58.横やり

 隔週で回ってくる、木曜日の校正業務。

 

 最初の校正を経て戻ってきた、再校のゲラをチェックしていると、隣で作業していた須藤さんから、声をかけられた。


「鈴原さん。十時から、鈴原さんに来客なんだけど」


「え、わたしですか?」


 須藤さんは校正部の正社員だけれど、わたしはただの派遣社員だ。しかも、本業はこのなりゆきで任された校正業務ではなく、データ入力。須藤さんではなく、わたしにお客さんが来る理由が分からないし、心当たりもない。


「先方が、希望されているの。私も同席するから」


「分かりました。それで、その方はどういう・・・・・・」


古賀久美こがくみさん。私は前にお会いしたんだけど、鈴原さんの後任になる予定の人」


「そう、ですか」


 もともとわたしは、校正実務講座を受講していた歴があるので校正業の端っこを手伝っている、いわば時期限定の代役だ。前任の都築さんという方や、現職の校閲係・須藤さんの指導が代役相手とは思えないほど真剣なもので、何だかんだわたしも変にマジメだから必死についてやっていたら、意外に業務として成り立つようになった。

 

 自分にとって、この仕事がどういうものか。

 そこまでは考えたことはないけど、一文字一文字に向き合って腰を据える校正という業務は嫌いではないし、須藤さんのように、より専門性の高い校閲の業務にも、興味はあった。けれど、どこまでの興味かというと、いまひとつ自分でも分からない。

 というより、もしかするとあまり考えてこなかったというほうが、近い。


 今年は、三回目の派遣の契約更新だった。なので、どこかで来年度、校正、あるいは校閲業枠で、正社員としてここで雇ってもらえないかなんて思っていたこともあった。けど、実際には、今いるわたしの席に落ち着くのは、編集長の先輩の、娘さん。古賀さんという女性なのだ。

 

 長瀬さんなどはそれを、わたしの席の「横取り」だと言って嫌そうにしているのだけれど、相手は編集長曰く、「ベテラン」の校正士の方だというので、わたしにははなから勝ち目がない。その点は残念だとは思うけど、もう納得している。

 それよりも前に、長瀬さんが言っていた「やな感じ」「須藤さんと相性悪そう」という言葉が、頭をよぎった。


 須藤さんは、「先方のご案内とか、私がするから。鈴原さんは、きっかり時間通りに、第二会議室に来るだけでいいわ。準備は特に、いらないから」


 重ねて「分かりました」と言うと、「じゃあ、お願いね」と、資料の山に須藤さんの横顔は隠れてしまった。

 わずかにのぞいた目元が、強張っているように見えたのは、気のせいだろうか。



 オレンジ色のトップスに、黒のタイトスカート。耳元を飾るシルバーのフープピアスは上品に光っていて、エレガントな印象の微笑を彩っている。面長で、つり目。全体的に、須藤さんとは違った意味で整った顔立ちで、四十代とは聞いていたけれど、三十代と言っても十分に通用するだろう。艶やかな黒髪が、肩口にかかっている。


 仕事ができそうな人だな、というのが、第一印象だった。それに遅れて、カシスのような、フルーティというより、酸味に近い匂いが鼻をついた。

 香水だと気づくのに、少し時間がかかった。


 古賀さんの隣に座っている佐藤編集長は、これでも冷房が追いついていないのか、しきりに額の汗を、ハンカチでぬぐっている。そういえば、去年に比べると太めの体型になったなと思っていると、ノックの音がした。


 「失礼します」と、人数分のお茶を持って入室した須藤さんは、お茶出しを終えると、そのままわたしの隣に座った。

「じゃあ、時間になったので」と、編集長が切り出した。


「鈴原さんに来てもらったのは、こちらの、古賀久美さん。鈴原さんの今やってもらっている校正業務の、後任になる方だ。彼女から、鈴原さんにお会いしておきたいという申し出があってね」


