エピローグ 碧玉の目と燿(かが)やく髪の
「万事丸く収まったな。後宮も風通しが良くなったし、お前の怪我も無事に癒えるとのこと、大変めでたい」
手土産の菓子を卓に広げながらの義兄の言葉に、素直に頷くことができなくて。碧燿はじっとりと目の前の貴公子を睨んだ。
「
今回の件では、結局のところ
皇帝・
(分かっていたなら、最初から教えていただきたかったのですが?)
抗議を込めた視線は、けれど、珀雅の輝くばかりの笑顔にはね返されて、まるで答えた様子がなかった。
「
あっさりと認めながら、彼が茶を淹れる手つきも淀みない。素早く茶器を渡す手際の良さといい、瞬く間に皮肉っぽい表情を浮かべたことといい、実に的確に碧燿の口を塞いでくる。さすが、義妹の扱いに慣れているだけのことはある。
「男と女がいれば自然とそういう仲になるだろう、とは浅はかなことだ」
藍熾と
(良い
父を殺され母を亡くし、短い間とはいえ奴隷として扱われた碧燿は、
優雅な所作で茶器を口元に運ぶ珀雅は、どうにも軽薄で、信用しきれない雰囲気を漂わせてはいるのだけれど。
「だが、後宮の奥を探る手段は限られているし、何より、下手な者が調べても陛下はお聞き入れくださらなかっただろう。
「だから私、ですか……?」
「そう。裏も表もない娘だと、すぐに分かってくださるだろうからな」
……それでは、藍熾が
(
碧燿の頼みごとが無理難題であればあるほど、彼女の性格を藍熾に見せつけることができたのだから。何となく、あの時礼を言って損をした気分になりながら、碧燿も茶器に口をつける。茶の芳香で気分を落ち着けてから、指摘してみる。
「……陛下はご傷心なのでしょう。新しい
あの傲慢な皇帝陛下は、きっと臣下に見せたりはしないのだろうけれど。家族だと思っていた相手に心を寄せられていたこと。それを拒絶し、その相手と決別しなければならなかったこと。いずれもなかなかに堪えることだろう。
(傷心のところに、つけこむ? ……まさか。図々しい)
義父や義兄もそこまでは言わないだろう。頭に
「それに私は、
「少なくとも、陛下と繋ぎを持っておくのは良いことだろう? ご威光をお借りすれば、何かとやりやすくなるだろう」
「庇護を得てしまっては、陛下に都合の悪いことがあった場合に筆が鈍ってしまいます。それはよろしくありません」
「
「好きだろう?」
「はい。ありがとうございます」
義兄は、本当に彼女の好みを把握しているのだ。ただ──懐かしい甘味は、今は少し苦くもある。
「……貴妃様のところでもいただいたので、ちょっと」
父を思い出させられたすぐ後に、母の好んだ味を舌に乗せた。それが、どうにも引っかかっていた。──その理由に思い当たったのは、炎に巻かれて意識がもうろうとした時、だった。母の声が、耳に蘇った気がしたのだ。
「懐妊中は避けるべき食べ物が多いそうで。
父が殺された時、母は懐妊していたのだ。碧燿の弟になるはずの子だった。無事に産まれていたら、母が生きる気力にもなっていただろうか。
「菓子のひとつやふたつなら良いのかもしれないのですが。どうせ堕胎させられるのだから好きに食べよう、という方には見えなかったので……」
私はもう良いから、あとは食べなさい。そう言って、娘に菓子を食べさせてから、口元を拭い、頬を撫でていく。その、母の指先を感じた気がして、碧燿は顔を両手で包み込んだ。何という非礼だろう、
(お伝えしておけば良かった? 優しい方に見えたから、って……)
だからこそ違和感を持ったのだ、と。でも、碧燿の目からどう見えたかなどと、あの方には何の慰めにもならないだろう。
「それでは、母君が教えてくれたようなものなのだな」
「はい」
「危険なことをされては、
「……はい」
母を引き合いに出されては強情を通すにはいかず、碧燿は大人しく頷いた。
「まあ……今回は特別でしたでしょう。私も、陛下が仰るところの些事の担当に戻りましたし。陛下を欺く陰謀など、そうそう起きないでしょう。というか、
「そうだな。むろん、そのように努めるとも。私のほうでは、な」
義兄の綺麗な笑顔が、どこか胡散臭いのはいつものことだ。だから、碧燿は深く考えなかった。義妹から釘を刺されて、さすがに少々痛かったのだろう、ていどにしか思わなかった。これで、平穏な日々が戻るのだ、と。
その時は、信じていたのだ。
* * *
数日後、
「……どうしていらっしゃるのですか」
「いて悪いか? 俺を何者と心得る」
初対面の時に発した言葉を、あの時の苛立ちではなく
(……割と元気そうじゃない……!)
