インク壺頭

「なぁあああああああにが『ごっそさん』やあのインク壺頭ァ!」


 生徒会室で頭を振り乱す真澄の顔から眼鏡が外れた。副会長はその眼鏡を拾い上げて真澄の手元に戻してやる。何が起こったのかを副会長は知らないが、大方生徒会長がらみだろう。

「聞いてくれます?」

 真澄は目を血走らせて、長い前髪の間から副会長を見つめた。幽鬼のようである。

「さっきから全部きこえてはるけどなぁ、せやなあ、仕方ないから聞いたるわ」

「あのな、あのアホに騙された女子おったやん。……おったやないですか。あの女子、あのアホにキスされてもうたんやって。雰囲気もくそもへったくれもない状況で……ファーストキスやったんに!」

「……はぁ」

 副会長は頬杖をついた。「そんで、その子どうなったん」

「ご覧のありさまや、もうあかん、なあんもわからん、あのアホが何考えて生きとんのか全くわからん」

(ご覧のありさまて……)

「好きなんやないの? 会長が、その子のこと」

「ありえへんやろ……だって……」

 真澄はくねくねもぞもぞし始めた。副会長は目を細めた。

(俺男だし、とか思ってそー……)

 もはやその女子というのが真澄であることを副会長は見抜いている。はたから見れば、亜嵐と真澄がほとんど付き合っているようなものであることも、把握している。副会長は実は男性同士の恋愛を嗜むものとして覚醒して長いのだが、そんなことを真澄が知る余地はない。

「壁なんかあってないようなもんやろ」副会長は真澄をのぞき込んだ。

「その子に言ってやり、すなおになれ、て」

「だってぇ……」

(往生際の悪い奴)

 副会長は大きくため息をついて、低い声でつぶやいた。

「もうキスまでしたらやん。やってまえばええんや。ほんで白黒つけたらええねん」

 真澄が飛び上がった。

「んなことできるかぁあ!アホお!アホ! アホー!」

「なんであんたが真っ赤になるのん。おかしいやろ」

 白い頬をがっと赤く染めた真澄がおかしくて、副会長はポニーテールの先を弄った。

(これだから、やめられへん、腐女子)



 

「おいインク壺頭」

「めっちゃ独創的な悪口やな。……悪口やんな?」

 亜嵐は笑いながらアップライトのピアノの鍵盤をはじいた。きらきら星。リサイタルどころか営業時間すら終えたレストランのホールは静かだ。いつも通り、二人しかいない。他の従業員は片付けに必死だ。


「……知らん」

「そんなにだった?」

 いやだった、と言葉にしようとした口が固まる。舌が引きつって、抵抗するみたいに動かなくなる。嫌だった。たったそれだけが言えない。

「……お前、誰にでもあんなことしよるんか」

 代わりの言葉をようやく絞り出した真澄に、完璧な男は演奏をやめて振り向いた。

「あんなことって?」

「お前、女に困らんのになんで俺んとこおちょくるん」

「わからへんの?」

「……わからへん」

「正直もの」

 亜嵐は吐息交じりの笑いを漏らした。


「教えたるから、こっち来い」

 せめてもの抵抗に、真澄は毒づいた。来い、という言葉に引き寄せられてしまいながらも。

「その、半端な関西弁なんとかせえ」

「いいから」

 亜嵐はピアノ椅子を半分開けた。そこに真澄を座らせると、「きらきら星、」と促す。

「きらきら星は弾けるやろ。越前澄香えちぜんすみかの息子さんやから」

「なめとんのか。『エリーゼ』くらいは弾けるわ、アホ」

 亜嵐は破顔した。

「尊敬しとるんよ、越前澄香。ドイツのコンサートで初めて聞いたん。すっごかったで」

 亜嵐はゆっくりと真澄の左側で準備を始めた。

「まさか越前澄香の息子さんとセッションするなんて思わんかった」

「……俺がおかんの息子やから、あんなことしたんか、お前」

「違う」


 亜嵐は至近距離で真澄を見つめた。


「会った瞬間から。お前がどうしようもなくかわいいからや」


 きらきら星は響かなかった。真澄の指がドをはじく。その余韻が消える前に、真澄は亜嵐に抱きしめられていた。眼鏡が外されてしまう。何も見えなくなる。

 亜嵐以外見えなくなってしまう。


「なぁ、真澄、すき」

「……やき」

「はは」

 意趣返しのつもりの言葉が、亜嵐の口に食べられてしまう。二度目のキスは触れ合うだけでは終わらない。ピアノの音は止み、うるさいくらいの鼓動の中で、ゆっくりと唇をあわせる。


「インク壺頭の癖に」

「なあ、インク壺頭ってなんやの」

「知らんわ」


 亜嵐の指は長かった。亜嵐の手は大きかった。亜嵐の声はかすれていた。


「こんど、うちきて」

 

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