虹に弔い


『弔い


 ①人の死を悲しみ、遺族を慰めること。

  くやみ。弔問。


 ②葬式。野辺の送り。


 ③死者の霊を慰めること。法事。追福。

  追善。』


 梅雨も明け、水滴の代わりに蝉時雨が降り始めている。静かな図書室の窓際でふと眺めた電子辞書の言葉に、独りため息をついた。四時間目、自習の時間。自分の想いを未だ弔うどころか埋葬さえできずに、半年以上たった今でも心の底に何か苦くて痛いものが降り積もっている気がしていた。いつまでも振り切れない記憶を引き摺りながら生きて、その末に何が待っているのかなんて、分かりたくもなかった。 外を見る。ほとんど曇りのような青空に、彼女の絵を思い出した。一年前の文化祭に出展されていた、小さめの油絵。今日に似た空の下、巨大な植物たちに張り付かれたビル群は苦しげでも何でもなく、幸せそうに見えたのは何故なんだろう。

 今宮藍がリアリストなら、西野美弥はロマンチスト。もちろん藍は大好きな友達だけれど、絵に関して言えば自分を受け入れてくれない「リアル」ばかり描く彼女のことを、良く理解できなかった。対照的に西野美弥はファンタジー、不思議な世界を描き続けていて、好きだった。彼女の内面は虹の色をしているのだと、誰にも言ったことはなくても、今でもそう思っている。

 彼女が、西野美弥が好きだった。どこが好きだったかなんて今でも分からないけれど、自分が彼女を好きだったという事実一つは、どうにも動かし難かった。

「美弥ちゃん」

舌の上で、響きだけ転がした。クラスも違い、志望する進路の系統も違う彼女を遠くから見かけることはあれど、避け続けていたため顔を見たのはあの告白以来だと一ヶ月程前だけ。それほど疎遠のまま。

 もう、このまま卒業するのかな。 数年を費やした、あの色とりどりの想いや苦しみや恋や痛みは、ざらりとした感情やら感傷やらに姿を変えて、無彩色の記憶の層に沈んでいっていた。伝えるという判断は、自分の傷にしかならなかった。きっと彼女のことも傷つけたに違いなかった。

 隣にいたかった。なのに隣にいるほど苦しかった。

 自分の「好き」を偽っていた。

 友愛なのだと誤魔化していた。

 大勢に沢山の噓を吐いて、やっと息をする毎日で。それでも罪の意識は膨らんでいくばかりで。何も知らない彼女の笑顔に、上手く笑い返すのが下手になってきて。ただの友達面をして過ごす自分を、許せなかった。罰して欲しかった。こんな思いさえ自分のエゴなのが、酷くおぞましかった。

 嫌なことばかり考える。今日十八歳になったのに。何も知らない彼女が去年の誕生日にくれた手紙の、その最後に添えられた、「大好きだよ」という一節まで、思い出してしまった。それを引き裂きたくなったことと、泣きながら謝りたくなったことも。それでいてその手紙を電子辞書の下に敷いて持ち歩いてしまっている自分が、どうにも情けないと思った。


 チャイムが鳴って昼休みになり、お弁当を食べ終わって本を読んでいると藍が訪ねてきた。久しぶりに見る顔だった。


「読書中ごめん、誕生日おめでとう」


ちょっとした気遣いが「今宮藍」を思い出させて、自然と口角が上がった。


「いいよいいよ、ありがとー」


「あ、誕プレ忘れた。ついてきて」


繊細なんだか大雑把なんだか良く分からないこの友は、付いてきて、と言い終わる前に教室を飛び出していった。もう。


「しょうがないなあ」


誰に聞かせるともなく呟いて廊下に出た。出て、C組の前で立ち止まった。クラスの真ん中でリュックを漁る藍から視線をずらして、窓際に座るあの子を見た。一か月前と変わらない横顔。ウェーブした髪が動くたび揺れて光るのを見た。参考書のページをめくる指先を目で追った。そっとドアの前を離れた。

 私はここには入れない。

 しばらくして藍が出てきた。手に少し大きめの紙袋をぶら下げている。


「わーありがと」


「でかくてごめんね、はい、これ。ちょっとした絵を描いたんだけど、邪魔なら捨てていいから」


流石美術系、と思いつつ袋を受け取った。確かに見た目に反して軽い。


「捨てないよ。見ていい?」


「まあ、いいよ」


紙袋を留めるテープを外して中身を取り出した。綺麗な絵。黒に近い紺地の背景に黄色い花の群生が描かれている。後ろに行くほど背景に花が溶け込み、まるで空間に画用紙の形の穴が空いたように思わせるほど奥行きのある絵だった。


