銀河のお姉さん 後篇
お姉さんはやって来た。遥か彼方の銀河を超えて。あかい唇をしてすっぽんぽんで俺の前に現われた。
夫を探しにな!
海に誘った昼間のことを隼斗は想い返した。昼間に外に連れ出すのははじめてだったのでアールグレイは歓んだ。
変装用に帽子をかぶせ、サングラスをつけると女の見た眼は銀髪のコスプレーヤーになった。「信号は赤で止まり青で渡る」「自転車のベルが鳴ったら端に避ける」「これが硬貨、これがお札」隼斗は逐一を教えて歩いた。
隼斗の想像する異星人の暮らす星とは、高層階が土筆のように立ち並び、流線形の車が気送管から送り出される薬剤のように空中に張り巡らされた透明チューブの中をすっ飛んでいる、そんなステレオタイプなものだ。想像を裏打ちするかのように電車の窓から都会の街並みを眺めていたアールグレイは、母星と比較してここは未開人の村みたいだと述べた。
宇宙船ごと夫のフジヤが死んでいたらアールグレイはどうするんだろう。
長い髪がベッドから垂れ下がり、隼斗の鼻先を掠めて床に流れている。ベッドをアールグレイに譲ってフローリングに布団をしいて隼斗は寝ていたが、いつでもアールグレイを受け止める気力体力万全のまま、寝苦しい。
期待どおり一度アールグレイがベッドから転がり落ちて来たことがあるのだが、その時は隼斗も熟睡しており、「痛てえ」「ごめんねハヤト」照明をつけて二人で激突したところをさするだけで、すかさず抱きしめることにも失敗した。
わたしは星の光です。
あの言葉をそのまま受け取るのなら、ここにいるアールグレイは人類がまだ見ぬ星の亡霊かも知れないのだ。
特徴的な菫色の眸だけはサングラスをかけないと怪しまれる。
「それじゃ視界が昏いだろ」
陽の傾いた港からの帰り道、隼斗はアールグレイと手を繋いだ。
同居から二週間が経った。尾崎から電話がかかってきた。尾崎は趣味で株をやっている。
「空売りや売り逃げらしき変動が大きく出ている。こういう現象は、戦争勃発前や有事の直前に起こるんだ」
「へえ」
隼斗は生返事をした。そういえば尾崎の奴は陰謀論支持者だった。
「もしもに備えて念のために備蓄しとけよ」
通話は切れた。
尾崎はあれでいて確信のない発言は控える男だ。隼斗は少し考えたが、尾崎の助言に従うことにした。アールグレイはビスケットを食べながら雑誌を読んでいる。隼斗が大学に行っている間にテレビや本からアールグレイはどんどん知識を吸収していて、眸さえ隠せば日本育ちの外国人にしか見えないほどだ。
「ちょっとコンビニに行ってくる」
「行ってらっしゃい」
アールグレイは笑顔で手を振った。まるで同棲だ。もしフジヤが見つからなければ、ぽつんと一軒家みたいに人里離れた処で一緒に暮らすのもありだな。隼斗はそんなことを考えながら並木道を歩いた。戻る星がないのだ。地球で暮らすしかないのなら俺が一緒にいてもいいよな。今のところ仲もいいし、アールグレイさえよければ。
予感がした。隼斗は青空をふり仰いだ。大気に不穏な気配が満ちている。横断歩道を渡っていた。街中の防災無線と人々の持つ端末から緊急アラームが怖ろしい音量で一斉に鳴り響く。いつもと違い鳴りやまない。音量がさらに大きくなる。近くにいる会社員が呻いた。
「避難といっても何処へ──」
遠い空に何かが見えたと想った直後、鼓膜が破れ、隼斗のいる数キロ四方が吹き飛んでいた。
天地が逆さまになった。頭が地面に、空が脚の上になっていた。瓦礫が過ぎる。それから凄い速さで全てのものがびゅんと走り、隼斗の意識は消え失せた。
ハヤト。
アールグレイが呼んでいる。
隼斗は銀河に浮いていた。
星の野原にワンピースを着たアールグレイが立っている。
アールグレイ。
君が星空に還ってしまえば俺は君の夢をこんなふうに見るのかな。いや、もう死んでいるのか俺は。
隼斗は女の姿を追った。
もうこの世にはいないのか。だからこうして君が見えるのか。
アールグレイ。
遠い遠い音楽。組曲と共に空間が回る。銀河は星の音符を刻んだオルゴールの部品のように回転している。無音の五線譜を踏むようにしてアールグレイが星の園を歩いている。
隼斗は女の姿に呼びかけ続けた。アールグレイ。
