、大事なピアノを弾かせてくれて」
真澄は――頬をかっと染めた。
「そんなん、礼言われてもなんもでえへん」
「いいピアノだね。弾いていて、使っていた人が大事にしていたのが分かるくらい、好いピアノだ」
そんな会話の合間にも、常連のじいさんが「もう一回!」と繰り返し始めていたので、真澄はあわてて会話を打ち切った。
「好きなだけ弾き。俺、仕事もどるさかい」
「このレストランで仕事してるの?」
「店長、父親だし。ガッコ休みの時はいつもこうや」
真澄が盆を抱えて厨房へ行こうとするのへ、少年は声を張った。
「じゃあこれから、学校が休みの時、来てもいいかな?」
中学校に上がると、その少年は「
『ありがとう』
真澄の運命はすでに決まってしまっていた。
真澄がどう思おうと、どう抗おうと……久知野亜嵐に惚れていたのである。
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