第2話 奴隷の女
酒場を出ると、いつの間に来ていたのか薔薇と剣の紋章がついた馬車が店の前に停まっていた。リディアがするりと乗り込み、アデルも後に続く。
馬車の中には読みかけの本が置いてあった。先程リディアが酒場に来る前に読んでいた本だ。表紙にはミミズのような横文字――サマール語で題名が書いてある。本を手にとって続きを読もうとすると、真向かいに座るアデルが不思議そうな顔をした。
「サマール語が読めるのか?」
「ええ、多少はね。貴方も読めるの?」
「異民族の言語なんて読めるわけがないだろう。私はヴァルドの者だぞ」
「あら、でもサマール語が読めるヴァルド人だっていても良いんじゃない? ヴァルドとサマールは昔から仲が悪いと聞くけれど、覚えておいて損はないわ。良かったら私が教えてあげましょうか」
「結構だ。毎晩酒に明け暮れて金勘定ばかりしているやつらの言葉を覚えたって意味がない」
「そんなに嫌わなくたって良いじゃないの。東のヴァルドも南のサマールも、北のトロイアだって今はもう一つの国だもの」
諭すように言うと、仏頂面をしたアデルの眉がピクリと動いた。空気が変わったことに気づいたのか、リディアが肩をすくめる。
「ごめんなさい、あなた方にとっては気持ちの良い話ではないわね。エリストリア人は嫌い?」
「突然異民族を王に掲げろと言われて喜ぶ民は多くはないと思うが」
「そうね。でももうあなた達もエリストリアの国民だわ。二百年前に当代の王のお祖父様が東西南北の国を一つにまとめた時から、私達は一心同体ですもの。仲良くやりましょう」
そう言ってリディアが艶やかに微笑む。故郷では見ることのない見事な金糸の髪を眺めながら、アデルは観念したように大きなため息をついた。
エリストリア連合国は二百年前までは大陸の西側に位置する小国だった。だが、当代のエリストリア王が長い間小競り合っていた東と南北の民族を一つに束ね大きな連合国となったのが今の姿だ。
何よりも力が物を言い、戦いで全てを決めると言われる赤髪赤瞳の民族、東都ヴァルド。
商業が盛んであり、陽気で明るい黒髪褐色肌の民族、南都サマール。
何よりも宗教を重んじ、排他的で謎めいた銀髪銀瞳の民族、北都トロイア。
そして最も文化的で優美を愛する金髪金瞳の民族エリストリア。
容姿も文化も全く違う四つの民族が一つの国になって早二百年の時が経つが、異民族同士が結託する兆しはない。むしろ、王都を中心にして未だに東西南北に民族が別れて暮らしている状態だ。物理的な隔たりもあり、異民族同士はお世辞にも決して仲が良い状態とは言えない。
アデルバートとてそれは同じだった。質実剛健を好み、暇さえあれば体を動かしているヴァルド人からしてみると、いつも詩や歌を考えているエリストリア人は優雅な暇人と同じだった。南のサマール人はいつもどんちゃん騒ぎでうるさい守銭奴にしか見えないし、北のトロイア人は陰鬱で何を考えているかわからない。
そんなわけだから、リディアが真剣に異民族の本を読んでいる理由にアデルは見当もつかなかい。
「それで君は先程から何をそんなに真剣に読んでいるんだ。まさかエリストリアではサマールの詩を読むのが流行っているんじゃないだろうな」
「これはサマールの
「文化や歴史を学ぶだと? 異民族を蹂躙して無理やり配下に置いたエリストリア人とは思えない発言だな。そんな物を学んでも、もはやなんの意味などないだろうに」
今度はリディアが眉をひそめる番だった。形の良い眉をつりあげて、青色の瞳を真っ直ぐアデルに向ける。
「知識は最大の武器だわ、アデル。知識を持っているのといないのとでは見えてくるものが全く違ってくるもの」
「果実がたわわに実っている様子を、エリストリアの詩人は神々の悦びと表現するらしいな。そんな知識を持っていた所で、何の役に立つと言うんだ」
