第九話 謝霊と張慧明、最後の手がかりを見つけること
翌朝、私が店の前を掃除していると路地裏から
「今日はどこに行くんです、
大通りに面した歩道で仕事中に猫に話しかけているところなど、怠惰だとか勤勉だとかを抜きにしても見られたくはない。だから低い声でささやくように話しかけたというのに、なんと愉しげな笑い声が路地裏から聞こえてきた。
「今日は事件の昼間にフォスター嬢、モリソン氏、それからパドストン氏がどこで何をしていたかを調べようかと思っていますよ。
私は憤慨とともに顔を上げた——私の頬を七白がべろんと舐める。そんな私の目の前に立つ謝霊は、笑いをこらえもせずに丸眼鏡の奥の両目を細めていた。
「……どうも、謝霊兄」
「おはようございます、慧明兄」
私たちが挨拶を交わす間に七白はひょいと私の手から抜け出して謝霊の足にまとわりつく。
「また七白に憑りついて私を見張っていたのですか?」
私がじとりと謝霊を睨むと、謝霊はついにぷっと吹き出した。
「まさか! 今のはこいつが勝手にやっただけですよ。
あんぐり口を開ける私に、謝霊はなおも笑い続ける。私はため息とともに店の中に入り、サー・モリソンに言って再び一日留守にする旨を取り付けた。
***
私たちが向かったのは大通りから少し入ったところにある静かな茶楼だった——彼ら西洋人に言わせれば「カフェ」というらしいその店は、上海の多くの飲食店と同じく西洋人のために設えられたものだ。事件の昼間、サー・モリソンはマダム・フォスターとパドストンと三人でここで昼食を食べていた。
私たちは正面の入り口を無視して裏口に回り、勝手口の戸を叩いた。顔を出したのは壮年の西洋人だった――私たちが挨拶すると、彼は怪訝そうに私たちを見比べた。
「何の御用でしょう」
男は白いシャツに黒いズボン、黒い前掛けという落ち着いた制服に身を包んでいる。謝霊はいつもの人の良い笑みを作り、レイフ・モリソンの使いで調べ物をしていると答えた。
「ほう、モリソン様が」
男が驚いたように呟く。そこに謝霊がすかさず入り込み、
「実は、歌姫のミス・クリスティン・フォスターが亡くなられた件でモリソン氏より調査を依頼されていまして。ご協力をお願いできますかな? ええと……」
「トマス・エバンズ。給仕頭と副支配人を兼任しております」
ミスター・エバンズの答えに、謝霊は丸眼鏡の奥の目をにっこり細めた。
「どうも。ご協力願えますか、ミスター・エバンズ?」
ミスター・エバンズはふむと呟き、「何をお知りになりたいかによりますな」と言って短く刈り込まれた灰色の口ひげを撫でつけた。
「たとえば、もしうちの帳簿を見たいと言われるのであれば対応はいたしかねますが」
「そんな大層なものではありませんよ。我々は、事件のあった昼にミスター・モリソンたちが此方で何を召し上がったのか知りたいのです」
謝霊が答えると、ミスター・エバンズはまた口ひげを撫でつけたのち「良いでしょう」と頷いた。
こうして私たちは彼に連れられて上階の事務所に入ることになった。ミスター・エバンズは小奇麗な文机に一抱えはある巨大な本をどんと置くと、大量に紙の貼りつけられたそれを手際よくめくり始めた。
貼られているのはどれも客の注文を書きつけた紙だった。日付ごと、食卓と客の名前ごとに分けられたそれは膨大な量で、それだけでこの店が繁盛していることが見て取れる。二か月前の日付の伝票が出てきたのは半分以上頁をめくったあとだった。
「……ああ。ありましたぞ。この、エリック・パドストン様が会計された分でしょう」
ミスター・エバンズがそう言って手を止める。私たちは一歩退いた彼に変わって本に飛びつき、額を寄せ合うように伝票を覗き込んだ。
「ハムとレタスのサンドウィッチ、フィッシュアンドチップス、それから紅茶ですか」
謝霊が声に出して伝票を読み上げる。
「この三名というのが、エリック・パドストン氏とレイフ・モリソン氏、クリスティン・フォスター嬢なのですね?」
「ええ。この伝票は間違いなく、ミスター・モリソンがフィアンセをお連れになった最初で最後のお食事のものです。私がウェイターを務めたのでよく覚えています」
ミスター・エバンズが静かに答える。
私は伝票を睨んだまま独り言ちた。
「この中で食あたりを起こしそうなものといえば、やはり白身魚か」
「それはないでしょう。同じものを食べているのだから、魚が原因ならパドストン氏とマダム・フォスターも食あたりになっているはずですからね。しかしモリソン氏だけが体調を崩したということは、ここには書かれていないが彼しか食べていないものが何かあると見た方がいい」
謝霊がそう言ったとき、私の頭の中にあることが閃いた。
「サー・モリソンがマスタードソースを一人分、別添えで注文されていませんでしたか? 白身魚のフライには必ずマスタードソースをつけるのがあの方の習慣なのですが」
私はミスター・エバンズに向き直って言った。果たして彼は、なぜ分かったのかと言わんばかりに大きく頷いた。
「ええ。たしかにお持ちしました。ですがそのとき、モリソン様はフォスター様と一緒に席を外しておられて、お料理だけ置いていくようパドストン様に言われたと記憶しております」
それを聞いた途端、謝霊の目がはっと見開かれた。彼はそうかと呟くと、おもむろに私の腕を掴んでミスター・エバンズにいとまを告げた。