「……重々心得てはおりますが、だからこそ軽々しく口にできません。……どうして、そのような格好でいらっしゃるのですか」
質問の内容を増やして、もう一度問う。藍熾は、これまた最初の時のように、下級官吏の格好をしていた。また記録を誤魔化して抜け出したのだろう。碧燿の職務に対する挑戦だろうか。
「使えるものは使う、と言っただろう。お前を遊ばせておくなど損失だ」
「遊んでいる訳ではございません」
神聖な職務を軽んじられることにも、既視感がある。碧燿が声と視線を尖らせても、もちろん顧みられることはない。せめてもの抗議に座ったままの彼女に対し、藍熾は直立した高みから一方的に宣告してくる。
「お前の主義は理解したから、
けれど、藍熾の言葉の途中で、碧燿は耐えきれなくなって立ち上がった。強い意志を湛えた青い目が、近い。皇帝に詰め寄るのは重罪に当たるかもしれないけれど──高貴な御方がこんな場所にいるはずがない。いない、ことになっているはず。だから遠慮せずに物申す。
「あの、もしや
「真実を記すことではなかったのか?」
「……はい。仰せの通りです」
……物申すつもりが、怪訝そうに首を傾けられて、頷いてしまう。
(覚えていたんだ……)
正直に言って、多忙と傲慢を極める皇帝が、彼女の言葉をいちいち記憶しているとは思っていなかった。けれど、それを言われては否定することは碧燿にはできはしない。
「
「当たり前です!」
夜伽の記録は、閨でのやり取りも含まれるのだ。他人の閨を覗き見るなど、それを若い娘に命じるなど、考えられない、あり得ないことだ。
「ならば問題はあるまい。お前は目端が利くようだから、余人では気付かぬことを見つけられよう。そうして分かったことを、思う存分記せば良い」
当然のようにのたまう藍熾に、珀雅に告げたことを繰り返しても良かった。皇帝の庇護下にあっては真実を記す筆が鈍る、と。でも──
(この方は、私の言葉を容れてくれた。罰することもしなかった)
大切な
(たまたまかもしれない。
疑う理由は、いくらでもあった。高貴な方々にとって、碧燿のような者の命はごく軽いのだ。いずれ、彼女も父のように死を賜ることになるかも。
「……はい。
──でも、構うまい。藍熾は、直々に姿を見せてまで碧燿が記す真実を求めてくれた。少なくとも、今のところは。この先ずっと変わらないという確信は、まだ持てないけれど。まあ、万一の時は、義父や義兄が逃げる時間くらいは稼いでくれるのではないだろうか。
「色々と、煩いことも申し上げるつもりです。心してくださいますように」
「口の減らぬことだ。だが──その調子だからわざわざ迎えに来てやったのだ」
不吉な未来は、まだ考えずとも良いだろう。今はただ、不敵に笑う藍熾のために筆を執るのが楽しみだった。
* * *
皇帝の傍近くに仕える、
後宮の記録女官は真実を記す 悠井すみれ @Veilchen
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