赤き薔薇は宮廷に花咲く

結月 花

第1話 酒場の歌姫

「へい、お待ちどうさん」


 ドンッと音がして酒の入ったジョッキがアデルバートの目の前に置かれる。夜通し絶えることのない喧騒を背にしながら、アデルはおもむろに顔をあげた。目の前にいる青年が、長めの黒い髪の隙間から呆れた目でアデルを見ている。


「人違いだ。私は何も頼んでいない」

「サービスだよ。俺の店でそんな辛気臭い顔されちゃ酒が不味くなるからな」


 黒髪黒瞳に褐色の肌。典型的なサマール人の容貌をした男が大きなため息をつく。 

 同時に背後でガシャンとガラスが割れる音がして、どっと笑い声が湧き上がった。黒髪のサマール人の若者が陽気に飲み比べをしながらジョッキを床に叩きつけ、金髪金瞳のエリストリア人の男女がひと目もはばからずに濃厚なキスを交わしている。騒がしい酒場の店内で、陰気な顔をしているのはアデルだけだ。

 だが、彼とて理由なく鬱屈した気持ちでいるわけがない。元王族の近衛騎士だったアデルバートからしてみればこのような低俗な溜まり場は、自分の生涯において全く縁のない場所のはずだった。 


(近衛騎士だった私がこのような場所に来るなんて、数日前までは考えられなかったことだな)


 心の中でため息をつく。むしろこのやるせない気持ちを酒で一息に流し込んでしまいたかった。だが幼い頃から徹底的に叩き込まれた騎士道精神と、体に流れるヴァルド人の血がそれを許してくれない。

 ガタッと木製の椅子を引いて黒髪の青年がアデルの目の前に腰掛ける。すっと通った切れ長の黒い目には好奇の色が宿っていた。


「何があったか知らねぇけど、そんな顔をしていると折角の色男が台無しだぜ? 女漁りをしに来たなら尚更だ」

「くだらない邪推をするな。私はそのような理由でこんな所に来たりはしない」

「その赤い髪から察するに、お前ヴァルド人だろ? ははーん、そのツラは十中八九女に捨てられたと見た。まぁ元気だせよ。ヴァルドの男はクソ真面目でつまんねぇなんて言う女もいるが、お前は顔立ちも整っていて体つきも良い。俺からしたら刈り上げた短髪はちっと色気がなさすぎる気もするが、素朴で逞しい男が好きって女はごまんといるぜ」


 そう言って黒髪の青年が陽気にアデルの肩を叩く。あまりにも的はずれな物言いに違うと反論しかけた所でアデルは口をつぐんだ。彼の置かれた状況を考えると、青年の言うこともあながち間違いではないかもしれなかったからだ。


 アデルバートは元々はエリストリアの第一王子に仕える近衛騎士だった。それが数日前に突然近衛騎士の任を解かれ、とある有力貴族の家臣として仕えることが決まったのだ。

 誓って言うが、これはアデルバートの勤務態度に難があったわけではない。むしろ彼は生真面目なヴァルド人らしく人一倍に職務に忠実で、誠実な男だ。王子が信頼するかの貴族が近衛騎士から家臣を一人欲しいと王子に進言し、たまたま白羽の矢が立ったのが自分だったというだけのことだ。

 いくら力のある人物とはいえ、王族に仕えていた自分が一貴族の家臣になるなど考えただけでも不名誉なことだが、これも勅命であるならば仕方がない。

 内心では煮えきらない気持ちを押し殺しながら、アデルは静かに首を振った。


「まぁ似たようなものだな。申し訳ないが今は人と話す気持ちになれない。一人にしてくれないか」

「まったく、お前らは本当に石頭ばっかりなんだな。その赤い髪がヴァルド人の誇りなんだろ。お前も男なら一度くらい燃え盛る炎のように情熱的になってみろよ。たおやかで美しい金髪のエリストリア人に陽気で情熱的な黒髪のサマール人。俺は北のトロイアの女とも寝たことがあるが、月の光を閉じ込めたような銀髪はなかなかに見応えがあったぞ」

