57.強さ

「ありがとうね。助かった」


 ロープウェイの席に並んで腰かけた佑都くんは、黙って首を振った。


 依然と変わらず言葉少なだけど、よく考えてみたら彼にとって、わたしはだいぶお姉さんなわけで。年頃だし、そうそう気安く話せはしないか。むしろ、逆のほうだったらわたしが押されてしまいそうだ。なんていうか、可愛げに欠ける。

 

 虫よけスプレーをしてこなかったのか、半袖の腕の周りを払うしぐさをする佑都くんに、携帯型のスプレーを差しだした。


「良かったら、どうぞ」


「ありがとう、ございます・・・・・・」


 帽子をかぶった頭を、ぺこりと下げる。遠慮がちなその仕草は、もしかして照れ隠しか。懐かしさを覚え、わたしは知らず微笑んでいた。


「久しぶり、だね」


 スプレーを腕に吹き付けながら、佑都くんがまた頷く。わたしからは見下ろす格好になるので、暗闇と帽子のつばに隠れて、表情は見えない。もしかしたらまた、あの時のように、困ったような顔をしているのか。

 それは、彼にしか分からない。



「お姉さん・・・・・・」


 ナンパ男からどう逃れようかと辺りを探っていると、後ろから声がした。振り向いて思わず、「えー!」と声が出たのは、もう会わないだろうと思っていた佑都くんが、そこにぽつんと立っていたからだ。

 背後から、舌打ちが聞こえた。咄嗟に、口が動いた。


「ダメじゃない、一人でどっか行っちゃ。みんなのとこ、行こー!」


 話についていけずに困惑した様子の佑都くんを、ナンパ男の視界から背中で隠す。何かぶつぶつ話しかけられたけれどガン無視して、佑都くんの手を取ってその場を離れた。

 

 これが、ついさっきの出来事だ。



「なんかいきなり、ごめんね」


 理由はどうあれ、巻き込んでしまったことに変わりはない。二人そろってあの場を離れるための行動だったとはいえ、大の大人が子どもを巻き込んで、軽率だったと反省するしかない。ナンパ男には、あとで天罰が下ればいい。


 佑都くんは、黙ってまた、首を振った。


 道中少し話をした限りでは、佑都くんがあの植物園にいたのは、まったくの偶然。もともとは家族で動物園に来ていたのだけれど、植物には興味がないご両親と妹さん(当たり前だけど、初めて知った)にことわって、一人で散策していたらしい。


 本来の目的は、18時半頃に開花予告の出ていた、オオマツヨイグサだったらしい。パンフレットに書かれていたその情報を見落としていたわたしと違い、ばっちりその瞬間を目にした佑都くんは、頃合いだと、来た道を戻っていた。


 そこでたまたまわたしに出くわして、場の不穏な雰囲気と、後ろ姿と声でわたしだと気がつき、咄嗟に声をかけた、ということだった。

 彼の小さくて大きな勇気に、わたしは助けられたというわけだ。


「元気・・・・・・だった?」


 黙っていたほうがいいのかもしれないけれど、ついつい聞いてしまう。そんなの、肯定するしかない質問なのに。

 けれど予想とは違って、佑都くんはうっすら首を横に振った。


「・・・・・・そっか」


 気づかれないように、少しの間、目を閉じる。あの時と、同じ。

 いや、佑都くんが今いるのは、それ以上の場所なんだろう。

ズボンの膝の上で、気づけば小さな拳が握られていた。

 

 ロープウェイの所要時間は、およそ三分。

 もう、明かりのきらめく地上への距離は、近い。

 

 けれどわたしは、また何も言えずに目の前の空間を見ていた。この子に助けてもらったのに、わたしはまた何にもできないのか。

 例えば、明日香のような、頭が良くて、必要なことをちゃんと知っていそうな子なら。例えば、長瀬さんのような明るさとか、前向きな姿勢があれば。


 ないわけじゃないけれど、無理をしないとわたしは、そんなふうに振舞えない。そして、そんな無理した振舞いは、きっとこの子を傷つけてしまう。だからと言って、黙っていたいわけでもないのだけれど、それでも、そんな気がして、わたしはまた、口をつぐんでいた。

 やさしさまで中途半端なんだな、なんて、いつか思ったようなことを思いながら。

 