 その隣で、本人が、よろしくねというように小首をかしげてこちらを見やるので、「よろしくお願いします」と頭を下げた。


 それにしても。編集長や古賀さんの、真意が分からない。

 引継ぎ、というのには、まだ早すぎるんじゃないだろうか。


 わたしが聞いている限りでは、古賀さんが業務を引き継ぐのは来年度からで、遅くても半ばには正式にわたしの後任として、校正部に籍を置くことになっている。

 あまり詳しくはないけれど、引継ぎの期間といえば、だいたい一カ月くらいじゃないだろうか。まだ、七月の半ばだ。いくらなんでも、早すぎるだろう。

 そんなことを思っていると、古賀さんがルージュ色の唇を開いた。


「お会いできて、光栄です。古賀久美と言います。こちらこそ、よろしくね」


「あ、はい、よろしくお願いします」


 再度頭を下げると、「まあ、そう硬くならないで」と、編集長。


「今日は、古賀さんのほうから、鈴原さんに確認をしたいことがあるというので、すまないけど、来てもらったんだ」


「はあ・・・・・・。何でしょう?」


 業務の進捗状況? でも、そんな大きな仕事はしていないんだけどなと疑問に思っていると、古賀さんが言った。


「鈴原さん。この仕事、九月に私に譲ってもらえないかしら?」


「は?」


 どういうことかと編集長を見やると、ばつの悪そうな顔をしてまた額の汗をぬぐい、ひとつ咳払いをした。


「いや、鈴原さんには突然の話になってしまって、申し訳ない。だが本来鈴原さんの業務には校正業は含まれていなかったわけで、こちらの都合を無理に押し付けていたのに頑張ってくれたのには、とても感謝しているんだ」


「・・・・・・ありがとうございます」


「なので、というわけではないけど、そろそろ鈴原さんには、本来の業務に集中して勤しんでもらえればと思ってね。鈴原さんは優秀だし、隣の子の教育のようなこともしているみたいだから、こちらとしても助かるんだけど」


「はあ・・・・・・」という、間が抜けたような声しか出なかった。事情がまだ飲みこめないけれど、ようするに今いる席を外せ、ということか。

 古賀さんが、秋に入社するから。けれど、何のためだろう。

 

 違和感ばかりがあるけれど、ひとまず何かしら返事をしないといけない。口を開きかけた時、隣の須藤さんが言った。


「編集長。その説明では、全くフェアじゃないと思います」


 わたしに指導していたときとは違った響きで、硬さを内に秘めた口調だった。


「古賀さんの入職を早める理由についても、私たちに明確な説明をいただけていません。そしてこれは私の認識不足でもありますが、古賀さんの職務歴についても、当初うかがっていたものとは食い違っており、鈴原さんと代わっていただく必要性は、まだないように思います」


 珍しい。須藤さんはこんな、人の話の途中で話に割り込んでくるようなタイプではない。言うことはときに厳しいけれど、相手の話は最後まで聞いて意見を言う。それに、こんなかたちで編集長に向けて発言しているのも、見たことがない。


 口調は丁寧でも、まるで、怒っているかのような。それに、「説明がない」「職務歴」「食い違い」? この流れだけだと、まったく先行きが見えない。

 苦いものを噛んだような表情を浮かべた編集長の隣から、古賀さんが言った。


「ですから、前回お伝えした通り、個人的な事情ですので、それ以上はお答えできません。急な時期の変更については申し訳ありませんが、事情は佐藤編集長にはお伝えしておりますので、それ以上皆様に開示する必要性はないものと思いますけれど」


「申し訳ない」と言いつつも、口調は軽やかで、須藤さんを見やる視線には、余裕のようなものまで感じられた。「個人的な事情」だから、詮索するな。言っていることは正しいのかもしれないけれど、何かわざとらしさのようなものを感じてしまう。

 いったい、何だろう。


「では、職務歴について改めてうかがいます。まず、古賀さんは、鈴原さんと同じく校正実務講座を履修し、修了。十年ほどの職務歴があるとうかがいましたが、その内訳が散発的な数件の業務のみとは、わたしはうかがっておりませんでした。また」


 一息置いて、須藤さんが続けた。


「香水についても、私から前回お願い申し上げました。紙を扱う現場です。もう少し、控えていただきたく」


「あら、そうでしたわね。それほど現場にお邪魔するつもりはなかったので、失礼しました」


 謝罪しつつも、古賀さんは、笑みを崩さない。静かなやりとりとは裏腹に、室内を、徐々に緊張感が満たしていく。少しずつしか、しかも半分勘でしかないようなものだけれど、つまり。


 これってわたしが古賀さんに、自己都合で校正業から追い出されるかもしれない、ということ?




 






 




 


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口に合わない望みは食えない。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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