「これ、なんて花?」


「ラッパスイセン」


「へえ、めっちゃ綺麗、飾る。ありがとう」


「そう、良かった」


微かに笑って頷いた藍の顔が、何故だか酷く寂しげに見えた。


「藍、どうかした?」


「別に。誕生日おめでと。じゃあね」


今度ははっきりと笑って、藍は教室に戻って行った。気のせいだったのだろうか。


「うん、ありがとー」


丁度鳴った予鈴が私の声を邪魔したのか、彼女が振り返ることはなかった。

 窓際を見た。あの子は前を向いて、参考書をめくっていた。あの子が気付くのを、期待してしまっている自分が嫌だった。あるいは言祝ぎか何かを、私は望んでいるのだと思った。

 もう一度「誕生日おめでとう」なんて言ってもらえる訳もないのに。

 自分のクラスに飛び込んだ。予鈴に立ち上がる少女たちの中に、紛れてしまいたかった。



 家に帰って自分の部屋に上がろうとすると、洗い物をするお母さんに呼び止められた。


「なんか雫宛に荷物届いてたよー」


そう言ってお母さんが指差した先に、薄めの段ボールが置かれていた。


「荷物?誰?学校から?」


「西野美弥ちゃん」


「え」


思わぬ名前に固まった。


「仲良しの子でしょ?最近名前聞かないけど。きっと誕生日プレゼントよ。良い子ねー」


「うん、ほんとに良い子」


お母さんに顔を見られないよう俯いて急いで段ボールを取って、階段を上がった。


「えー、ここで開けなよー」


声を背中に受けながら、もう荷物のことばかり考えていた。中身の見当がつかなかった。そもそも本当に誕生日プレゼントなんだろうか。分からない。両手に抱えるくらいのただの箱の中に、何か自分を傷つけるものが入っているんじゃないかと訳もなく不安になった。それでいてどこか祝福のようでもあるその軽い箱の、中身を早く知りたくて堪らなかった。

後ろ手に部屋のドアを閉め、引き出しを漁ってカッターを取った。

中身を傷つけないよう、慎重にガムテープに切れ目を入れる。

段ボールを開くと、そこには新聞紙に包まれた平たい何かが横たわっていた。

新聞紙をそっと剥がしていって、木枠の感触にそれがキャンバスと確信した。最後の一枚を剥がすと、いつか見た油絵だった。くすんだ青空に架かる遠慮がちな虹と、植物に飲まれたビル群の前に立つ私に似た少女、おそらく私自身だけが、かつてと違っていた。 ふと油絵を裏返すと、小さな封筒が木枠と布の間に挟まっていた。桜色の地に白く花の散る柄をした、品の良い和紙の封筒だった。開けると便箋が入っていた。


『しずちゃんへ


    お誕生日おめでとう

 


    ごめん



    ありがとう

             

           美弥』


 どうして、

  口を吐きそうになった慟哭を呑み込むように、キャンバスを抱きしめた。微かに甘い油の香り。美弥ちゃんもこの香りに包まれながら、虹と私を描いてくれたのだろうか。

 そうだ。私は本当に貴方が好きだったんだ。

辛くても、悲しくても、やっぱり貴方は憧れのままだ。いつだって貴方の極彩色は、私に大切な想いを教えてくれるのだ。

 明日、美弥ちゃんに会いに行こう。プレゼントのお礼を言って、それから少し話をしよう。今なら、きっとまた笑い合える。

 恋は消えた。でもかつては確かに在ったのだ。それでいい。もう良いんだ。再び、友として歩んで行けたなら。

 「隣にいたい」それだけを願っていたあの頃の恋は、確かに虹色だったのだ。

 彼女への想いは、絶対に間違っていなかった。

 ただ、別れる時が来ただけ。決して悲しいことじゃない。ただ少し、新しくなるだけ。新しい自分で、もう一度彼女に出会えばいい。

 油絵を眺めた。キャンバスに描かれた私の立ち姿はどこか不安気で、それでもしっかりと空を見上げている。そこに架かる虹は、きっといつ見ても心に光と色彩を残してくれる。


 あなたに恋をして良かった。


 いつかの虹を弔って、私は未来に進んで行ける。

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