「お疲れ様でしたー!」


 ガコンと少しの揺れがはしり、係員さんが、笑顔で降車の合図を出す。

 他のお客さんに混じって、わたしたちはゴンドラをあとにした。


「お父さんたち、待ち合わせ?」


 訊いたと同時に、佑都くんのスマホが、ピコンと鳴った。


「十分くらいしたら来る、みたいです」


「そっか」


 周囲を再度、見渡す。さっきのゴンドラに、あのナンパ男はいなかった。

 ということは、ここでわたしたちが分かれて、佑都くんが一人でいるところに、あの男が居合わせる可能性も、なくはない。まさか絡まれるようなことはないだろうけど、巻き込んでしまったわたしにも責任がある。それに、ここは上の植物園と違って人通りも多いし、一人ではあるけど、警備服に身を包んだ人もいた。


「待ち合わせは?」


「入口のところ、みたいです」


 佑都くんが指さしたのは、係員がチケットを切る、動物園入口。その横に並んだ、ベンチのほうだった。ほとんどが埋まっているけれど、ぽつぽつ空いている場所があった。上の植物園と違って、明かりも広々と灯っているし、係の人も多い。

 つまりはまあ、安全そうだ。まさか、こんな公衆の面前でこんな子どもに、いちゃもんをつける奴はいないだろう。


「一緒に、待っていい?」


 そう言ってしまったのは、やさしさではなく、巻き込んでしまったという、罪悪感からだろう。それでも短慮なことを言ってしまったと気づいた。そういえば初めて会ったときも、こんなふうに唐突なことを言ったように思う。案の上、こちらを見やる佑都くんは、どう返事をしたらいいのか分からないといった顔をしている。


 慌てて、安全のため、ご家族が来るまで、他人のフリでいいから(というか、もともとほぼ他人かもしれないけど)と、付け加えた。少し思案した様子の佑都くんは、こくんと頷いた。自分を、というより、わたしのためかもしれない。

 ちょうどご高齢の夫婦と、赤ちゃん連れの四人家族の間にスペースが空き、わたしたちは、少し離れて腰を下ろした。


「オオマヨイグサだっけ。わたしは、見損なったな。開くとこ」


「あ、オオマツ《´》ヨイグサ・・・・・・」


「あ・・・・・・」


 やらかした。オオマヨイしてるのは、草ではなくてわたしだ。だってさっきから、ろくな話題が浮かばない。というか、話すのが正解なのか、そうでないのか。

 ぐるぐる思考に陥っていると、佑都くんが短く、息をもらした。ため息? いや、もしかして、笑ってくれた・・・・・・?


「キレイ、でした」


 少しの沈黙の後、小さな声で佑都くんが言った。帽子の影から見える頬は、少し和らいでいる気がした。きちんと畳んでいたひざ元が、いつの間にか崩れていた。


「うん。キレイだったね」


 まあ、わたしは出遅れたんだけど。でも、そうだね。キレイだったね。


「折り紙、みたいだったよ」


 目に入る幸せそうな光景を前に、自然と、その言葉を口にしていた。隣の佑都くんが、何かを言いかけた。そのとき、また、スマホの着信音がした。


「もう、来るって」


「そっか」


 時間切れか。言わぬが花か。フラミンゴの広場のほうから、何人かが降りてくるのが見えた。


「あのさ」


 今日初めて、はっきりと呼び掛けた気がした。こちらを見上げた佑都くんは、あの時と同じ、迷ったような、そして不思議そうにこちらを見やるあの目をしていた。


「わたし、ね。他の人みたいに、できなかったんだ。大人なのに。でも、今・・・・・・」


 二度の退職が、頭をよぎる。何度吐こうが、原因の分からない熱が出ようが、社会に出ている以上、強くなくちゃいけない。

 そして、わたしにはそれができなかった。それは、わたしだけのせいじゃないかもしれない。けれど、その二度の経験が、わたしの不安と、足枷になった。


 薬剤師になった姉、夢を叶えた親友、それぞれの場所をちゃんと手に入れた友達。わたしだけ、順路を外れて、どこにも行けなくなったと思った。

 今いる場所だって、いつまで続くか分からない。月日が経ったとき、擬態したわたしは、何かを手にしているのだろうかと。


 自分が発したのに、「大人」なんて、なんてあやふやな言葉なんだろう。こんな小さな子に、わたしがこんなことを言って、どうなるというのだろう。

 

 続かない言葉で、けれど、伝えたかった。ワガママかもしれないけど、常識とか建前とかで着ぶくれていない、わたしの言葉を伝えたかった。スマートでも、前向きでもないけど、何か伝わってほしかった。


 風に乗って、少し離れた通路から、佑都くんの名を呼ぶ声が聞こえた。



 








  






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