幕間 忌まわしき少女
カリカリとどこかでネズミが齧る音が聞こえた。カビ臭い室内は薄暗く、そこかしこからくぐもった声が唸り声のように室内に響いている。だが、機械的に並ぶ無機質な檻に繋がれているのは、獣ではなく人間の奴隷達だった。
ガチャガチャと音がして部屋の扉が開き、男達の話し声がこちらに向かってやってくる。リディアは牢の中で顔を上げ、声のする方に視線を向けた。
エリストリア人の奴隷商に連れられてやってきたのは身なりの良いサマール人の男だった。彼らは真っ直ぐにリディアが入っている牢の前までやってくると、屈んで青い瞳と視線を合わせる。
「ほう。聞いていたよりも美しい子じゃないか。この青い瞳も珍しくて希少価値がある。これはぜひとも私のコレクションに入れたいものだ」
「はい、あと数年もすればより愛らしく美しく成長するでしょう。買うなら今が最適かと」
「どれ、もう少しよく見せてもらおうか」
でっぷり太ったサマール人の褐色の腕が牢の隙間から伸びてくる。その指が小さな顎を捉える寸前、リディアは静かに口を開いた。
「マジャルの神が怒っているみたい。あなたが他宗教の神を信仰しているから」
リディアの言葉に、サマール人の腕がピタリと止まる。リディアを見つめる小さな黒い瞳にさっと恐怖の色が宿った。
「ど、どういう意味だ。私が信仰するのは唯一神であるマジャルだけだ。この小娘め、勝手なことを言うな」
「あなたにはトロイアの女神の裁きがくだるわ。どっちつかずの信仰をしているのが神々に知られれば、裏切り者には天罰がくだるかもしれない」
「な、なぜ私が女神を信仰していることがわかった!? この娘は悪魔なのか!?」
サマール人が悲鳴を上げて手を引っ込める。そして隣でソワソワと成り行きを見守っていた奴隷商に憤怒の形相で向き直った。
「貴様は私に忌み子を押し付けようとしていたのか! 勝手なことを言いやがって、とんだ恥をかかされたぞ!」
「も、申し訳ありません! ですがこの子は希少価値のある子供です。上手く使えば逸材に化けるかと」
「ええいうるさい! 取引は中止だ。この子供は悪魔の化身かもしれん。すべてを見透かしているかのようなこの青い目は神の呪いを受けているに違いない!」
周囲に唾を吐き散らかしながら去っていく肥えた背中をリディアはじっと見つめていた。バタンと扉がしまる音と共に安堵して肩の力を抜く。今宵も買われなかったことに安堵しつつも、毎日繰り返されるこの駆け引きに心も体もすり減っていた。
客を逃した奴隷商が汚いものを見るような目でリディアを睨みつけてくるが、そんな眼差しさえ気にならないほどにリディアの心は真っ暗だった。
――お父さん、お母さん、会いたいよ。
気ままに旅をしながら各地で歌や踊りを踊る日々が懐かしい。あの穏やかで平和な暮らしに戻れるなら、悪魔に魂を売ったって構わなかった。
虚ろな目でぼんやりと虚空を眺めていると、またもや微かに扉が開く音がして、誰かが部屋に入ってくる気配がした。重たい頭を上げると、視界の端に輝くような金色が映る。
「この子が噂の忌み子かな。本当だ、随分と美しい瞳の色だ」
穏やかな声だった。顔をあげると、エリストリア人の男が優しい瞳でこちらを見つめている。若い盛りは過ぎていたが、それでも十分に魅力に溢れた紳士だった。
「こいつが売れ残りのガキですよ。見目は良いんだが、客の隠していることをなんでもかんでも当てちまう。お客は皆気味悪がって引き取ってくれねぇんです。お客さんも、召使いを探しているなら他の子にしておいた方がいいですぜ」
「ほう、隠していることを何でもあててしまうとは興味深いな。どれ、私を見て何かわかることがあるか教えてご覧」
エリストリア人の男が興味深そうに顎を撫でる。リディアはその金色の瞳を見ながら口を開いた。
「おじさんは偉い人なのにこんな所で奴隷を買っていてもいいの? 他の人にバレたら恥ずかしいんじゃない?」
「ほう、なぜ私が偉い人だと思ったのかな?」
「飾りはついていないけど、着ている服が上等だから。前に私の歌を聞いてくれた貴族のお客さんもベルベット地の上着を着ていたわ。この辺りで見かける人は、皆手がコブだらけでごつごつしているけど、おじさんの手はツルッとしててすごく綺麗」
「そうだね。でもそれだけでは納得できないな。私はもしかしたらどこかの金持ち商人の道楽息子かもしれないよ」
目元を和らげながら男が言うと、少女が小さな手で男の袖元を指差す。
「袖についている
スラスラと答えると、男の金色の瞳が僅かに見開いた。驚きの表情でリディアを見た後、声を出して笑う。
「これはやられた。お前はよく物を知っているな。ちなみに先程のサマール男が異宗教を同時に信仰していることを言い当てていたけれど、それはどうしてわかったのかな?」
「あの人が手を伸ばした時に、微かに乳香の匂いがしたから。乳香はトロイア人が礼拝で使うものでしょう? サマールのジャマル神への礼拝で使うお香はウードが基本だもの」
「驚いた。君は知識量もさることながら、観察力と洞察力に優れている。目の付け所が良い」
そう言って男が牢の前でしゃがみ込む。
「リディア、君をここから出してあげよう。私と一緒に来るんだ。君のその明晰な頭脳は、きっと育てれば花開く」
「でも私、買われたくないの。ここにいればもしかしたらいつかお父さんとお母さんが私を探しに来てくれるかもしれないでしょう? だから私、ここにいなくちゃ」
「君の両親も奴隷なのかい? そうだね、では私が二人を探し出して買い取ってあげよう」
「本当に?」
「ああ本当だとも。その代わり、君は私の元でたくさん勉強をするんだ。いつの日かその頭脳で多くの人を救うために」
「お勉強? 何をすればいいの?」
「各国の言葉や文化を知るんだ。そしてすべてのことを注意深く観察して自分の血肉にする。必要なことは私が全部教えてあげよう」
牢の隙間から腕が伸びてくる。リディアがゆっくりと手を伸ばして男の手を握ると、彼は優しく握り返してくれた。
「君の名前は今日からリディア・フレデリク・ノ・アントルシアだ。その叡智の花を存分に咲かせ、そして敵を散らす剣となれ、リディア」
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