5-16
願いは届かなかった。
シオリカは落胆に任せて胸に溜まっていた空気を長く細く吐き出しながら、真闇に戻った足許に目線を落とした。
けれど、それでもまだ頭の片隅で何か他にチリを見つけ出す方法はないかと思考が右往左往を繰り返している自分がいた。そしてそれを冷たい目線で嘲笑う自分もいる。
もう諦めなって。
あんたにできることなんて所詮は付け焼き刃の古代科学。
そんなものでチリを助けようだなんて思い上がりもいいとこだったのよ。
ぎりりと奥歯が鳴った。
悔しさと絶望がないまぜになって下腹から込み上げてくる。
けれどそれにも増して尖った氷のような哀しみがジワジワと足下から突き上げてくる。
ごめんね、チリ。
私、バカだったよ。
チリになんて言われても、周りの目なんて気にせずに私、ずっとチリのそばにいるべきだったよ。
そうしていればきっとこんなことには……。
不意に目蓋から熱いものが溢れ落ちた。
そして幾筋もの流れとなって頬を伝い、闇となった岩場へと消えていく。
シオリカはそれを拭おうともせず、声を押し殺してただ足許の暗闇を見つめ続けた。
するとしばらくして耳にゼノの低い声が響いてきた。
**********
「なあバルタ、そろそろ……」
花火が創り出した雪降る光の世界が終焉を迎えてすでにかなりの時間が経っていた。それなのにいつまでも潮騒を睨んでいるバルタを哀れに思い、その肩を叩くと思いがけない言葉が返ってきた。
「……ゼノさん、あそこ、なんか見えねえっすか」
どんなときも威勢が良いバルタにしてはずいぶんと慎重な声色である。
「ああ? どこだよ」
バルタが指し示していたのは沖に二十メードほど離れた波間だった。
目を凝らして見つめると確かにその場所の海面に微かに青白い一筋の線が揺らいでいるように見えた。けれどゼノは思わず失笑をこぼす。
「おい、ありゃあ夜光虫だ。おまえだってよく知っているだろう」
夜光虫は海の中に漂う眼に視えるかどうかの微細な生物である。
それが集まると夜間、岸辺に打ち寄せる波を青く染めてその光景は目を瞠るほどに美しい。けれど浜に住む者には夜光虫など別段珍しくもない代物である。ゼノはバルタが余程チリのことを諦めきれないのだと察してもう一度肩を叩いた。
「仕方ねえさ。俺たちは充分やっ……」
「夜光虫は月が出てないと光らないはずっすよ」
慰めを遮ったバルタの声に再び活力が宿り始めている。
確かにそうだ。新月の晩に夜光虫は光らない。
じゃあ、あれは……。
ゼノは思わずゴクリと喉を鳴らしたときにはすでにバルタは上衣を脱ぎ始めている。
「どうしたんですか。なにか見つかったんですか」
背後に歩み寄ってきたシオリカの声にバルタはもどかしく振り返って答えた。
「分かんねえ。けどよ、ありゃあ花火が上がる前にはなかった光だ。ちょっと確かめてくるぜ」
「おい、バルタ。まさか飛び込むつもりか。闇夜の海は危ねえぞ。それにまだ波は荒いんだ。そんなことをしたらおまえまで……」
けれどその警告も虚しく、ゼノが言い終える前にバルタは海に飛び込み、その水飛沫の音が盛大に響いてきた。
**********
ゼノさん、
でもここは素直に言うこと聞いてはいられねえんだ。
あれがなんだかは分かんねえ。
もしかすると藻が漂ってるだけかもしれねえ。
でもよ、微かな望みかもしれねえけど、あれが何かを確かめなかったら一生後悔することになる。そんな気がするんですよ。
もう、嫌なんすよ。
自分の身を守るためにできることを諦めるってのは。
バルタは幾度も覆い被さってくる波に逆らって力の限りに海水を掻いた。
夏が近いというのに水温がずいぶんと低い。
チリ、おまえこんな冷たい嵐の海を漂ってここまで戻ってきたのかよ。
たいしたもんだぜ。
青白い光に少しずつ近づきながらも体からは急速に熱が奪われていく。
そしてそれは立ち所に疲労感に変わり、バルタの四肢の動きを鈍らせた。
確かにゼノさんのいう通りだ。
こりゃあ泳ぎが達者でなけりゃ、あっという間に溺れちまうな。
バルタは漁師仲間の間では一二を争う優れた泳者である。
けれど過信は禁物だ。
甘くみると呆気なく命を奪われる、それが海というものだ。
バルタはそれを深く肝に銘じながらも動きが鈍りつつある腕で必死に水を掻いて進んでいく。
頼む、ラティスの女神様。
今回だけでいい。俺のわがままを聞いてくれ。
被さった波から頭を浮かせると目と鼻の先に薄ぼんやりとした青白い光が目に入った。バルタは逸る心を抑えて慎重に息継ぎを繰り返し、そしてとうとう光に右手を届かせた。
指先に硬いものが触れた。
けれどその手触りは思いがけず鋭く尖った岩のようである。
どうやらこの辺りの水底にも隠れた岩礁があり、そこから突き出した岩が海面スレスレのところに顔を出しているらしい。
バルタは落胆した。
なんだ、岩だったかよ。
思わず舌打ちをして、その岩の先を恨めしく見遣ると一本の青白い光の筋がすぐそばに突き出している。目を凝らすとどうやらそれは岩の突端に引っかかっている棒のようである。
―――― なんだよ、これ。
肌寒さで動きが緩慢になった腕をなんとか持ち上げ、バルタは眉を顰めながらその光の棒をつかんだ。するとその指先に思いも寄らない灼熱が伝わってきた。
「あちッ!」
思わず手を離して引いた。
そのときだった。
棒から放たれた放射状の閃光が辺り一面の波間に雷のように走った。
バルタはその光景に驚き、目を見開いた。
するとその瞳が波間から夜空を眺めるように浮かんだ人間の顔を捉える。
―――― まさか。
バルタは息を飲み、そして次の瞬間、海水が口に入るのも厭わず大声で叫び上げた。
「チリィッッッ!!! チリがいたぞッ!」
それからバルタは慌てふためくようにしてチリの体を探し、海中でその脇に腕を回した。
「おい、チリ、大丈夫か。目を覚ませ。返事しろ」
抱き寄せた体はぐったりとして微動だにしない。
体温も一切感じられない。
バルタは焦りつつ浮かせたチリの胸に耳を当てた。
……トクン……トクン……。
激しい波音に掻き消されそうな心細く緩慢な鼓動をバルタは確かに感じ取った。
バルタの全身に感動と嬉しさが一気に込み上げた。
「生きてるッ! チリは生きてるッ! クハハッ、さすがは英雄の息子だぜッ!」
感極まったバルタは何度もそう雄叫びを上げながら、光の棒を抱きしめて離さないチリの身体を引き摺って泳ぎ、なんとかシオリカとゼノの待つ岸辺にたどり着いた。
ロストテック・Tokyo 那智 風太郎 @edage1999
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