群青譚
橘
青に餞 前編
透明を思うことは、あの子を想うことに似る。
ショートカットの似合う小さな頭、中性的な顔立ち、白い肌、素直に輝く双眸を持つ少女。この子は学年の誰よりも儚さを含んでいる。ともすれば汚く黒い世界に溶けてしまいそうな危うさと、心の中に光る芯の強さが共存した、うつくしいひと。
あの子の名前は
「どうしたの、藍。難しい顔して」
雫が私を見ている。いつの間にか私の机に顎をのせていたらしい。
「んー、なんでもないよ、雫」
「ふーん、まあいいや」
相変わらず小さい頭。
「そっちこそどうしたの」
「あとで英語の教科書貸してください」
「また?火曜だから二時間目だったよね、覚えちゃったんだけど」
「たびたびごめんよ」
「ちゃんと取りに来てよ、今度は届けないから」
「ごめん、ありがとー」
「あ、予鈴あと三十秒。急げ」
「うわ、じゃあね、ありがと」
慌ただしくクラスを飛び出すあの子を見送りながら、意味もなく聖書と讃美歌を積みなおした。
礼拝の間、
愛。今まで何回礼拝で聞いたか分からない、私の名前と同じ音の言葉。旧約聖書で同性愛は罪とされていても、雫ほど善なる存在を私は知らない。神があの子を知っていたなら、そんな罪消し去ったのではないか。
部活後の帰り道は混んでいる。運動部の集団ばかりで、文芸部帰りの私たちはなんとなく肩身が狭い。学校のあるこの丘から下の通りまで、二百三十三段。毎日登り降りするこの石段に郷愁を覚えはじめて、自分がもう部活を引退する年であることを突きつけられる。高校、二年生。
「藍ってさ、好きなひといないの?」
楽しそうに話しながら歩くバレー部の集団に追い越された時、雫はぼそりと言った。何回もされたことのある、決まり切った問い。私はいつも同じような台詞を返すことになる。
「それはどういう好きな人?」
「えっと、恋愛的に」
「じゃあいない」
「そっかあ」
前もしたような会話。定例的な儀式のよう。秋の陽が紅葉を照らし出し、石段にレース編みのような影を落としている。木漏れ日が可視化された枝の屋根の下、少女たちは笑いさざめきながら私たちを通り抜けていく。
「あ、しずちゃん、今宮、ばいばい」
一人の少女の声に、雫がぱっと顔を上げてにこにこ手を振った。私もそっと振り返す。雫が心底恋している、私の同輩の西野
「雫ってさ、西野のどこが好きなの?」
尋ねると雫は空を仰いだ。考える時のこの子の癖だ。
「うーん、わかんないや」
微かに笑いを含んだ声に、強い恋の匂いがした。
「きっとあの子も雫のこと好きだよ。そう思っときなって」
「えー、だったらものすっごく嬉しいんだけどね」
「私も」
「わあ、優しい」
「まあね」
「自分で言っちゃう?」
片頬でにやっと笑ってみせると、雫も笑った。
「でも雫ってさ、なんでもできるし顔もいいしさ、モテない要素ないじゃん。ほんと憧れ!って感じ」
「もう、器用貧乏なだけだよ、顔もそこまでじゃないもん、藍のほうが可愛い」
「どーもありがと。私を信じないの?」
「え、えーっとですね」
雫がうろたえるのに笑って、
「冗談だよ、ごめん」
「もう、良かった」
安心したようにわざとらしく大手を振って歩く雫に、また笑う。駅に着くころには、もう日は眩しくもなんともなかった。
水曜。早めに美術部に向かうと、掃除中で入れないのか廊下に突っ立っている西野が見えた。ウェーブのかかった長い髪を、手提げバッグを腕に垂らしたまま編みなおしている。
「西野」
「あ、今宮。珍しいじゃん、早く来るの」
「掃除ないだけだし珍しくもないよ」
「そっか」
西野は顔の横に作った編み込みを細いゴムで縛り、金色のオシャレなピンで耳の上に留めた。揺れる手提げから色彩が覗いている。
「見して」
「えー、まあいいよ」