どうせ夢なら最初に逢った時みたいに、はだかで来いよ。新妻を家に残して任務に出ていくような冷たい夫なんか捨てちまえ。
銀色の長い髪が天の川のように隼斗に絡みつく。アールグレイを見ていると隼斗はいつも実家に飾ってあった海外土産を想い出した。陶器のリヤドロ人形。
彗星が流れる。震動しながら紡錘形が燃えている。あれは流れ星じゃない。宇宙船だ。アールグレイの母星から地球にやって来た。
音楽が終わる。アールグレイが悲鳴を上げている。
駄目だ、見るな。
隼斗の腕は彼女に届かない。アールグレイの叫び声は暗黒空間に呑みこまれる。船は見る見るうちに金色の塊となって爆発し、幾つかの光の塊となって地球の大気圏に散っていった。
あれか。
あれがフジヤが乗っていた船なのか、アールグレイ。
譜面を少し戻り、船が爆発する前に隼斗は紡錘形の宇宙船に乗り込んだ。どうやら時間の軸を自由に行き来できるようだった。
船の中には若い男がいた。
操縦席にいる若い男は立体映像を見詰めていた。男は映像の中の女の姿に手を触れた。
すまない、アールグレイ。
映像を切ると、男の顔が覚悟を決めたものに変わった。
「操舵不能。本艦はこれより自沈する」
計器を横目に操作を切り替えている若い男の背後から隼斗は操縦席の前に回った。
お前がフジヤか。予想どおりの男前だな。お前たちの星には美男美女しかいないのかよ。アルマーニのモデルみたい。
いい男だ。故障で帰還できず軌道も変えられないと分かるや、地球の都市部に墜落する前にお前は船の自爆装置をONにした。ちょっと天然ぼけが入ってるアールグレイの夫にはお前みたいな意志強固な船乗りがちょうどいい。
脱出艇は何処だ。隼斗は捜した。この手のプロトコルは同じだろ。大体分かる。色の違うこれだ。緊急脱出用のレバー。操縦席ごと一人分のポッドになる仕組みだな。
フジヤが愕いた顔をして隼斗を見ていた。そんなに愕くなよ、神でも悪魔でもない無名の大学生だよ。安心しろ、お前の嫁には手を出してないから。艦と命運を共にするなんて今どき流行らないよ。
俺はもう死んでいるらしい。俺がこの船を連れていくから、フジヤ、お前はアールグレイの許に帰ってやれ。後からあいつ地球に来るから。アールグレイはお前に抱きつく。
隼斗が脱出艇のレバーに手をかけた。安全装置を外す。その隼斗を殴りつけて場所を入れ替わるとフジヤは隼斗を操縦席に押し付けて固定し、隼斗を睨んでレバーを引いた。軍人の顔つきをしていた。
「出ていけ。これは俺の船だ」
ハッチが閉まる。重力に引きずられていく船から隼斗を入れたポッドが礫となって飛び出した。銀河の遠くからアールグレイが叫んでいる。フジヤ。菫色の眸が超新星のように見開かれた。紡錘形の宇宙船は摩擦熱で燃え上がり、外装に貼り付いていた氷が瞬時に溶ける。白熱化して火花が飛んでいた。遠眼には線香花火にみえた。アールグレイの視ている前で地球に吸い込まれた紡錘形の火の玉は爆発し、船は幾つもの破片になって燃え尽きていった。
俺はきれいなお姉さんが好きなんだ。
誰かが喋っている。隼斗は耳を澄ました。あれは俺の声だ。
色なら、むらさきが好きだ。
「そういえば高校の時の古典の先生が『源氏物語』の若紫の下りで云ってたんだけどさ」
眼が回る。気分が悪い。酔って温泉に浸かっているような気分だ。記憶の底から響いてくるのは尾崎の声だ。
「初恋の愛人にゆかりの少女を、光る君が引き取ってきて手許で養育して妻にするんだ」
尾崎、お前なに云ってんの。まだ俺は夢の中なのか。
「若い子を好みの女に育てたい願望が男にはあるんだってよ。そんなえげつない話を書いた作者が女の紫式部ってところが深いよな」
「俺はいいわ、そういうのは」
真面目に尾崎に応えていた。
「ロリコン趣味は俺にはない」
「男の本能をなめんなよ隼斗。パパ活じゃないけど、おやじになったら今はその対象じゃない女でも若い女というだけでむしゃぶりつきたくなるほど可愛く見えるらしいぞ」
「それで尾崎はまたメンヘラに引っかかると」
「やめんかい」
違うんだ。俺の女の趣味はお姉さんだ。ただ一人のそのお姉さんだ。ずっとそうだった、そんな気がする。人妻という響きにも胸がいたむ。理由は分からないが。
