おまけ

—ハル—

夏のはじまり

「おかえり。今日ナッちゃんがきたわよ」


 キッチンで玉ねぎを刻みながら母はなんでもないことのようにそういった。あたしは反射的に「へえ」と相槌をうって、はたと固まってしまう。今、なんて?


「ひさしぶりよねえ。中学のとき以来?」


 ふだんあたしは実家から電車で二十分ほどのところでひとり暮らしをしているのだけど、ちょうど会社を出るころ『用がなければ今日はこっちに帰っておいで』とスマホに母からメッセージが届いた。

 なんかあるの? と問えば『昼間お客さんがきて、おいしいお菓子をもらったから』と返ってきたので、ちょうど明日は休日だし、そういうことならと深く考えずに帰ってきたわけだが——


「ナッちゃんね、結婚するんですって。なんでもお相手がイタリア人で、結婚したらイタリアむこうで暮らすことになるんだっていってたわよ」


 いや待って。待って。結婚? イタリア? 思考がフリーズしてしまって、言葉が情報として頭の中にまではいってこない。

 いったん落ちつこう。まずは落ちつこう。


 ——ナッちゃん。


 心の中でその名を呼んでみる。それだけで胸の奥がちくりと痛んだ。小さな痛みが呼び水となって、遠くに追いやっていた記憶が高波となって押し寄せてくる。


 ♧


 幼稚園で出会ったナッちゃんは、ずっとあたしの憧れだった。

 頭がよくて、落ちついていて、すらりと長い手足も大人っぽくて。


 冬生まれのナッちゃんは、奈津なつであって夏ではないといっていたけれど、それはそのとおりなんだけれど、でもあたしにとってナッちゃんはなぜか『夏』の人だった。

 弟の夏久なつひさよりも、ナッちゃんのほうがずっと夏らしい。いや、そうじゃないな。夏らしいとか夏っぽいというのとは違う。なんだろう。夏に負けない——というのが近いだろうか。

 年々ひどくなっていく暑さの中でもしゃっきり立って、その背中に夏をしたがえている。ナッちゃんはそんなイメージだ。


 対するあたしは秋生まれで名前を春乃はるのという。なんでそんなちぐはぐな名前をつけられたのかといえば、秋人あきひと美冬みふゆという秋と冬の名を持つ両親が家族で四季の名前をそろえたいと考えたからだ。ちなみに弟の夏久は春生まれである。両親の単純なのぞみがややこしい名づけの原因となったわけだ。おかげで自己紹介の鉄板ネタになった。

 なんにせよ、そんなちぐはぐな名前を持つあたしは、小学生になったころからチビだちんちくりんだとクラスの男子たちによくからかわれるようになった。

 そういう男子たちのほうがよっぽど小さい(人として)じゃないかと思いながらも、あんまりにもチビ、チビいわれているとだんだん気になってくるものである。ナッちゃんがスラッとしていたからなおさら。


 ——気にすることないよ。人の見た目をからかうなんて最低な人間のやることだって、お母さんいってたもん。


 そういってくれたナッちゃんはやっぱりカッコよくて、あたしはせめて背丈くらい追いつきたいと思った。

 ちょうどそのころだ。あの、秘密基地みたいな公園をみつけたのは。

 坂の上の住宅街の入り口からすこしはずれたところにある、スプリング遊具とベンチがそっけなく置いてあるだけの、誰からも忘れ去られてしまったような小さな公園。

 あたしは半分遊びで、半分は本気で、そこに植わっていた桜の木に願掛けをした。ナッちゃんと背くらべをして、パンパンと手をあわせてお祈りをする。


 ——背が伸びますように! ナッちゃんに追いつきますように!


