青に餞 後編

 文化祭から一週間。雫の決断は早かった。私には早すぎた。美術室の前の廊下の角、曇り空、薄暗い窓の手前で必死に耳を澄ませた。美術室の中に二人がいるはずなのに、何も聞こえない。怖い。成功したら、雫と私が隠し通してきた恋を、気兼ねなく話せるようになるんだろう。お互いの悩みを私が相談されて、取り持ってあげたりして。でも二人は私がいない方がいいか。邪魔か。あの子に私より「仲の良い」ひとができてしまうのか。嫌だな。寂しくて。


「今宮」


心臓が変な跳ね方をした。西野がドアの前に見える。そこまで離れていないのに、薄暗くて表情が分からない。


「今宮、何してんの。忘れ物取りに行ったんじゃないの」


嘘を責める厳粛な響きがあった。


「えっと、ごめん。雫を待っている」


思わず正直に答えた。後悔が胸を刺した。


「そっか」


彼女は蚊の鳴くような声でそれだけ発した。予測した、低い怒声とは余りに裏腹だ。何故か近づいてきた彼女は、私の耳に唇を寄せた。


「……知ってたんでしょ」


疑問か確認か確信か、分からない抑揚。囁くような声は、震えていた、気がした。どう言えばいいか、分からない。


「また、明日」


自棄やけになってそう返した。西野は顔を歪ませ、何か問いたげに私を凝視した。耳が痛い程の沈黙。その末に、とうとう彼女は諦めたように苦い笑顔を貼り付け、


「じゃあね」


それだけ吐き出して、逃げるように階段を下りて行った。足音が遠ざかる。また、何も聞こえなくなった。


「藍」


静かな声。いつの間にか汗が制服の脇を濡らしている。


「ねぇ、雫」


やめた。分かっていた。


「藍、帰ろう」


さざ波ひとつない鏡面の池のような、声。静かな顔を見つめた。何も言わない。雫の瞳は私を通り越して、西野が去っていった階段を見ていた。リュックを背負いなおし反対方向の階段へ歩くあの子に、黙って従った。

 四時半のホームには人がない。授業終わりと部活終わりの間の、凪のような時。辺りを冷やす霧雨に身震いをして隣を見やると、雫が見たことのない表情をしていた。叫びを必死に抑えるように、血の気のない唇を嚙んでいる。

 心に浮かんだ感情を認めたくなかった。しかし紛れもなく、私を満たすのは濁り切った安堵と、気持ちが悪い程の喜びだった。私たちの関係は、お互いの一番として変わらない。汚い歓喜と自己への嫌悪が混ざって、吐きそうだ。卑怯だ。汚れている。それでも嫌われたくなかった。腹の底で慰めの言葉を探る。慰めないと、私はこの子の友だちでいられない。


「雫、大丈夫?」


あの子の澄み切った瞳の中に、汚い私がいた。


「藍は、自分が嫌になったことはある?」


思いもしない問い。答えたくなかった。あるに決まっている。


「たまにね、なんで自分は自分に生まれてきてしまったんだろう、って思うんだよ」


「ねぇ、それってさ、西野のことのせいなの?」


「んー……ううん、違う。と思う。駄目だろうって分かってたし。自分がすっきりしたいがために言っただけだし、ね」


声音からして本当のようだ。


「ふうん」


もはやどうでもよかった。


「でも、こうやって生きていくしかないって思うとさ、自分の個性とか、性格とか、性的指向とか、全部、無くしてしまいたくなる」


そんな言葉に答えられる性格も人生経験も、生憎今は持ち合わせていない。


「そう」


返して俯いた。慰めが思い浮かばない。あの子は目の前を走り抜ける貨物列車を見ているようだった。


「なんで」


轟音と霧雨に細い声がした。


「なんで私は私なんだろう」


あの子がいつの間にか手で顔を覆っていた。泣いている。


「雫」


名前以外、何も発せなかった。渇きに今更気が付いて、生唾を飲んだ。喉が痛んだ。慰めようと決めていた。どれだけ汚い動機だろうが決めていた。その決意が瓦解する音を聞いた。

 私よりうつくしい雫。私よりうつくしい心の雫。私が恐ろしいほど憧れる、世界にひとりしかいない少女。憧れの少女が、自分が嫌だと泣いている。

 じゃあ私は何だよ。私は君になりたいのに。

 慰めなんて無理だ。出来ない。資格がない。この子のせいで、自意識全部ぐちゃぐちゃだ。酷く憎らしい。堪らなく愛おしい。しゃがんで泣く小さな背中を思い切り蹴り飛ばして、絶望する顔を見てみたい。華奢な身体を強く抱き締めて、同じ力で抱き締め返されたい。

