白に追想 前編

 ひさびさに見る彼女は、心なしか大人になってしまったような背をしていた。

 久しぶり、と声をかけるのにもためらった。改札を出ていく少女たちの群れに紛れるようにして、もうあと二回しかない登校の道を、かつての何百回と同じように辿る。何もかも、変わっていないようで何かが変わってしまったような、そんな感覚がしていた。車道越し、後輩二人と目が合った。二人は私と視線を交わした途端、どこか寂しそうにも見える微笑をたたえてぺこりとお辞儀をした。微笑みと会釈でそれを返しつつ、五人先の彼女を追う決心がついた。三月、卒業式の朝。


「雫、久しぶり」


「藍」


振り返ったそのひとの笑顔で、なくしたはずの恋に幽かな火が灯ってしまったのを感じた。


「天気いいね、良かったあ」


諦めのようにその火にあたりながら、彼女の声を聞いていた。級友として当たり前のように隣にいることも、あと少しでできなくなる。


「うん、ほんとうに」


うららか、という言葉の似合う日だ。隣の、うつくしいひとを眺めた。


「髪、伸びたね」


「でしょ?結べるようになった」


おろした髪を片手で束ねる動作をしながら、彼女はまた笑った。


「そっか」


「ねえ藍、合格おめでとう。受かったんだよね、美大」


「うん、とりあえずは受かった。信じらんない、ほんと」


「大学生だ」


「お互い様」


学校に続く、この長い石段を登るのもあと二回。全部に終わりがついてまわる感覚が気だるくて、でも確かに諦めと達成感の混ざったものも存在はしている。


「一人暮らし?」


まだ実感のないその言葉を、知ったかぶりで受け入れた。


「そうだね。石川県の美大だから」


「遠いなあ」


石段の脇、桜は五分咲きだ。いつまで続いてくれるのだろう。


「あ、そうだ。卒アル書いてね」


「卒アル?」


「ああ、まだいろいろもらってないのか」


「全部試験がおっそいせいだよ。荷物多いだろうな」


うんざりして声を漏らすと、雫は困ったように笑った。多いんだな。


「何があるの?卒アルの他に」


「記念のお菓子と、オルゴールと万年筆とー、成績といろんな書類とー、保存食とか」


彼女は指折り数えてくれた。最後のものが、明らかにおかしい。


「保存食?」


「私たちの、災害用の備蓄品だと思う」


「なるほど」


考えるだけで気が滅入る数だ。他に持ち帰っていないものも、絶対あるし。


「オルゴール、純銀だから重かったよ」


「えー。これだからうちの学校はさ」


 喋りつつ教室に向かうと、同級生たちが楽しそうにひしめいていた。記念写真を撮り、立派な布張りの表紙をした四角いアルバムと油性ペンを交換し合っている。このセーラー服の群れを見るのも、最後。雫は「絶対卒アル書いてね。絶対だよ。絶対だからね」と私に念を押すように言い残し、自分のクラスへアルバムを取りに去った。案外愛されているのかもしれない。なんて考えが頭をよぎって、決着も何もつけていない恋が胸を曇らせていた。

 案の定、自分の机には山のように荷物が置かれていた。持って帰れるんだろうか。その土台となっていたアルバムを引き出して、めくった。たくさんの同級生の写真、学校行事の写真、部活の写真。四角く閉じ込められた青春のかけらのようなものたちを見て、身近だった過去が急に古色を帯びてくるような感覚にめまいがした。机の端に、遠慮がちに白い花のコサージュが置かれていた。周りの子の真似をして、ポケットにピンで留めた。卒業生、になってしまった。


「今宮」


アルバムを抱えた西野が、荷物の向こう側から顔を出した。


「西野」


「久しぶり」


「うん、久しぶり」


心なしか彼女の髪のウェーブ加減には気合いが入っている。卒業式仕様だろうか。


「てか今宮三月学校来てたっけ。来てないよね」


「ああ、試験で」


「あーそっか、そうだよね。美大は遅いのか」


「参るよ、ほんとに」


「受かったの?」


「受かった」


そういうと彼女は安心したように微笑んだ。


「おめでとう、まあいけると思ってたけど」


「ありがと。西野は」


「第一志望には落ちちゃったけど、とりあえず進学して仮面する」


「仮面か」


意志の強いこの友人は、いつまでも高みを諦めないのだろう。


「あ、書いてよ」


そう言って西野はアルバムを差し出した。すでにたくさんの文字で、一ページ半が埋まっている。その中には雫のメッセージもあって、妙な安堵を覚えた。あの告白の日から時間が経つにつれ、どうやら関係が修復されつつあるのはわかっていた。こうして証のようなものを残し合えるまでに、何があったんだろう。ちょっと聞いてみたい気がした。羨ましかった。


「じゃあ私もお願い」


「真っ白じゃん。めっちゃでかく書いていい?」


西野は笑って言った。


「えー。ほどほどでお願い」


この同輩は、めっちゃでかく、と言った割に常識的な範囲の大きい字を左上から始めた。そういうところが憎めない、と思う。渡されたアルバムの空きスペースのどこに書くか迷いつつ、油性ペンを走らせた。