「人を待っている。女を買うつもりはない」


 きっぱりと言い放ってアデルは会話を切った。そう、彼は今人を待っていた。今日から自分の主人になる貴族がこの酒場に迎えを寄越すらしい。王子から有力貴族に近衛騎士を下賜されるには全く不釣り合いな場所であることもアデルの不安を掻き立てる。

 もしかすると自分は体よく宮廷から追いやられただけなのではないかと内心で項垂れていると、カランカランと陽気なベルの音が聞こえた。同時に酒場の扉が開き、エリストリア人らしい金髪の女性が店に飛び込んできた。


「サフィール、いる?」

「こっちだリディア」


 アデルの前に座る黒髪の青年が片手をあげて椅子から立ち上がる。そこでアデルは今更ながらに店主の名前を知った。

 店主、もといサフィールが金髪の女性に歩み寄ると、リディアと呼ばれた女がパッと目を輝かせた。白磁の肌に赤いドレスが映える艶やかな美女だ。背中に伸びる結った金糸の髪に、赤い薔薇の髪飾りが咲いている。


「珍しいな、お前が顔を見せるなんて。また何か聞きてぇことでもできたのか?」

「いいえ、今日は別の用があるの。でもその前にちょっと歌いたい気分だわ。舞台、貸してくれる?」

「ああ、ちっと待ってろ。今開けてやる」


 そう言ってサフィールが「どいたどいた」と言いながら人混みを掻き分けて店の奥へと戻っていく。よく見ると店の隅の床が少し高くなっていて、小さな舞台のような造りになっていた。

 赤いドレスの裾をひらりとなびかせてリディアが舞台に飛び乗る。パチパチとまばらな拍手と共に大きく息を吸ったリディアは、胸に手をあてて高らかに歌い始めた。

 透き通った、そして芯のある澄んだ歌声が薄暗い酒場に響き渡る。その張りのある艷やかな声は、芸術には疎いアデルの胸にも微かな昂揚感を呼び覚ました。

 

 ――エリストリアにまつわる古典の詩か。


 澄んだ歌声を聞きながらアデルは記憶の海から歌の題名を引っ張り出す。もちろん、アデルは芸術にはとんと興味がない。遥か昔に家庭教師から教養として教わったことがあるという程度の知識だ。

 だが、ふと歌の響きに違和感を覚えてアデルは顔を上げた。彼女が歌っている詩は聞き覚えのある文言だが、歌の響きが自分が知っているものと違うのだ。それに、なぜだか知らないが聞いているうちに妙に懐かしい気持ちになる。

 果たしてこのような調べだったかと内心で首を傾げていると、リディアが歌い終えて優雅な仕草で一礼した。


「いいぞー! 最高の美声じゃないか」

「嬢ちゃんどうだ? 今晩俺と一晩過ごそうぜ!」

「おいサフィール、リディア嬢に酒をやれ! 俺の奢りだ」


 酒場にいる観客たちがやんややんやと囃し立てる。金髪のエリストリア人の男が口笛を吹いて舞台に向かって花を投げ、褐色の艷やかな肌をしたサマール人の男が舞台に上がりリディアの手を取って甲に唇を落とした。 

 リディアは愛らしい笑顔で彼らの称賛を受け止めている。硬派で頑固、芸術より剣技を好むと他民族から揶揄されるヴァルド人のアデルですら彼女の歌には人を惹きつける何かがあった。いや、惹きつけられたのは歌ではなくだ。騎士たるもの女にうつつを抜かすわけにはいかないが、澄んだ声で歌うこの美しい歌い手に束の間魅入ってしまったのは嘘ではない。

 すっかり泡の消えたエールに口もつけずにぼんやりと舞台を眺めていると、赤いドレスをなびかせてリディアがふわりと舞台から降りる。そしてそのままカツカツと歩いていき、アデルの座るテーブルの前でピタリと立ち止まった。


「貴方が今日から私の元につく騎士様ね。アデルバート・ロイス。さぁ、私達の御主人様の元へ行きましょう」

「は……?」


 突然わけのわからないことを言われてアデルは困惑した。なぜこの見知らぬ女が自分の名前を知っているのか見当もつかない。

 訝しげに顔をあげて彼女と視線を合わせた途端、おや、とアデルは内心で驚きの声をあげた。エリストリア人の瞳は金色なのだが、彼女の瞳は昼間の空のように明るい青色なのだ。だがこんなに目立つ容姿であっても、アデルには彼女の心当たりがなかった。