F8サイズ。小さめのキャンバスにはどこかの風景が描かれていた。くすんだ青空の下、ビル群が巨大な植物に飲み込まれている、不思議な油画。絵を眺めながら、目の前の壁の大きな鏡に映る西野と私の全身像を見た。手持ち無沙汰のように前髪を直していた彼女は、鏡越しに目が合ってきまり悪そうに笑った。
「ここどこ?」
「んー、横浜かな。みなとみらいの写真撮ってきて、参考にしたの」
「なるほどね。植物は想像?」
「うん」
「なんか気合入ってるね、いいじゃん。西野の油画って感じ」
「ありがと。文化祭に出すつもり」
「持ってくるの早くない?まだ九月じゃん」
問うと西野は俯いた。
「いや、家でちょっと描いたんだけどあると描いちゃうし。勉強もあるしさ。仕上げは美術部でやろうって」
「なるほどね、えらっ。でも美大実技あるしいいと思うけど」
「あー、美大目指すのやめるんだ」
青天の霹靂、とはこのことを言うのだろう。
「え、まじか」
驚きが彼女を傷つけるのは嫌で、せめて顔には出したくなかった。鏡を見た。大丈夫。いつも通りの顔。可愛さのかけらもない真っ直ぐで短い髪を手で梳く。雫に憧れて切ってしまったけれど、つくづく似合わない。
「いいの?」
向き直って問うた。彼女は双眸に真面目な光を宿し、頷いた。
「理系行く」
彼女の絵の上手さは分かっていて、どうにも寂しかった。
「……そっか、頑張って」
陳腐な応援に、西野はかすかに笑ってくれた。雫はこの顔が好きなのかな。
「ありがと。今宮はこのまま美術系?」
自分が聞かれるつもりでいなかったから、怯んだ。進路を口に出す行為って取り返しがつかない気がする。怖い。
「そのつもり、かな。まあ」
言葉を濁し腕時計に視線を落とした。西野の顔を見たくなかった。三時二十四分。
「今宮ならいけるよ」
視線を上げた。正直そうな顔と声音だった。
「え、ありがと」
「私の分まで、頑張って」
「え」
西野は少し口角を上げた。諦めと何かが混じったような顔。何かがなにかは、分からなかった。
「私きっと、これが高校最後の油画だから」
部活開始のチャイムが鳴り響く。彼女は美術室の戸を開け、さっさと中に入っていった。教室に染み込んだ塗料と木屑の匂いが、ドア際の私まで流れてくる。油画を乾燥棚に置く少女の後ろ姿は、酷く遠かった。
「何してるの?」
「別に、なんでもない」
やってきた同輩に嘘をついて美術室に入った。西野とはもう今日話すことはなかった。
校内の文化祭色が濃さを増す月。少しずつ完成していく文芸部の展示やら美術部の作品やらが、実感も持てないままの「別れ」を押し付けてくる気がする。
「うーわ、もうすぐじゃん」
帰り際、革靴を持った雫が小さく叫んだ。下足室前の掲示板には「あと26日!」と文字が躍っている。雨の匂いが生臭くて、息が詰まる。
「早いね」
そう返すと雫はこくんと頷いて、なぜか首をグルグル回しはじめた。
「雫ちゃん何やってんのー」
声をかけた雫と同じクラスらしい子に、
「なんでもないよー」
と雫が返すと、
「しずちゃんらしいね」
とその子は笑って、帰っていった。雫は回すのをやめて、
「あれ、そういえば藍美術部は?」
とさっきと同じことを問うた。
「言ったじゃん、今日休むって」
「そうだった」
「今さらすぎでしょ、気付くにしても」
「そだね」
雫は掴み所がなく飄々としていて、酷く気楽そうに見えることがある。しかし一年前、西野が好きだと私に打ち明けた時のあの子の顔はいつでも思い出せた。別人のような、あの真剣で苦しげな表情。傘を差すと、周りの景色も雫の顔も、薄灰色のフィルターをかけたようになる。石段を下りながら、言ってみた。
「雫、君ってさ、何なの?」
「えっ、何?」
責めるような言葉遣いをしてしまったことに気付いて、慌てて付け足した。
「いやあのさ、なんかたまに、みんなの前でふざけてる雫と、私と、あの、色々真剣に話してる時の雫が別人に見えることがあるの」
