白に追想 後編

 最後の登校日。文芸部の送別会を、自分にとっての本当の卒業式のように思っていた。

 少しだけ化粧をした。ファンデーションをした。パウダーを重ねた。お気に入りのアイシャドウをして、透明なマスカラを塗った。薄く薄く、桃色の口紅を重ねた。自分に一番似合うグレーのワンピースを着て、小さな真珠のイヤリングを身につけた。レースのカーディガンを羽織った。私服に袖を通して、学校に行くのが不思議だった。

 もう満開を少し過ぎた桜を横目に見ながら、石段を登った。息が切れた。下足室のガラス扉に映る自分はとても高校生には見えなくてきまりが悪かった。変わってしまった。春休みの校舎内は薄暗く静かだった。もうここにはいられないよ、と線引きをされているのに慣れた部室に向かう自分は、緞帳が降りた後も一人芝居を続けるいかれた女優くずれか何かみたいで。目の前を見えない幕で覆われているような感覚。小さな入校証一つだけ、私を許してくれていた。先輩役も今日で最後。とことん演じきってやろうなんて廊下をスキップして、やめた。


 この世に幽霊がいるなら、こんな気持ちで現世を眺めているのだろうか。


 きっと私たちのことを少しは慕ってくれているであろう後輩たちの笑顔はなんだか眩しかった。雫も私も後輩の質問やら何やらに応えてばかりで、気づけばそのうちに時間が過ぎていた。送別会がいつもの部活のようにおしゃべりとお菓子ばかりで終わることも、教室の隅の机の下に隠したつもりらしい花束の入った紙袋がはみ出ていることも、ちょっと詰めの甘い彼女たちらしかった。こうやってかつての居場所は居場所として残り続けても、そこに私たちの席はもうない。こんなふうに戻ってくることのできない過去ばかり思って、生きていってしまうのかもしれなかった。


 後輩たちに見送られ、学校を出た。小さな鞄は手紙と贈り物でいっぱいになってしまった。閉まらないファスナーを諦めて、軽く手で押さえていた。花束をどうにかしてもう片方の腕に抱えた。こぼれ落ちそうだ。


「みんな元気そうでよかったね」


嬉しそうな声。彼女は腕の中の花束のバランスをどうにか調整して、言葉を継いだ。


「花束までもらっちゃって、よかったのかなあ」


「こんな時しかもらえないよ、花束って」


「ま、それもそうかあ」


花束は片手で握るのが精一杯といった量感で、学生が学生に贈るにしては結構な大きさだった。餞、という言葉を思い出した。雫の花束は白と水色、黄色、桃色とパステルカラーでできていた。私の花束は青を基調に、紫、薄緑、白。先輩方のイメージカラーから選んで作ってもらったんです、と後輩は明るく笑っていた。唯一白だけでも揃いの色にしてくれたことに、救われるような心持ちだった。もらった紙袋に入れずに、黙って抱えていた。自分が祝福された身であるということの、証のようにしていた。石段にふわふわと落ちていく桜を、目で追った。


「満開だ」


雫はひとりごとのようにつぶやいた。


「きれいだよね、花って。ほんとうに」


花が綺麗だなんて、当たり前だ。当たり前のことだ。それを言える彼女に、私はどうしようもなく恋をしていた。


「そうだね」


返して空を仰いだ。数えきれない白が、霞のように広がっている。風に揺られる度、薄い花びらがこぼれていく。白い模様を落としていく。学校のあるこの丘から駅のある下の通りまで、あと何段だろう。

花々に包まれて、石段をひとつずつ下っていった。何か魔法のような、呪いのようなものがとけていくような、そんな感覚。もう登れない。もう戻れない。これを下り切ったら、今度こそただのひと同士だ。「同級生」も「部活の同輩」も無くなって、ただの、雨沢雫と、今宮藍。


「雫」


「どうしたの」


彼女に伝えても、「ありがとう」で本来の意味も解さず受け流されるのだろう。私の「好き」なんて、くだらない。ただの執着だ。そうだ。雫、私は本来、あなたの隣にいるべき人間じゃないんだよ。それでも、私はあなたと未来を見ていたかった。から。