「それは貴方が使い方を知らないだけ。今は誰も口にする者がいなくなってしまった歌や詩だって、その時がくれば重要な情報源になるの。貴方は近衛騎士だったんでしょう? 視野が狭くては、宮廷で渡り合っていくことは難しいわよ」
リディアの言葉に、今度こそアデルの眉間のシワが深くなった。赤髪で体格の良いヴァルド人が凄むとなかなかの迫力がある。言葉にはしないが、王宮勤めなどしたことがない女が宮廷の何を知っているというのだろうかと言いたげな表情だ。
だが反論しようとアデルが口を開いた所で馬車がガタンと大きく跳ねて歩みを止めた。剣呑になりかけた車内の空気を一層するかのようにドアが勢いよく開き、御者が恭しく一礼する。
そこにあったのは、宮廷とさして変わらぬほどに立派な屋敷だった。来る者を出迎える巨大な門扉に色とりどりの薔薇で縁取られたアーチ。門から屋敷までの道には噴水が置かれており、水滴に日の光が反射して煌めいている。道の向こうには白磁の屋敷が建っており、一目見ただけで有力な貴族が住んでいるとわかる。
「相変わらずエリストリアの文化は無駄に贅沢だな。質素を好むヴァルドにはない価値観だ」
「あら残念。エリストリア人なら息を飲むほどに美しい屋敷だとわかるのに」
「私達から見れば、ゴテゴテしていて派手なだけだ」
アデルがきっぱりと言い切る。祖国をいきなり異民族に征服され、赤髪の民族は金髪の王を未だに受け入れられないのだろう。彼の鋭い瞳には、エリストリア文化への拒絶がありありと出ていた。
(まったく先が思いやられるわね……)
どうしたものかと内心で辟易していると、馬車の音を聞きつけたのか屋敷から一人の男が現れた。金糸で縁取られた上等なベルベット地の上着を着ている身なりの良い男性だ。歳は四十半ばだろうか。年相応の年齢を重ねてはいるが、かつては数多の女性を虜にしてきたであろう美貌が面影として残っていた。
エリストリア人らしい金髪を項で束ね、髪と同じ金の瞳がリディアを見て柔らかく孤を描く。四つの民族の中でも、エリストリア人は容姿に優れていると言われているが、その通説もあながち間違いではないらしい。
「やぁリディア、おかえり。この方が件の騎士殿かな?」
「はい、ローレンス様。彼で間違いないと思います」
「へぇ、ヴァルドの騎士か。確かに国の軍事は赤髪の戦士達に任せろと言われているからね。これは頼もしい、ははは」
そう言ってローレンスと呼ばれた男が快活に笑う。この屋敷の主人だと悟ったのか、アデルがローレンスの前に進み出て足元にひざまずいた。
「アデルバート・ロイスと申します。本日より貴方と剣となり尽くします。私の剣は貴方の為にあります、閣下」
「確かに王子から聞いている名前の通りだ。よろしく、アデル。私はローレンス・フレデリク・ノ・アントルシア。まぁ王宮に伝手がある貴族と思ってもらえばいい。まさか殿下がヴァルド人の騎士を寄越してくるとは思わなかったが、民族の違いを気にしない王子らしい判断だ。大正解だよ、リディア」
ローレンスの手放しの賛辞にリディアの胸が誇らしさで満たされる。知識の使い方を仕込んでもらったのは彼だ。我ながら期待する成果を出せたと内心で喜んでいると、アデルがちらりとこちらを見た。その探るような視線は、ローレンスとリディアの仲を疑っているのだろう。
(私を彼の若妻か愛妾だと思っている顔ね)
きっと彼はありきたりな関係を邪推しているのだろう。だがさすが生真面目で硬派と言われているヴァルド人だ。内心では何を思っているのか知らないが、本心を顔に出すことはしない。
(そんな顔をしていられるのも今のうちよ。私の正体を知れば、さすがの貴方もびっくりするでしょうね)
そう内心でほくそ笑むと、リディアは肩にかけていたショールをハラリと脱いだ。
布が肩から滑り降りる感覚と同時に白磁の肌が晒される。リディアの左肩に刻まれた薔薇と剣の紋章を見て、隣にいるアデルが息を飲んだのがわかった。
「君は――まさか、奴隷だったのか!?」
