料亭編
すべて過去のきらめきに
料亭に置かれたピアノを撫でる。少し埃が溜まっている。
真澄は布巾を取り出してきて、古いアップライトのピアノをきれいに拭き上げる。
父があっけなく死んだのはその年の秋で、真澄はいやおうなしに転校することになった。親類の家を頼り、何とか中学高校を卒業し、専門学校に入って、それなりの大きさの店を借りて。それからかつてのレストランのピアノを手元に持ってきて、自分の料亭に置いた。
長い間ほったらかしにされたピアノはひどく音が外れていたから、何よりも先に調律をしてもらった。誰が来て、弾いてもいいように――。
真澄は時折、あの夏の日を思い出している。
亜嵐の家に行ったこと。そこで、めったに飲めないコーラを沢山飲んだこと。砂糖味のくちびるのこと。その先のこと。
『今日は、やめとこか』
半裸の亜嵐が言った。その代わり、たくさん抱き合った。一生分手をつないだ。
『真澄』
あのかすれていた声さえ忘れかけている。もう七年。
引っ越しの日、亜嵐は来なかった。来れなかった、が正しいか。来なくてよかった、とすら思う。亜嵐と離れるのが惜しくて泣きそうだったから。ただでさえ真澄は「母親のみならず、父親までも病気で亡くしたかわいそうな子」だったのだから、これ以上みじめになりたくなかった。亜嵐の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
『行きたくない』って。
ピアノのふたを開けて、ドの音をはじく。ド。ド。ド。そうすれば亜嵐の顔が浮かび上がってくるかのように――本当はもう、どうしようもなく風化してしまって、亜嵐の顔も判然としないのだけど。
――すき。
――すきや。
あの日々が鎖みたいに真澄に絡みついていて、真澄は新しい恋愛などできなかった。どんな素敵な女性に出会っても、真澄の男性の部分はちっとも反応しなかった。その不能の部分をすべて料理の勉強に費やして、こうして割烹料理の店を開くに至ったわけだが……。
「ピアノがあるだけの割烹料亭なんて、おもんないもんなぁ」
つぶやきが空っぽの店内に響き渡る。オープンして数日はよかった。物珍しさから入ってくる客がいたからだ。でもそれが二か月、三か月、半年ともなれば、リピーター以外来なくなってしまった。そのリピーターも減りつつある。
「どないしよ」
「どないしよもなんもないでしょ、オーナー。こういう時こそ試行錯誤ですよ」
厨房で雇っている
「例えばピアノ弾ける人連れてきて、ディナーショウするとか。お手頃な価格のお弁当を販売するとか……」
「あーーーーーーーー、めっちゃええんやけど、ピアノはパス。弁当は検討する」
七季は首をかしげた。「なんでピアノはだめなんですか? せっかくピアノがある料亭で売ってるのに」
七季の言葉が、鎖のように真澄の首に絡みついてくる。真澄は振り絞るように、つぶやいた。
「……誰にも弾かせたくないんや、あのピアノ」
「誰にも弾かせたくないのに調律入れたんですか⁉ 高い経費払って?」
「これは俺のわがままやけど、あれを弾けるのは……死んだおかんともう一人だけなんや。そのもう一人とも、縁切れとるしなぁ」
「……じゃあただの飾りってことですか?」
「そうなるわ」
真澄はそれっきり口を閉ざした。七季は何か言いたげにしていたが、真澄が貝のように固く口を閉ざしたのを察したのか、それ以上何も言わず、厨房の方へと戻っていった。
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