「なんでもない」


「えーなによー。気になるじゃん」


明るい声。大好きな笑顔。舞い散る桜におおきな花束、暖かい日の光。うつくしいものに包まれて、世界すべてに祝福されたようなこのひとのこの笑顔を、この光景を、きっと忘れることはできないのだろう。他人事のように、想った。


「別に、どうでも良いことだから」


もう一年以上前の、あの時のあなたのように。ああやって、想いに蹴りをつけないと。そうしないと、後悔してしまいそう。


「えー。まあいいけどさ」


「忘れちゃっただけだよ、なんて言おうとしたか」


「わすれんぼだ」


「そう、忘れんぼ」


この春吹雪が恋を覆って、いっそのこと全て忘れられたなら。そうしたらどんなに楽になれるか知らない。純なこころであなたの隣で、ただ素朴に笑っていられたらよかった。



 ほんとうに随分と長い間、たわいのない話をしていた。改札前の柱の前で、延々と。文芸部の話、後輩たちの話。卒業式の話、恋の話。西野の話。雫の話。そして、私の話も。どれも、これも、これまでのことばかり。今際の際の悪あがきのよう。言葉の隙間さえ惜しむように、会話は尽きなかった。


 乗るはずの電車を何本見送ったか数えるのをやめてしばらくして、継ぐ言葉が何もなくなってしまった。伝えるべきか逡巡してばかりの「好き」だけ、胸の中心にこびりついたまま。それ以外の言葉を、必死に探した。お互い、乗る路線も方面も違うのだ。言葉がないと、会話がないと、繋ぎ止めないと、ここにいられない。いたい。もうちょっといたい。いさせて欲しい。言葉を探した。探した。探した。探していた。青かった空は、改札の外から薄明の橙を差し込ませている。雫が、私の名前を呼んだ。


「なに、雫」


静かな表情。その透明な双眸で、あなたは一体何を見ているんだろう。ずっと、わからない。わかることもないのを、私はわかっている。


「嫌だなあ、って」


その呟きは、少し震えていた。


「何が?」


「わかんないや。わかんない」


彼女はふう、と息をついた。


「……なんか、嫌なんだ。変わっちゃうからかな。自分の立場も周りの人も、自分も、全部」


空気と共に、流れるように、小さな口から言葉が漏れた。雫は、花束を抱き締めるようにしていた。


「変わるから、か」


「藍は怖くないの、全部さ、変わっちゃうこと」


変わりたい。変えたい。変えたくない。恋が、暴れ始めていた。この子のせいだ。全部。


「私は」


わからない。何も言葉が出ない自分はやっぱり臆病で。もう、言わないと伝わらないのに。何も。


「ああ、そうだ」


哀しいような、微かに笑っているような声がした。いつの間にか雫の下瞼には水が溜まって、こぼれ出していた。


「そうだよ。何よりも、藍と会えなくなっちゃうのが嫌なんだ、私は」


このひとが泣くのを見るのは、あの日以来だ。どうしようもなく、うつくしいひと。私の恋するひと。


「ねえ、藍。全部、変わっていくんだね」


知らぬ間にカーディガンの袖が濡れていた。花束の下から染み出していたらしい。


「変わらないよ。私は、きっと」


香りが咲いた。抱きしめられたのだった。薄くて微かにやわらかい胸を感じる。背中に回された腕は細くて、頼りがなくて、心地よい。頭のうしろを、彼女の花束が撫ぜている。乱れて浮いた、細やかな髪の束が私の鼻に触れている。

 雫。今、私の首すじほどにある、あなたの唇にせめてもの悪あがきを、なんて。そんなことできる勇気があるはずもなかった。壊したくなかった。いっそのこと、くちづけのひとつでもあなたに傷として残せるほどの、衝動があれば良かった。


