第10話 結末

 床に叩きつけられ、粉々に割れたグラスと共に絨毯にじわりと赤い染みが広がった。グラスを落とした男は頭を抱えるかのようにうつむいて額に手をやる。そして次の瞬間にむしりとるように一息に仮面を外した。


 現れたのは炎のように赤い髪と、鋭く光る緋色の瞳。祭壇の前に立ったアデルバートの姿を目にした招待客が一斉にどよめく。


「だ、誰だお前は!? 王子殿下はどうされたんだ?」

「まさかお前、賊か!?」

「誰か! あいつを捕まえろ!」

「静粛に。殿下はご無事だ。そしてこの中に殿下を害そうとする賊がいるのは間違いない。その証拠に、この聖杯の酒には毒が入れられている!」


 アデルの高らかな声と同時に女性客から悲鳴があがった。それを皮切りに空気が一気に崩れ、招待客達の顔が驚愕と恐怖に包まれる。だが慌てふためいて祭壇から逃げようとする客達に紛れて動く影をリディアは見逃さなかった。


「アデル! 時計台の近くにいる男よ! 灰色の服を着て烏の羽飾りがついた仮面を被っている人! 彼がガルムよ!」


 リディアの言葉と同時にアデルが祭壇から飛び降りる。驚いて逃げ出そうとする灰色のマントを着た男の腕を取って床にねじ伏せると、転んだ拍子に男の顔から仮面と帽子がずり落ちた。帽子の中から出てきたのは黒黒とした髪に褐色の肌。口周りまで顎髭に覆われたその男はガルムその人だった。 


「なぜだ! なぜ王子ではなく貴様が祭壇にいるのだ! くそっ汚いヴァルドの血め、 手を離せ!」

「口を慎め。お前がやったことはわかっている。詳しいことは牢で話してもらおうか」

「勝手なことを言うな! そもそも証拠はあるのか!? 憶測でこの私に恥をかかせればただでは置かないぞ」

「では今すぐこの杯に入っている酒を飲んでもらおうか。お前に飲めるのか?」


 アデルの言葉に、ガルムが憤怒の表情で歯を食いしばる。だがアデルに組み敷かれて彼は床に臥せったまま逃げることができない。

 激しく罵りながら暴れるガルムを押さえつけていると、コツコツと微かな靴音が耳朶を打つ。


「アデルバート・ロイス。これは一体どういうことだ。何が起こったんだ?」


 よく通る声が響き、リディアに連れられて男がやってきた。帽子と仮面は外しており、エリストリア人らしい光沢のある金髪と金色の瞳が厳しくガルムを捉えた。エリストリアの第一王子にして王位継承権第一位のクリストレルだ。

 王子の顔を見た瞬間、床に組み敷かれているガルムが顔色を変える。だがアデルがそれを一蹴し、王子に向かって頭を垂れた。


「殿下、貴方の命を狙う賊を取り押さえました。彼はこの聖杯の酒に毒を盛り、貴方を毒殺しようとした疑いがあります」

「違う! 私じゃない! 第一私が毒を盛った証拠がないではありませんか! 殿下、この者の言うことを信用なさいますな!」 

「いいえ、証拠ならここにあるわ」


 凛とした声がガルムの大声を遮る。彼の屋敷から持ち出した手紙をドレスの胸元から出すと今度こそガルムが悲鳴をあげた。


「この売女め! 貴族に飼われた奴隷の雌犬風情がよくも私をこんな目に!」

「犬は貴方よ。どんなに吠えたってここに書かれているのが動かぬ証拠だわ!」


 リディアが手紙を渡すと、内容を一読した王子が不愉快そうに眉をひそめる。手紙を畳んで顔を上げた王子の金色の瞳は氷のように冷え切っていた。


「この者を捉えて牢にぶちこめ! 詳細を吐かせるまで殺してはならぬ」

「嫌だやめてくれ! 私は頼まれてやったんだ! 私の意思じゃない! ああマジャルの神よお助けください!!」


 だがガルムの抵抗も虚しく、彼はやってきた近衛騎士達によってあっさりと連れて行かれた。ガルムは最後まで暴れていたようだが、彼の怒号が宮廷の奥へ消えていくと、周囲の者達も安堵したのか空気が一気に弛緩したのがわかった。

 王子も険しい顔を和らげ、肩の力を抜いてリディアに向き直る。


「お手柄だな、リディア、アデル。だがなぜ私の代わりにアデルが祭壇にいたんだ? 鐘が鳴って祭壇に行こうとしたら、私の代わりに別の者が祭壇にいて驚いたぞ」

「申し訳ありません殿下、突然のことでしたので。ガルムの屋敷であの手紙を見つけてから時間がなかったのです。殿下の代わりにアデルを祭壇に行かせたのは私です」


 リディアの言葉にアデルも頷く。だが彼はただ祭壇に行って酒のグラスを叩き割れと指示されただけだった。仮面や衣装で正体を伏せた客の中から、リディアがどうやって二人を見つけたのかはわからない。

 アデルが問うと、リディアが少し考える素振りを見せ、おずおずと口を開いた。


「二人を同時に探すのは無理だと思ったから、見つけるのは舞踏会の最中に賭けることにしたの。舞踏会なら相手と密着できる機会が増えるでしょう? ガルムは手首から肩にかけてサマール人特有の入れ墨を入れていたわ。ダンスで手を組む際に相手の手首が見えるから、そこで彼を見つけたの」

「なるほど、入れ墨で特定したのか。よく形を覚えていたな」

「身体的な特徴は個を特定する重要な要素だからしっかり覚えるの。でも入れ墨の形を覚えていたのは幸運だったわ。模様の意味を後でサフィールに聞こうと思って細部まで記憶していただけだから」