「藍、持ってきたよー」


声がして同時に振り返った。


「雫」


「しずちゃん」


声が揃い、顔を見合わせて笑った。


「美弥ちゃんもいたのかあ」


「いたんだよー。書いてるからちょっと待ってね」


気軽なやりとりを見ながら、最後に名前を書いた。西野へ。今宮藍より。とりとめのない内容だけれど、残せたことが嬉しかった。


「じゃ、ありがと今宮。ちょっと行ってくる」


「うん、こちらこそ」


アルバムを抱えて、西野は教室を出て行った。たくさん友人を持っていると大変だ。


「はい。書いて書いて。時間やばいから」


雫は私に、アルバムと油性ペンを押しつけるようにした。


「わかってるって」


わかってる。とは言ったものの、何を書けばいいのかわからなかった。何を書いても本音が、想いが見透かされそうで怖かった。雫へ。いつもありがとう。手が止まった。彼女のちょっとした似顔絵で誤魔化していたら、覗きこんできた本人が感嘆の声をあげた。


「似てる。すごーい」


「そう?ありがと」


「どうしよ。何書こうかな。いつも話しすぎて、逆に思いつかないや」


そう言いつつも、彼女は手を動かしている。油性ペンが規則正しく音を立てている。


「光栄だなあ」


ふざけてそう返すと、雫はちょっと真面目な顔をした。


「藍だけだよ、本音で話せる友だち」


キュキュッ、と音が尽きて、彼女は書き終わったのだと思った。覗き込むとメッセージの最後には大好きだよ、と添えられていた。顔を上げると、照れたように笑う雫がいた。あなたが私を好いていなければよかった。なんとも思っていなければ良かった。友達だから、隣にいるから、私はそれを壊せない。似顔絵の横に「大好きだよ」と真似して書き足して、アルバムをそっと閉じて返した。パイプオルガンが歌い始めた。始まりの合図。


「じゃあまたね、藍」


「うん、また」


頷いた彼女とすれ違うように担任が入ってきて、ごった返している教室の有様に苦笑いをした。普段厳しいはずのこの人が苦笑いで済ませてくれたのも、今日が最後だから、ということなのだろう。


「みなさん、入場の準備をしてくださいね。カーディガンは脱いで、ポケットに花を忘れないで。あとは聖書讃美歌、式次第持って。はい。並んで。行きますよ」


その担任の言葉で皆立ち上がり、並びつつも未だざわめいていた。


「待ってまって、うまくつけらんない、花」


「ピン刺さったあ」


「前髪だいじょぶそ?ちょっと見て」


「だいじょうぶ。かわいいかわいい」


「ありがとー」


「式次第落ちてる」


「私のだ、ごめーん」


慌てるクラスメイトたちを愛しいような寂しいような妙な気分で眺めていた。ああ、始まってしまう。


「藍ちゃん、これだいじょうぶかなぁ」


そう言って隣の友人は胸の白い花を指差した。取れかかって、今にも落ちそうだ。


「だめそう、付け直していい?」


「ありがとー、助かる」


なんとか形を整えて、二人聖書と讃美歌と式次第を抱え、小走りに前の子たちを追いかけた。オルガンの音色は朗々と、私たちの気も知らずに祝福を響かせていた。礼拝堂に向かうにつれ話し声は止み、歩みはゆったりと揃いはじめ、みんな真剣な面持ちになっていった。色とりどりのカーディガンを脱ぎ、全員が本来の色、セーラーの紺を纏っていた。少女たちは、もう大人のような顔をしていた。


「卒業生、入場。拍手でお迎えください」


弾ける音の洪水に迎えられ、少女たちは扉をくぐっていく。

 


「今宮藍」


名前を呼ばれて、壇上に向かった。受験のせいで練習も何もできなかったから、必死にみんなの真似をして卒業証書を受け取って、お辞儀をした。目立たないように、変わらないように。


「送別の歌、讃美歌406番」


普段と同じ、毎朝の礼拝の感覚が抜けなかった。涙の光る級友たちの姿は現実味がなくて、パイプオルガンの響きが、ステンドグラスの色彩が、歌い慣れた歌の歌詞が、どれもこれも心をすり抜ける。別れの歌のアルトをなぞった。言葉ばかりが口を滑っていく。


「あなたがたの上に 神の祝福がありますように」


最後なのだと思った。思っただけで心には染みなかった。岐路を一つずつ選んで、振り返ればそこにはひとつ、過去があるのみ。生きていくなんて、無数の選択のうちから可能性を確定していくだけの、それだけの営みなんじゃないか。昔進んだ岐路が今日、確かに閉じていくのだということだけ、確かに肌で感じていた。


「アーメン」


大きなガラス窓から淡い陽の光が、見慣れた制服を照らし出していた。


 式が終わった後のことは、正直あまり思い出せない。唯一はっきりと覚えているのは、記念写真のこと。二階席から私たちに向けられたカメラに笑顔を向けて、遠くの雫に目を向けて、「こういうときに隣で写った写真、ほぼないな」と思ったことだけだった。

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