 何故君は君で、私は私なんだろう。

 もうどうしようもない。

 結局、寄り添って背中をさすった。それが一番友達らしいと思った。


「ごめんね」


なんで謝るの?こんなに嫌な人間に。


「ううん」


浮かんだ問いは口に出せないまま。微笑を浮かべてただ背中をさする。心の中のどす黒い渦を知られないため、必死に微笑み続ける。頬の筋肉がつってしまいそうだ。


「藍は、いつも、優しいね……」


そんなことないよ、と呟いた声は、掠れてしまった。刺さった。泣きたくなった。この子は何も知らない。


「藍」


痰が絡んだような、しゃがれて低い声だった。


「何?」


答えると雫が顔を上げた。うつくしい顔が、ぐちゃぐちゃに濡れている。


「嫌いにならないで、お願い」


馬鹿だ。おかしいよ、そんな言葉。なんでそんなこと聞くの。嫌味か何かだろうか。その思考がひねくれているのは分かっているけど。


「ならないよ、絶対」


背中をぽんぽんと叩いてあげた。いかにも友達らしく。誰が見ても私たちが友達に見えるように。


「ありがとう」


「うん」


「本当に、ありがとう……」


本気で感謝しているらしい涙混じりのその声に、疑ったことを恥じた。この子はただこれ以上の喪失を恐れて言ったのだ。自分の心の醜さだけ、よく分かった。馬鹿だ。この子の人間性、どんなに粗探ししても曇りが見つからないことなんてもう十分理解しているくせに、何をしているんだろう。

 いつの間にか強まった雨が、音を立てて線路を叩き始めていた。それをぼんやりと眺めながら、雫に見えないよう目の端を擦った。鼻がつんと痛むだけで、涙は一滴も出なかった。



 雫の涙から朝が来た。礼拝帰り、遠くのあの子に手を振った。何事もなかったような、大好きな笑顔が返ってきた。笑い返す。何事もなかったように。

 嫉妬と憧憬は表裏一体なのだと、昨日解った。

 マイノリティの雫も、道をたがえた西野も、醜い私も。友達も、クラスの子たちも、顔も知らない生徒たちも、ただ、必死に生きている。傷ついて、泣いて、自分を嫌になって心がボロボロになっても、未来にしか向かえないのだ。全部抱えて生きていくんだ。前にしか道はないから。

 不揃いのスカート、色とりどりのカーディガン。ざわめきの中、あの子の背中ばかり目で追った。ショートヘアが人波に呑まれるのを確認して、歩調を緩めた。


 帰り道、突然名前を呼ばれた。


「なに、雫」


問うと彼女はふわりと笑った。優しげで、儚げで、寂しげにも見えるうつくしい微笑みが、酷く眩しかった。風が吹き、枯れ葉が乾いた音を立てて石段に踊り、滑り落ちてゆく。


「なんでもないよ」


「え、呼んだだけってこと?」


雫はこくりと頷いた。私は、彼女のことを何も知らない。名を呼ぶ意図さえわからない。雫は雫で、私は私でしかない。


「あ、空」


彼女が指さした先に、薄水色が一欠片ひとかけら雲に置かれていた。昨日の暗い雨が噓のような、澄んだ色。


「ほんとだ」


「ね、綺麗だね」


明るい響きに黙って頷いた。綺麗なものを綺麗だと言える君のほうが、物言わぬ空よりもよほどうつくしいだろう。

 雫と別れた後、カフェラテを買って一口飲んだ。甘すぎたそれを持ち歩道橋に上がる。西日の名残が地平線を橙に染め上げて、彼女が綺麗だと言った欠片の青空は消えてしまっていた。あの色はもう二度と見られないのだろう。眼下に広がる国道を眺めながら排気ガスを嗅いだ。カフェラテを啜った。無数の車が放つ、赤や白や黄色が整然と過ぎてゆく。たゆまぬ光の川。銀河鉄道の夜のよう。都会では星など見つからない。「さいわい」も、見つけられる気がしない。

 雫を想った。水と光が混ざったような、透明なイメージが脳裏に広がってゆく。私は彼女に憧れて、嫉妬して、性質全てを渇望していたのだと、腑に落ちた。私に染められた藍を消すため、彼女の透明な雫でいくら洗い流そうと、青が残る。落とせないその色が、私が私であるための性質なのだ。彼女には成れないこと、そのことを証す青だ。これからもずっと、私は「私」のままなのだ。それでも、

 風に振り返る。あの子がいる気がした。誰もいない。在るのは醜い自分。それだけだ。夕闇の藍が滲んで、重なった。頬に冷たいものが伝っていく。人の性質ばかり欲しがって、自分を大切に出来ないことが、悔しい。今更なことばかり思ってしまうことが、悔しい。何もできない自分が悔しい。

 変えたい。変えたい。変えたい。変えたい。変えたくて仕方がない。この脆く汚い心を鍛え上げて、美しい鋼にできたらどんなに幸せか。青と、自分と別れたい。折れずにいられる心、壊れぬ心が欲しい。でも、彼女との関係だけは変えるのが怖いんだ。崩れてしまうのが嫌なんだ。ただ共にいて、幸せだから。でも、そうしたら、私の感情はどこに行くの?この衝動を、苦しさを、誰にも知られず終い?そもそもこの感情って、なんなんだろう。ああ、


 これが恋か。


 彼女の名前は、雨沢雫。私が恋するひと。今までも、これからも、そうなんだ。そうだったんだ。知りたくなかった。


 顎の水滴を拭い、踏み出した。空を仰ぐ。

 もうここには来ない。



いつかは青にはなむけを、贈れるようになるために。

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