尾崎お前は間違っている。
隼斗は暗闇を漂っていた。やわらかな波の音。海にでも落下したのか俺は。
紫式部のすごいところは、年増からおさな妻、帝の女御から貧しい女、絶世の美女から平凡な癒し系、処女から人妻から未亡人から、枯れ木のような醜女まで余すところなく光る君に抱かせたところだ。
どんだけ一人の男に背負わせてるんだあの大長編は。ついでに財力が桁違いだ。行きずりの過ちであろうと光る君のやつは一度でも契った女には大金と邸宅を与えて生涯を安定させているからな。
なんの話だっけ。そうだ紫だ。
宇宙のあちこちには紫の濃淡がある。地表からはそう見える。隼斗が見ているなか菫色を散らした星空のひと隅に謎の切り込みが入っていく。銀河の一角が四角く開くと、その小さな窓からアールグレイがひょこんと顔を出した。
なんだよ、飾り窓みたいなことをして。
隼斗が笑いかけると、アールグレイも微笑んだ。その腕が伸びてくる。
フジヤ。
違うよ。俺だよ。俺の名まえ忘れちゃった?
流星群が雨のように流れ過ぎていった。
あいついい男だよな。いい夫だったんだな。
上も下もない青と金色の宇宙空間のなかで、窓から出てきたアールグレイが隼斗を抱きとめた。女の唇がうごいた。ハヤト。
信じてた。わたしを見つけてくれるって。
違うだろ。アールグレイが俺を見つけてくれたんだろ。隼斗はアールグレイの胸の中で眼を閉じた。ずっと怖かったんだ。宇宙には俺ひとりしかいなくてさ。
寂しいよ、アールグレイ。
たとえ君が遠い昔に滅びた星の光であっても、俺には君が見えている。君に逢うまでは何かが足りないままだった。また一緒にご飯を食べたりゲームをしよう。遊園地に行けば宇宙船みたいな乗り物があるんだ。きっと気に入るよ。
銀河に君の銀髪が流れてる。ほら俺は君の手をこうして繋ぐことができる。だから俺はまだ生きているんだ、懐かしい君。
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涼しい風のある土曜日だ。翠色のセロファンで包んだような明るい街を朝から子どもたちが走り回っている。
この辺りだった。
眼を凝らしても舗装された道にその痕跡は何もない。あの夜、氷柱のような雷が激しい光を放ちながら眼の前に落ちてきた。
大陸間弾道ミサイルと異星人の宇宙船と母星の爆発がリンクして平行世界に弾かれたとか、メビウスの輪とか時間軸とか、隼斗が質問してみたネット掲示板のSFクラスタの連中は熱心に回答を寄こしてきたが、まったく理解不能だ。誰か立証してくれ。
ハヤト。
銀河からやって来たきれいなお姉さんが隼斗の名を呼びながら駈けてくる。隼斗はアールグレイに片腕を挙げて合図した。
「走るなよ転ぶぞ。赤信号だからそこで待っとけ」
フジヤの一部が俺の中にいる。
たとえフジヤのお蔭でアールグレイを呼び寄せることが出来たのであっても、ふしぎと隼斗は不快ではなかった。ベッドから転がり落ちてくる女を待つよりはいいし、俺の許に来てくれたことには変わりない。
緊急脱出艇で隼斗を逃がしたフジヤは最期に云った。
戻れ。俺の魂を持っていってくれ。アールグレイを頼む。
「ハヤト、あちこちから大きな音がした」
「緊急アラート。いつもの誤報だよ。せっかくだから遊園地に行こうか」
変装用のサングラスを取りに一度マンションに戻らなければならない。街路樹が初夏の風に涼しくかがやき、揺れる葉が蒼い音を奏でる。
わたしを想い出して。
フジヤ、わたしを想い出して。わたしのことを想い出して。星空を見上げてわたしを想い出して、ハヤト。わたしを呼んで。そうすればわたしはあなたの許に辿り着くわ。この宇宙の五線譜の何処にいようとも。
並木道で、隼斗はアールグレイを引き寄せて手を繋いだ。何から始めよう。
「ヤリマン」
「なんでそれを気に入ったんだよ」
星々を隠した青い空。とりあえず「それは禁句だ」と厳重注意だ。
[了]
銀河のお姉さん 朝吹 @asabuki
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