「ちょっと! どうしたんですか、謝霊兄!」
私の腕を掴んだまま裏口を飛び出した謝霊に私は大声で呼びかけた。振り払おうとしても彼の手はびくともせず、おかげで私たちはおかしな注目を集めている。謝霊は探偵事務所まで一直線に帰ると、唐突に私を解放して一声叫んだ。
「お手柄です、慧明兄! パドストンはきっとマスタードソースに微弱な毒でも仕込んだのでしょう。モリソン氏以外は誰も白身魚のフライにマスタードソースをつけないのを知っていれば尚更だ。こうしてモリソン氏だけが寝込むように仕向ければ、クリスティン・フォスター嬢を簡単に一人にすることができるでしょう? それにパーティーの客としてのみ出入りすれば裏口の
「つまり人混みに紛れてマダム・フォスターの指輪を抜き取り、楽屋に忘れたかと思わせてパーティーを抜けさせたということか? そのうえで他人の目をごまかすために漢人の格好をして楽屋に行き、マダム・フォスターを手にかけたと。ですが、事件の夜に盗まれたという衣装は? あれはどうなんですか」
私が聞くと、謝霊はためらうことなく答えた。
「クリスティン・フォスター嬢は首を絞められた際に失禁していましたよね。それに染みの形から察するに、パドストンは彼女の脚の間に自分の脚を突っ込んでいた。あの体勢ではズボンや靴が汚れないはずがありませんから、それをごまかすために拝借したのでしょう。なにしろ彼女を殺した後パーティーに戻らねばならなかったのですから」
「ではそのズボンと靴が見つかればパドストンを突き出せますね」
私はそう言ってから、ある可能性に気がついた——もしも事件の後でパドストンが盗んだ衣装を捨ててしまっていたら、私たちは何も証明できないのではないか?
私がそれを聞くと謝霊はこくりと頷いた。
「そればかりは探りを入れてみるよりほかないですな。ですが仮に捨てていたとしても、そのとき着ていた上衣と対になるものを新しく仕立て直しているはずです。西洋人は上下でひと揃えになるように正装を仕立てると聞きますし、パドストンくらいの身分になると一着だけ上衣を余らせておくこともしないでしょう」
謝霊はそう言うと舌を軽く数回鳴らした。それに応えるように部屋の隅から
「分かっているね」
と言って頭を撫でた。
八黒は返事をせず、しかし俊敏な動きで窓に飛びついた。謝霊が帳を上げて窓を開けると、八黒はひらりと身を翻して外に出ていった。
謝霊は窓を開けたまま部屋の床にあぐらをかくと、何やら呟いたきり動かなくなってしまった。私は面食らった――せっかく真相に近付いたというのに、まさかこんなところで待ちぼうけを食わされるのか?
呆然と立ち尽くす私の足元では七白が伏せている。舌をちょっ、と出した七白は、まるで謝霊と八黒のしていることが分かるというように謝霊を凝視していた。私はひとまず近くの椅子に座ることにした。時計の針の音だけが妙に大きく聞こえる中、私は謝霊が身動きしないかと固唾をのんで見守った。
一時間もしないうちにそのときは来た。謝霊はぱっと目を開けると、机の上に置きっぱなしの旗袍を素早くひったくった。反対の手の指を二本立て、意識を集中させる謝霊の腕を私は慌てて掴んだ――全身の毛までもが引っ張られるような感覚がした刹那、七白が私の腕の中に飛び込んでくる。私が彼を抱き留めると同時に視界が白飛びし、次の瞬間には私たちは郊外の邸宅と思しき廊下に立っていた。
思わずふらついた私に向かって謝霊がにやりと目配せする。しかし彼はそれ以上軽口を叩くこともなく、代わりにもう一度指を二本立てて何やら呟いた。
すると、それに呼応するように男の叫び声が聞こえてきた。
「何をする、この化け猫め!」
それはパドストンの声だった。私の腕を飛び出して七白が風のように駆けていく。彼のあとを追って私たちは廊下を走り抜け、声のした部屋に飛び込んだ。
「……フェイミンか? それにお前は……」
パドストンは私たちを見て一瞬動きを止めた。
「どうも、ミスター・エリック・パドストン。私は
謝霊は涼しげな笑みを浮かべて実に静かに挨拶をした。その足元に八黒が駆け寄り、七白の前に立ってパドストンを睨みつける。それを見たパドストンは声を荒げた。
「……この異教の魔女め! くだらん妖術で私を愚弄するつもりか!」
どうやら謝霊は八黒の口を借りて彼に話しかけたらしい。しかし謝霊は涼しい顔を崩さないまま、手に持った旗袍をパドストンの前で掲げて見せた。
「野蛮かつ古臭い喧嘩はやめましょう、ミスター・パドストン。そんなことより、この旗袍を少し身につけてはもらえませんか? 実はこいつがフォスター嬢殺害事件の切り札でしてね。是非試していただきたいのです」
「なんだと? 妖術使いめ、今度は私にありもしない罪を着せる気か」
パドストンは冷ややかに答えた。彼の漢人に対する態度はいつも冷淡だが、今は怒りも相まってひどく乱暴な口調になっている。
しかし謝霊は構わずパドストンに旗袍を押し付けた。
「いいえ。私が言っているのは実際に犯された罪のことです。そしてこの旗袍はそれを証明してくれるものなのですよ」
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