 ナッちゃんはちょっとあきれているみたいだったけれど、なんだかんだで笑ってつきあってくれた。


 それからもたびたび願掛け背くらべをした。

 あたしの背が伸びればおなじくらいナッちゃんの背も伸びるものだから、結局身長差はほとんど変わらないままだったけれど、それでもよかった。二人だけの特別な場所ができたことのほうが、あたしにはずっとうれしかったのだ。

 ナッちゃんとはずっと仲よしでいられる。なんの根拠もなく、そのころのあたしはそう信じこんでいた。

 だから五年生になって、ナッちゃんに避けられるようになったときはひどく動揺してしまった。


 なにか悪いことをしてしまったのだろうか。

 なにか怒らせるようなことをいってしまったのだろうか。

 なにがいけなかったのだろう。

 あわてて直近の記憶をあさってみたけれど、これといった心あたりもみつからない。

 ただ、そのころのナッちゃんはなんとなく元気がなくて、気がつくとあたしばかりしゃべっている——ということが増えていた。もしかしてそれがいけなかったのか。

 それならそうといってくれればいいのに。どうしたのとたずねても『どうもしないよ』と笑っていたのはナッちゃんなのに。

 話したくないことは無理に聞かない。必要ならきっと話してくれる。友だちだから。そう信じていたのだけれど。

 いったいあたしがなにをしたというのだろう。

 かなしくて、腹が立って、それなら直接たずねてみればよかったのだろうけれど、意気地のないあたしには、どうしてもそれができなかった。

 あたしはたぶん、人に深く踏みこんで嫌われるのが怖かったのだと思う。相手がナッちゃんとなればなおさらだ。

 でも、そのせいで手遅れになってしまった。

 気がついたときには、ナッちゃんのあたしを見る瞳に嫌悪と拒絶がはっきりと映しだされていて、それを見たあたしの心は、なにもしないままにくじけてしまったのだ。

 嫌われたくないと行動しなかったせいで、とり返しがつかないくらいに嫌われるまで気づかなかったなんて、ほんとうにバカみたいだ。


 あのときから、桜の木にかける願いごとが変わった。

 ナッちゃんがなにか困っているなら早く解決しますように。そしてまたナッちゃんと遊べるようになりますように。

 どこかでもう後者は無理だろうと感じていたけれど、それでも願わずにはいられなかった。

 だけど、決定的な別れは急に訪れる。

 中学二年生になった春休み明け。配られたクラスわけのプリントにはナッちゃんの名前がなくて、学校にも姿が見えなかった。それで気になって、一年生のときにナッちゃんの担任だった先生に聞きに行ったのだ。

 あたしはそこではじめて知った。

 ナッちゃんのご両親が離婚したこと。ナッちゃんはお母さんと一緒に、お母さんの実家に引っ越したということ。

 やはりあの桜の木にかけた願いが叶えられることはなく、春休みのあいだにナッちゃんはこの町からいなくなってしまっていた。

 事情が事情だから、引っ越すまではクラスメートにも話さないでほしいと、担任の先生はナッちゃんから頼まれていたのだそうだ。


 ようやくわかったような気がした。ナッちゃんがどうしてあたしを拒絶するようになったのか。

 当時からうちの両親はすこぶる仲がよかった。その夫婦仲のよさはあたしと弟をどん引きさせるくらいだ。そしてあたしと弟の仲も悪くない。

 だから、休みの日に家族でどこに行ったとか、お父さんがお母さんのこと好きすぎて困るとか、あたしは日常的にそんな話をナッちゃんにしていた。ナッちゃんの家がどんな状況になっていたかも知らないで。

 そりゃあ、嫌われるよね。

 でもじゃあ、どうすればよかったんだろう。

 しばらくはそんな、あとから悩んだってどうしようもないことを考えてはクヨクヨしていたけれど、時間と一緒にナッちゃんとの日々も遠くに流れていった。

 それでも一年に一度か二度、気がつくとあの桜の木に足が向いていた。

 後悔か未練か、よくわからないけれど。中学を卒業したとき。はじめて彼氏ができたとき。節目といわれるようなことがあるたび行っていたような気がする。最後に行ったのはたしか二十歳の誕生日だった。


