遠い日々を超えて
『真澄』
その日、都合のいい夢を見た。七年ごしに
(……はらたつ)
亜嵐の、どこかこなれているしぐさの全てに、真澄は腹を立てていた。けれどもそうして導かれる先のことを考えれば、今まで鳴りもしなかった心臓がばくばくと音と立てて脈打つ。すべてに血が通って、冷たい指先があたたかくなっていく。その火照った指で、亜嵐の首に縋りついた。
『おまえほんま、むかつくわ。……むかつく』
『真澄、待たせてごめんな』
そうだ、待っていた。ずっと待っていた。今も待っている。綺麗にしたピアノ。調律してあるピアノ。待っている。お前を待っている!
『このピアノ、弾いてもいい?』
在りし日の幼い声が問う。真澄は目を開いた。不能のはずの自分が、どうしようもなく彼を求めていた。
「……はよ、来て。はよ」
冷たい手で触れるそれは熱い。
真澄は、知らず知らずあふれていた涙をぬぐった。来ないと分かっている者を待つのはつらかった。きっと亜嵐は来ない。新しい恋に目覚めて、あるいは輝ける場所を見付けて、真澄のことなんか忘れているに違いない。
「女々しい、嫌や、こんなん……」
※※※
店長から「休む」と連絡が入ったのは朝の六時だった。
仕込みを始めるのは午前七時。店を開けるのは午前十時。一度午後二時に閉めて、夜の営業に向けて仕込み。夜は五時から初めて九時まで。
「今日は店長が休みだから、そのつもりで」
厨房メンバーにそう伝えて、仕込みに入る……と、外の入り口に誰かが立っているのが見えて、七季は手をとめた。
きれいに手を洗ってから、客の前に顔を出す。珍しいこともあるものだ……。
「あのう、すみません、開店は十時からなので、あと三時間ほどお待ちいただくことになりますが」
男は金髪に碧眼、おまけにモデルのようないでたちをしていた。高級そうな腕時計。どう見ても安物でないスーツ。それから、書類を沢山詰めた鞄。
「店長はいらっしゃいますか」
店長の知り合いだろうか?
「店長はきょうお休みを頂いておりまして。うちの店長に何か御用ですか?」
「いえ」
モデルのような外人は、滑らかな関西なまりの日本語で答えた。
「出張がてら、顔を見に来たんですけど、体調悪いならまた今度にします」
七季は懐からメモ帳とペンを取り出した。
「お客様がいらしたと、うちの店長に伝えてもよろしかったですか?」
「あー……」
モデル(のような男)は迷ったように天を仰いで、それからつぶやいた。
「『火曜日来るさかい、すきやき、用意しとって』。これで通じなかったら、忘れるようにゆっといてくれますか」
「はあ」
七季もアホではないので、このモデルと
「では、お客様のお名前をお伺いしても?」
「いえ。真澄なら、今のでわかるでしょう。わからんかったら、俺の負けです」
負けとは。七季は内心突っ込みをいれつつ、先ほどの文言を一言一句違わず復唱した。
「火曜日来るさかい、すきやき、用意しとって。間違いなく伝えます」
「いや、繰り返されると恥ずかしいなぁ」
モデルははにかんだ。こんなほほえみを向けられたらどんな女でもいちころだろう。
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