第15話 動機、あるいは貴妃の望み
「
深窓の姫君にあるまじき直截な表現は、かなり無理をして口にしたのではないか、と思われた。ほんのりと、耳まで赤く染まった貴妃の恥じらう表情は、女の
(とても普通の方、なのね……)
義務として淡々と、思い入れもなく妃嬪を召す皇帝は、
でも、そんな藍熾の普通さは、
「けれど、わたくしはほかの者たちよりは藍熾様を信じておりました。不義を犯した妃には、正しく死を賜ってくださると。……
「……義父や義兄は、そこまで悪辣ではございません」
しっとりとした眼差しを受けて、碧燿は小さく呟いた。先日、
(おかしいとは思ったのよ。不義を公表すれば、この方も無事では済まないのに)
不義を犯した罪滅ぼしとして、皇帝に害為すものを道連れにしようとしているのか、とも思った。けれど、この方は懐妊していないのではないないか、と考えるとすべてがひっくり返った。真実を打ち明ければ罰せられる必要などないのに、そうしなかったということは。
この方は、死にたかった。そして、そうならないことに焦り、絶望していたのだ。
「……死を望んでいたのか。俺に、そのようなことをさせようとしていたのか。なぜだ」
「後宮の
ようやく理解されたことに安堵してか、貴妃の頬に少しだけ光が射したように見えた。声の調子も晴れやかで──けれど、碧燿には奥底に潜む冷ややかさが聞き取れた。
(この方は、ご実家を切り捨てたのね)
実家に罪が及ぶのを恐れて、これまで自害することはできなかった。けれど、皇帝を欺く企みを持ちかけられて、
(いいえ、
藍熾が先ほど言った通り、彼女の名誉を傷つけ、命まで危険に晒す策でもあった。何より──彼の心を見せつけられるのは辛く悲しいことだっただろう。不義を犯しながら責められないのは、女として見てはいないと突きつけられること。そんな思いは、したくなかっただろうに。
「そういうことではなく……!」
藍熾は、たぶんまだ貴妃の感情をよく分かっていない。というか、彼女が死のうとしていたことに気が取られて、姉同然の相手から思慕されていたと認めたくないのかもしれない。
それはきっと、貴妃にとっては
「
「何の話だ……?」
「わたくしを、名ばかりの貴妃と嘲っていたのは、ということです。もちろん、皆様、表立って言うことはありません。けれど分かるようにしてくださるのです。言葉の端々や笑い方、目線なんかで……!」
後宮という狭い鳥籠の中で、心を
「最初は、どなたも助けてください、と言ってくるのよ。藍熾様、少しでも貴方の気を惹くにはどうすれば良いのか、って。縋って、拝むように。そうして、めでたくお召しがあると御礼に来てくださるの。わたくしの番が来た時のために、って、何があったかをこと細かに、嬉しそうに……!」
皇帝に召されたところで、素直に喜んで勝ち誇った女がどれだけいたのだろう。物のように運ばれて、素っ気なく扱われて、かえって寵愛への夢や希望に
(でも、この方はそう感じた)
理屈ではないことだ。傍から口を出して感じ方を変えさせるなんて不可能なこと。もう遅いことでもあるし──貴妃は、藍熾にこそ思いのたけをぶつけたいのだろうから。
「
「俺は」
藍熾にとっても、初めて目にする不吉な笑みで、初めて聞いた昏い想いだっただろう。ようやく紡ぎ出された彼の声は、いつもの傲慢さの影もなく弱々しく
「
「もったいない御心と、存じてはおりました。けれど嬉しくはありませんでした。わたくしが欲しいものを、貴方は決してくださらない。分かってはいました。分かっていたけれど──思い知らされました」
貴妃は、愛して欲しかった、などとは言わなかった。この期に及んで乞うたところで、叶わないのが分かり切っているからだろう。儚い笑みは、それでもどこか満足そうで──愛する人を十分傷つけ苦しめたことを知って、喜んでいるようにも見えた。
(それとも、終わりにできるから……?)
貴妃と藍熾の関係はこれまでは安定していた。荒れ狂う内心を抑えて、優しく微笑む日々は辛かっただろう。でも、企みを暴かれ、ここまで心の奥底をさらけ出しては、もう以前のようにはもう以前の関係には戻れない。藍熾にとっては受け入れがたいことかもしれないけれど、貴妃にとっては解放なのかもしれない。碧燿にはそう感じられた。
「
少なくとも、藍熾に向けた貴妃の笑顔は、こんどこそ曇りなく清らかで晴れやかなものだった。
「どうか、わたくしに死を賜りますように」
* * *
ほどなくして、後宮の記録に一節が加わった。
白鷺貴妃、病を得る。格別の寵をもって、後宮を辞することを許される。
後宮の女は、普通なら死ななければ後宮を出られない。身分高い妃嬪でも、最期に家族に会うこともできなくて当たり前なのだ。そんな中、この情念渦巻く鳥籠から解放されたのは、確かに格別の待遇ではあっただろう。恐らく、
とはいえ、今回ばかりは
(
死を願うほどに思い詰めるのも、愛する人を傷つけて悦んでしまうのも、健やかな心の在り方ではない。病むのは肉体ばかりではないのを、彼女はよく知っている。
だから、慣れたいつもの仕事に戻った碧燿は、筆を休めて目を上げた時に、窓の外を飛ぶ
真白い鳥を思わせる、あの美しく気高い方が、いずれ傷を癒してのびやかに羽ばたくことができれば良い、と。
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