「また会ってね、藍」


 ああ、あなたはずるいひとだ。雫。満たされてしまっていた。もう、だめだ。臆病だ。臆病だ。ほんとうに、どうしようもない。こんなにゆるやかに恋を終わらせていこうとしているのが、本当にどうしようもなく、自分らしい。

 何も、変えることができないまま。ぼんやりと抱かれていた。互いの体温が近づいていくのを、ただ感じていた。薄明さえも過ぎて、周囲には夜が降り始めていた。

 


 花束を解いて、ガラスの瓶に活けていた。花々は引っ越し作業の端で、しばらくは誇るように咲いていた。入学の書類を書いて、本を包んで、衣服を詰めて、いらないものを捨てて、無くして。家から自分の痕跡が薄れていくにつれ花は褪せ、水切りをしても、日当たりの良い場所に移しても、取り返しがつかないほどに萎れていった。


 ついに、私の部屋のものはほとんどなくなってしまった。リビングに、ひとまとめにされた自分の荷物が山を作っていた。窓ガラス脇の花々を半ば諦めながらも、水を変えようと持ち上げた。その途端、こぼれて散った。もう、ダメなのだろうか。拾おうとして、その小さな花弁に目を奪われた。それは何枚かの、桜の花びらだった。薔薇か何かの隙間に挟まって、今のいままでちっとも気づいていなかったらしい。それらはカラカラに乾いて少し縮んでいた。紅色に紫を混ぜ、それを白く、のばして薄めたような色に変わっていた。花弁たちは手に取ると少し崩れた。それでも桜としての矜持のように形は残されて、うつくしい光を放っているように思えた。


「どうしたの、藍」


洗濯物を取り込んでいた母が、不思議そうな声を出した。


「桜。挟まってたみたい」


手のひらにそっと載せてみせると、


「あら。なんかプリザーブドフラワーみたい」


母はそう笑った。


「ああ、確かに」


 花弁をそっと薄い紙に包んだ。萎れた花々を袋に入れて、そっとゴミ箱に差し入れた。もう花束の生が終わっていることを、私はわかっていたから。

 それらの薄い桜のかけらたちを、捨てようとしていた部屋の空瓶に入れて眺めていた。プリザーブド。もう消え始めた脳内の英単語帳をパラパラとたどった。プリザーブ、プリザーブド、Preserved。保存された。か。きっと、あの日の石段の、あの花吹雪の中の幾枚かであるに違いなかった。あの子と、あのうつくしいひとと歩んだあの瞬間を、この乾いた花弁が証しているような、保存してくれているような。久方ぶりに想起した、記憶はうつくしかった。かつての激情や劣情は薄れて、記憶の中には雫のあの笑顔が、幸福が、確かに保存されていた。真っ白い桜吹雪の中に微笑むあの子が、私は大好きだった。


 私は変わっていくだろう。あの子も、また。瓶の中のこの花弁たちのように、色が変わって、萎れて、最期は朽ちていなくなる。私は嘘を吐いた。結局はあの子の言った通りだ。全部、変わっていくのだ。あなたのおかげで知った想いも、自分の不甲斐なさへの嫌悪も、追憶の中でうずもれていくだろう。氷点下の街が、しんしんと降る白に侵されていくように。春の終わりに湖が、花の筏に覆われていくように。


 それでも。こうやって想いが見えなくなって、透明なほどに記憶に溶けて、恋さえもいつか白く霞んでしまっても、その奥にあなたは存在している。あなたを好きだった自分も、確かに存在している。流れていく時の中の、ほんの小さな想いかもしれない。いつか振り返って、自分の情けなさへ苦笑いをして閉じ込めてしまう記憶になっていくのかもしれない。それでもあなたと隣にいられたあの日々はきっと、幸せであっただろうから。


青い想いにかたをつけることなく、うつくしい記憶のままいようなんて自分の傲慢さえも、いまなら愛してしまえそうだった。


 

白さえ追想で染め上げて。


いつかの恋を抱えたままで、生きていけますように。

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群青譚 @tachibana12

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