 ——ナッちゃん。


「あ、そうそう。テーブルのメモ、ナッちゃんの連絡先だから。律儀なのは相変わらずねー。あんたに無断で聞くわけにはいかないからって、自分のだけ置いてったのよ」


 ダイニングテーブルを見ると、確かにメッセージアプリのIDと電話番号が書かれたメモが置かれていた。

 手にとろうと伸ばした指先がふるえていて苦笑してしまう。

 動揺しすぎだろうと思うけれど、動揺するのはあたりまえだとも思う。


「ナッちゃん、明日の夕方まではこっちにいるっていってたわよ」


 母に礼をいって、あたしはいったん二階にある自分の部屋へひっこんだ。


 ♧


 行動に移す理由もきっかけもナッちゃんがくれた。あとはあたしが行動するだけだ。

 手がふるえるし、手汗もすごいし、心臓壊れそうだし、涙まで出てきそうだ。

 急にあのころ——なんで避けられているのかわからなくておろおろするだけだった、小学生のころにもどったみたいでひどく心細い。

 ベッドに腰をおろして、バッグからスマホをとりだす。

 電話——はハードルが高い。ナッちゃんもそう思ったからIDをそえたのではないだろうか。

 ナッちゃんのIDを入力して検索をかける。

 ユーザー名ナツ。アイコンはあの桜の木だった。正確にはあの桜の木の幹を大写しにしたものだ。すこし薄くなった線のななめ上に真新しい線が引かれているのがわかる。

 今日限定かな。あたしにだけ通じるそのアイコンに、泣きたいような笑いたいような気持ちが体中をぐるぐると駆けめぐって忙しい。


 ——ナッちゃん。


 何度も何度も打ち直して、やっとできた文章はなんだかそっけないような気がしたけれど、これ以上時間をかけたらまた心がくじけてしまいそうだったから、えいっと送信マークをタップする。こういうのを『清水の舞台から飛びおりる』というのだろうか。

 スマホを両手で握りしめて、送信された文章を意味なく凝視する。


>ナッちゃん。ハルです。

>明日までこちらにいるって母から聞きました。

>会えるかな。会いたいな。

>あの公園、秘密基地で。

>明日のお昼ごろ、どうかな。


 何度も何度も読み返して気が遠くなりそうになったころ(実際には五分も経っていなかったと思うけれど)シュポッと間の抜けた音とともに返信が届いた。


>ハルちゃん、ありがとう。

>ありがとう。

>私も会いたい。

>話したいこと、たくさんあるの。

>明日、待ってる。


 あーとかうーとか、言葉にならない声がもれた。

 うれしくて、ほっとして、そうこうしているうちにだんだん緊張してくる。やだもう。好きな人との初デートでもこんなにドキドキしないよ。ほんとうに今日のあたしは忙しいな。


「姉ちゃん、めしー」


 ノックの音と同時にドアの向こうから弟の声が聞こえた。「今行くー」と答えて、ようやくスマホから目と手を離す。

 そういえば夏久の初恋はナッちゃんだったっけ。まあ夏久が幼稚園のころの話だけど。今はもう大学四年生。家族から見ればサービス精神旺盛で気がやさしいやつなのだけど、大学ではチャラ男と認識されているらしい。


「あっ!」


 そういえばさっきお母さん、ナッちゃん結婚するっていってなかったっけ。しかも国際結婚。どうしようお祝い。明日朝イチでなにか買いに行こうか。

 それにしても結婚。結婚か。ナッちゃんが結婚。旦那さん、どんな人なんだろう。

 ——ナッちゃんがなにか困っているなら早く解決しますように。そしてまたナッちゃんと遊べるようになりますように。

 あの日、桜の木にかけた願いごと。もしかしてやっと叶えてくれる気になったのだろうか。

 一階におりていくと、テレビから梅雨明けしたというアナウンサーの声が聞こえてきた。


 今年はきっと、いい夏になる。ね、ナッちゃん。



     (了)

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春にさよなら 野森ちえこ @nono_chie

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