恋についての言葉は、濁した。生々しくて嫌だった。
「そんなことないよ」
「ある」
私の断定に、雫は黙った。あの日と、少し似た表情。風と共に雨粒が髪をなぶって行く。
「ごめん、変なこと言った」
「いや、全然。ふざけるの、わりと癖かも」
「ふうん、なんで?」
「明るくいたほうが、っていうか子供っぽくいたほうが、なんだろう、悟られにくいからかな。恋愛的に女の子を好いていることが」
ひどいことを尋ねてしまった。そんなことを考えていたなんて。
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ。こういうこと言えるの、藍だけだから。素で話せるのも。こっちこそいつもごめんって感じ」
「そう、かな。なんもしてない」
「してるよ。同性の友達を恋愛的に好きな同性の奴と友達でいるって、すごいと思うの。どうすごいかは、上手く言えないけど。気持ち悪くないの?」
「全然。今んとこ人を恋愛的に好きになったことないから偉そうに言えないけど、人を好くって素敵なことだと思う」
灰色の視界でも、雫の笑顔が分かった。
「まあそう単純ではないけどー。あーあ、全人類藍だったら堂々と生きられるのに」
冗談めかした口調に本音が入っていた。
「ははっ、なにそれ」
そっと傘を寄せる。側にいたかった。
二十七日はあっという間に経って、文化祭が終わった。もう部活に参加する日々は終わってしまった。雫と私は文芸部の教室の片づけをしている。二人きりだ。後輩たちは部室に荷物を運んでくれている。
「終わったね」
衝立から剥がした模造紙を畳みながら、雫が呟いた。何か月もかけた宮沢賢治についての研究展示は、たった二日間で役目を終えてしまった。
「うん」
模造紙を止めている画鋲を外そうと、衝立との隙間に爪を食い込ませた。取れない。力を入れて無理矢理引っこ抜くと、人差し指の爪が鋭利に削れた。
「ねえ、藍」
「何?」
「美弥ちゃんに、言おうと思うの」
伝える気、あったんだ。知らなかった。
「そう」
思いつかずにそれだけ返すと、雫は頑固そうな顔で頷いた。
「文化祭終わったから、失敗しても、もう会う機会、少なくなるし。来年の受験の前に言えば、すっきり、するかなって」
言葉を切りながら話す声に、酷く重い決意が含まれている気がした。
「いいんじゃない」
本当はやめてほしかった。何かが変わってしまいそうで。
「うん。文化祭、終わったし」
あの子は同じようなことを言って頷いた。固く真面目な表情。今更止めても何の意味もないのだろう。沈黙が訪れた。丸裸にされた衝立のベージュに目を背けた。それはどこか、何も身に着けていないショーウインドウのマネキンの、侘しい立ち姿に似ていた。外から賑やかな笑い声が近づいてきて、ドアが開いた。
「先輩方、運び終わりましたよ」
後輩たちの声には疲れが滲んでいるものの、楽しそうだ。笑顔だ。未来がある者の余裕だろうか、この子たちの中にあるのは疲れでも喪失からの虚無感でもなく、達成感なのだろう。
「お疲れ様、ありがとう」
「なにか仕事あります?」
「じゃあ模造紙剥がれた衝立倒しておいてくれる?」
「分かりました!」
元気に返事をした後輩たちは、どんどん倒していった。伐採作業だ。文字を衣装とし、金属棒を脚としていたマネキンたちも役目を終えたのだ。
「今宮さん、雨沢さん」
呼ばれて振り返る。見れば、数少ない後輩たちが横一直線に並んでいた。
「ありがとうございました」
バラバラと頭を下げる彼女たちに、雫と顔を見合わせて笑った。こんな終わりなら上出来だ。
「こちらこそ」
まだ痛む割れた爪を、そっと隠した。
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