花に言祝ぎ
花に言祝ぎ
ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
黒板に書かれる季節遅れの歌を、ノートに写す。五月上旬。
「この歌は紀友則の歌で………ひさかたのは光にかかる枕詞………花は古文の場合大抵桜のことを………」
窓際の席を幸いとグラウンドを眺めた。飛び交うバレーボール。楽しそうな下級生は、あとこの学校で過ごせるのが何日かなんて数えようとしたことすら無いのだろう。
十か月。私が高校生でいられるまでの期間。結局自分のことを好きにも嫌いにもなれないまま、受験生になった。中途半端な自分をぶら下げて、ここからどこに行くんだろう。 歌の中で散る桜のせいだろうか。ふと、私を好きだと言ったあの子を思い出した。笑い飛ばすことも、泣き喚くこともできない記憶。一瞬の、恋愛的出来事。
チャイムの音に身体を起こした。いつの間にか寝ていたらしい。昼ご飯を食べた後だから、五時間目はどうしようもなく眠い。黒板の「ひさかたの」は現代語訳と助動詞や単語の解説で埋まって、情緒を失くしかけていた。柔らかな陽の中、風に揺られて舞い散る桜吹雪。ひとに愛されて惜しまれているのもお構いなしに、性急すぎるほどの速さで散らされてゆく花弁たち。「もう少し咲いていても良いのに」そう呟くひとびとの声。そんな様を想像して、ふと気付いた。
彼女を思い浮かべたのは、「しづ心なく」のせいなのだ。
「一年後、しずちゃんと話すことは無くなるよ」なんて、一年前の私が信じることはないだろう。私は雨沢雫のことが友人として大好きだったし、彼女もそう思ってくれていると思っていたから。
彼女の恋が桜なら、私はそれを徒らに散らした風。あの子の想いの尊さを、分かってなかった馬鹿な風。
取り返しのつかないことをしてしまったのだと、今は分かっている。会うといつも笑って手を振ってくれたしずちゃんが、あの素敵な笑顔を向けてくれなくなったから。
同性の友達からの恋への応え方なんて知らなかった。彼女が私なんかを好きになる意味が分からなくて、自分がそんな特別な価値のある人間だとも思えなくて、人から好意を伝えられたこともなくて。恋には応えられないことだけを短く告げて、私は逃げた。逃げてしまった。彼女からも、彼女のくれた言葉からも。戸惑いと混乱ばかりが心を占めていた。自分の記憶に向き合うことすら、止めてしまった。それでも長い時が経ち、戸惑いにくるまれていた彼女からの恋が、少しずつ心に沁みだしてきて、彼女がくれた「好き」に支えられたこともあって。
あの時の自分の態度を、ずっと後悔している。
「私なんかを好きになってくれてありがとう」
本当は、そう伝えるべきだったのに。
六時間目の古文は考え事の間に終わって、ノートの「ひさかたの」は助動詞も訳も書かずまっさらなまま。筆箱やら教科書やらをリュックに雑に詰め込んで、一人で教室を出た。とにかく早く帰りたかった。
教室前に、雨沢雫が立っていた。
長い間避け続けていた顔と姿。短かった髪がずいぶん伸びて、肩に付いている。
目が合った。喉が張り付いたように、痛んだ。ほんの一瞬、あの子の表情が歪んだ気がした。彼女は何も言わず目を逸らして、廊下を歩いて行った。遠ざかっていく懐かしい背中を見つめた。彼女が振り返って何かが起こるのを、いつの間にか切望していた。
……何を?
遠くなっていく姿を追いかける勇気なんてなかった。何もできないうちに、あの子は消えていった。もう、彼女の感情を覗くことさえ赦されないのかもしれなかった。
私は結局、どこまでも受け身の臆病者だ。
ずっと仲良くしていたかった。恋には応えられなくても、それでも友達でいたかった。たわいない話を、何気なく話す日常が欲しかった。
こんな本心も後悔も、戯言だ。傲慢だとは分かっている。 それでもいつか、あなたのくれた「好き」のおかげで自分を少し認められたのだと、そう伝えたい。伝えられないままの感謝を、このまま無くしたくない。
あと十か月。いつになったら、私は勇気が出せるんだろう。
教室から人が出てくる。流れに沿って歩きだす。日常が続いていく。桜の花は遠い昔。五月の薫風が青葉を揺らし、涼しい音が響く。彼女の笑顔を見たくなる。
いつか、あなたがくれた恋に。花に言祝ぎを贈れたら。
その時はまた、一緒に笑ってくれますか?
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