予想通り、アデルが驚嘆の声をあげた。肩に紋章を刻むのは、その者が奴隷の身分である証だ。肩に刻まれた薔薇と剣の紋章――すなわち、それはリディアの身がローレンスの物であることを示している。
「おやリディア。まだそれを見せていなかったのかい。可哀想に、さすがのヴァルド人でさえ驚いているじゃないか」
「だって時間が無かったんですもの。御主人様、約束の時間まであと少ししかありませんよ。早く仕度をしないと」
「ああ、そうだったね。ではアデル、詳しいことは後程説明するから、一先ずは騎士の誓願を行おう。君が我々の家臣になったと宣言するんだ。やり方はわかるね?」
一瞬驚愕の表情を見せたが、ローレンスの問いにアデルが姿勢を正す。すぐに切り替えて主人の命に頭を垂れる姿はさすがは元近衛騎士だ。
「仰せのままに。私の剣にかけて貴方をお守りすることを誓います、閣下。御手をお出しください」
「ああ、すまないね、アデル。誓うのは私ではないのだよ。君が誓うのはこのリディアだ」
「はっ…………今なんと?」
やんわりと告げる主人の言葉に今度こそアデルは動揺を隠せなかった。唇がふるっと震え、大きく見開いた目には聞き間違いであってほしいと書いてある。
「私の剣を。この奴隷の女に捧げろと仰るのですか」
「アデル、そういう言い方は良くない。リディアは確かに奴隷として人身売買の対象だったこともある。だけど彼女は今や立派なうちの臣下だ。リディアは私の娘だと思っている」
「お言葉を返すようですが、閣下。私は第一王子に使える近衛騎士でした。その任を解かれてまで仕えなければならないのが貴族の愛妾というのはあんまりな話ではありませんか」
「確かにヴァルド人からしたら一見不名誉なことかもしれない。だけどねアデル、君とリディアの頑張りによっては、君はこの国で誰よりも誇り高い騎士になれるかもしれない。だからこの立場を受け入れてくれるね?」
やんわりと、だが芯のある声だった。アデルは束の間逡巡する素振りを見せたが、やがて覚悟を決めたのかぐっと拳を握った。
「……それがご命令であれば従うのみです、閣下」
胸に手を当てて一礼すると、アデルがリディアの方に向き直る。向かい合わせで立つと彼はリディアより頭一つ分は大きかった。
短く切った赤い髪とヴァルドの戦神を思わせる精悍な顔立ち。ヴァルド人らしく頑固で融通の効かない所はありそうだが、職務に忠実な所は素直に好ましいと思う。エリストリアの文化の美しさはわからないと言うが、先程リディアが歌った時に彼が向けてくれた眼差しには混じり気のない称賛と憧憬の色があった。
アデルが跪き、地面に片膝を立てる。そのままリディアの手を取って手に口づけをしようとした所でリディアはその手をゆっくりと引っ込めた。
「アデル。エリストリア流ではなくヴァルド流に誓ってちょうだい。」
「ヴァルド流だと? ここはエリストリアだが」
「良いから言う通りにして。エリストリアは人に誓うけど、ヴァルドは剣に誓うんでしょう? この違いがきっと貴方を助けるはずよ」
「よくわからないが……お望みとあらばそうしよう」
腑に落ちないながらも、リディアの言う通りにアデルは腰に佩いた剣を鞘ごと抜いた。片膝をついたまま柄に手を起き、一息に引き抜いて刀芯を顕にさせる。
「ヴァルドの戦神に誓願する。私、アデルバート・ロイスはリディア・フレデリク・ノ・アントルシアの剣となりこの身を捧げます」
「ありがとう、アデル。私の命、貴方に預けるわ」
にこりと微笑むと、アデルが少しだけ表情を和らげた。思った通り、彼は自身の処遇に落胆はしているものの、リディア個人に対しては悪い感情を持っていないようだ。異民族という隔たりはあるものの、根は素直なアデルとはきっと上手くやれそうな気がする。
(私も命を預けるなら貴方がいいわ、アデル)
アデルの赤い髪を見ながら、リディアは心の中でそっと呟いた。
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