「人違いではないのか。私は君のような女性に会ったことがない」

「いいえ、第一王子から賜った騎士というのは貴方でしょう、アデル。いいから私についてきて。時間がないの」


 騎士服に身を包んだアデルの腕を、ほっそりしたリディアの白い両手がグイグイと引っ張る。だが小柄な女性がヴァルド人騎士の大きな体を動かすことなど無理な話だ。

 狭い酒場のテーブルで押し問答をしていると、不思議そうな顔をしてサフィールがこちらにやってくる。


「リディア、新手のナンパか? そうじゃないならなぜそいつがお探しの騎士だってわかったんだ。お前はただここで歌っただけだろ」

「歌ったからわかったのよ、サフィール。御主人様との勝負は私の勝ちだわ」

「へぇ、歌っただけでわかるとはねぇ。差し支えなれけばその理由を我々にもお聞かせ願えますかね、我らが歌姫」


 サフィールがテーブルに手をつきながら興味深そうにヒョウと口笛を吹くと、リディアがなんでもないように肩にかかったおくれ毛を手で払う。


「あら、別に特別なことなんかしていないわ。先程歌ったのはエリストリアの古典の詩なの。そこにちょっとアレンジをして他の地方の伝承を織り交ぜてみたのよ。そうしたら、そこの騎士様が見るからに変な顔をしたから。近衛騎士様くらいの身分の方なら、私の歌が古典と違うことに気づくくらいの教養は持っていて当然でしょう?」

「ははぁ、なるほどなぁ。確かにそこいらの農民じゃ古典の知識を持っているやつは少ねぇかもな。でもなリディア、俺の酒場は貴族たちからもそこそこ覚えが良いんだぜ? 古典を学んでいる下級貴族ならこの酒場でもそんなに珍しくない。さてはお前、容姿のヒントをいくつかもらったな」

「いいえ、私も御主人様も王子から彼の名前しか聞いていないわ。でもロイス家と言ったら、ヴァルド地方のリュゼルハイムを治める貴族の名前だもの。だからその地に縁のある人ならわかるように歌にリュゼルハイムの伝承を織り交ぜてみたの。そうしたら彼の表情がまた変わったからそこで確信したわ。彼、ヴァルド人だけど意外と表情に出やすいのね」

「なるほどな。あの歌には二段構えの仕掛けがあったわけか」


 そう言ってサフィールが降参したというように浅黒い両腕をあげる。一方で、二人のやり取りを端で聞いていたアデルは驚きの眼差しを彼女に向けていた。


(この女、何者だ?)


 確かに思い返せば、先程懐かしく思ったのは亡き母がよく口にしていた子守唄に似ていたからだ。だが、容姿も民族もわからぬ人物を歌を一つだけであぶり出すその手腕はただの町娘ではなさそうだ。

 訝しむアデルをよそに、しびれを切らしたリディアが口を尖らせてアデルの両腕に自身の手を絡ませてグイグイと引っ張る。


「アデル、早く来て頂戴。この後行く所があるんだから時間がないの。一度屋敷に戻って仕度をしないといけないんだから」

「待て。行く所? 時間がない? そもそも一体君は誰なんだ。出会っていきなりついて来いと言われても理解できるわけがないだろう」

「全くもう、ヴァルド人の頭が硬いのは本当なのね。わかったわ、じゃあこれで信じてもらえるかしら」


 言いながらリディアがドレスの胸元に手を入れる。引っ張り出してきたのは、金の鎖に通された指輪だ。上部には薔薇と剣の紋章が刻印されている。

 貴族だけが持つことを許されているその指輪を見て、アデルは現実を受け入れざるを得なかった。少なくとも、彼女が貴族の身分であることは本当らしい。


(全く持ってわけのわからないことばかりだ。だがこれも私に課された命運か……)


 アデルは観念したように大きくため息をつくと、その重い腰をあげた。

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