「いや、それを聞くだけでも十分称賛に値するよ。だが殿下はどうやって探し出したんだ? 王族は入れ墨など入れていないだろう」

「ええ、私は殿下の御体を直接見たことがないから身体部位から特定するのは難しいわね。だから殿下には

 

 そう言ってリディアが自分の仮面を指差す。舞踏会が始まる前につけていたのは顔全体を覆う白塗りのマスクだったが、舞踏会が始まってからはずっと目元だけを覆う簡易な仮面をつけているだけだった。

 リディアが仮面を外すと、青空のような明るい青い瞳が現れる。


「この宮廷の中で青い目がリディアだと知っているのは殿下とアデルだけだわ。だから舞踏会が始まってからはわざと瞳の色が見える仮面をつけていたの。他の人達は私の目を見て珍しそうな顔をしていたけど、殿下は私を見つけた時に微笑んでくださったからすぐにわかったわ」


 実の所、彼がリディアをアッサリと特定したのは本当のことだった。仮面と仮装で素性を伏せた王子はリディアの青い目を見た瞬間に顔をほころばせ、小声で名前を呼んでくれていた。そこで王子を特定したリディアは鐘の音が鳴るまで彼から離れずに踊っており、鐘の音が鳴った瞬間に衣服の裾を引いて彼を引き止めたのだった。

 後は前もって指示を受けていたアデルが王子のふりをして祭壇にあがり、杯を呷ろうと群衆の注目を引き付けている間にリディアがガルムの位置を素早く確認していたのだった。


「素晴らしい働きだ、リディア。これはローレンスも鼻が高いだろう。私の配下からアデルを贈ることができて良かったよ」


 すべての点が繋がり、王子が感嘆の息を吐く。アデルももうリディアのことを密偵ごっこなどと揶揄することはできなかった。彼女がきらびやかな宮廷の裏で暗躍し、まさに陰謀の種を摘み取った瞬間をこの目で見たのだから。

 男達の賞賛と感嘆の入り混じった視線を受けてリディアが恥ずかしそうに頬を赤らめる。あまりにも普通の女性らしいリディアの反応に、王子がはははと声をあげて笑った。


「さぁ、舞踏会はまだ途中だ。心配事がなくなったからにはリディアも存分に踊ってきなさい。アデル、君もな。これは勅命だぞ」

「まさか、殿下。そんな、ご冗談を」


 宮廷の優雅な踊りなど踊ったことがないアデルがぴしりと硬直する。その反応が面白くて、リディアがクスクスと笑いながらアデルの腕に自身の腕を絡ませた。


「私が教えてあげるわ、あっちにいきましょう」

「ま、待て。私は踊ったことなどないぞ」

「別に下手でも良いじゃない。私は気にしないわ」


 そう言って優雅にステップを踏みながらアデルの手を引く。おざなりに仮面はつけたままだが、リディアもアデルももう髪も瞳の色も露わにしながら舞踏会を楽しむことにした。

 向かい合わせになるとアデルとリディアは随分と体格が違う。頭一つ分は背の高いアデルを見上げながら、リディアはくるくると回って彼を誘導していった。

 グッと相手の腕を引いて胸の中に飛び込むと、アデルが咄嗟にリディアの腰を支える。ヴァルド人らしい厚い胸板の感触を頬に感じながらそっと視線をあげると、リディアを見下ろすアデルの顔がほんのり朱に染まっていた。


「もう、ヴァルド人は本当に頭が固いのね。身体の接触を伴う挨拶の文化がないのは知っていたけど、あまりにも異性への耐性がないのもどうかと思うわよ」

「失礼な発言だな。そもそも他の民族やつらが揃いも揃って軽いとは思わないのか」

「全然。じゃあ私は他の人とも踊ってくるわ、また後でね」


 そう言って真紅のドレスを翻しながら舞うようにアデルから離れる。そのまま流れるようにひらひらと踊っていると、前方から腕が差し伸べられた。

 ろくに顔も見ずに伸びてきた手を取ると、ぐっと掴まれて引き寄せられる。顔をあげると、仮面の奥から見える燃えるような赤い瞳と視線が合った。

 相手はヴァルド人の貴族だった。背が高く、赤色の髪を丁寧に撫でつけて首元で一つに結んでいる。リディアがにこりと笑いかけると、仮面の男も薄く口角をあげた。


(この人、やけにエスコートが上手いわね)


 リディアがそう感じてしまうくらいに男のエスコートは見事だった。舞踊や歌よりも剣技の技術を磨いてきたヴァルド人はアデルのように芸事は苦手な者が多い。だが目の前の赤髪の男はリディアを完璧に誘導していた。

 こうなると俄然彼の素性が気になってくるものだ。こういう時は何気ない会話から情報を拾ってくるのが早い。リディアがにこやかに微笑んで口を開こうとした瞬間、腰を力強く抱き寄せられてリディアは小さく声をあげた。

 突然密着する体に、ほんの僅か体温が上がる。驚いて男と顔を合わせると、彼が腰を屈めて耳元に口を寄せた。


「貴様らエリストリアの犬が宮廷を嗅ぎ回っているのは知っているぞ。だがあまり派手に動き回らない方がいい。命が惜しければな」


 囁かれた言葉にリディアは息を飲んだ。これは忠告などではない、警告だ。慌てて顔をあげて男の顔を見ようとするも、彼はあっさりと手を離し、颯爽と人混みの中に消えていってしまった。

 マントを翻しながら大股で去っていく大きな背中を呆然と見送る。リディアの頭の中で、一つの記憶が繋がった。


 ――もしかして先程私にぶつかってきたのは、貴方?


 心の中で問いかけるも、答えが返ってくることはなかった。

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