第五話 謝霊、助手を引き連れて上海の街を歩くこと

 長い脚を存分に動かして通りを闊歩する謝霊の後ろを私はとぼとぼと付いていった。あわよくば店の裏で一日中隠れて休んでいようという私の目論見はまんまと外れ、それどころか主人のサー・モリソン公認で謝霊の手伝いをする羽目になっている。謝霊を見張るという意味でもこうすべきなのだろうが、それにしてもあんまりだろうと私は思わざるを得なかった。

 よく晴れた空から降り注ぐ日差しは夏らしい雰囲気を作り出しているが、かえって私をどんどん弱らせていく。他の日はともかく、少なくとも今日ぐらいは店の裏に潜ませてほしかった――胸中でそうぼやきつつ謝霊のあとについて工部警察の建物の前まで来ると、謝霊はなぜか入り口ではなく脇の路地へと私をいざなった。

「ちょっと失礼」

 謝霊はそう言うなり、ふらふらと路地に入った私をくるりと返して背中に手を押し当ててきた。私が驚いて固まっていると、謝霊の手から温かいものが流れ込んできた。

 私は何をされているのかまるで分からず、身をよじって逃げようとした。しかし謝霊は私の肩をぐっと掴み、「シーッ」と耳元にささやきかけた。

「すぐ終わります。動かないで」

 私は目を白黒させながらも動きを止めた。謝霊の手からは変わらず温かいものが伝わり続け、それが体の中心から先の方へと流れていくのが分かる。抵抗さえしなければそれはとても心地の良いものだった。ちょうど手足の指先がほんのり温かくなったところで謝霊は私の背から手を離した。そのときには、私はすっかり具合が良くなっていた。吃驚して謝霊を振り返ると、彼はいつもの笑顔を崩すことなく私をじっと見つめている。

「どうです? 気功術を体験した感想は」

 私は目を瞬いた。気功術というと、物語に出てくる仙人や道士、侠客たちが使う奇妙な術のことではないか。

 しかし謝霊は、私の訝しげな顔を見ると軽く声を上げて笑った。

「なに、私も少しばかり心得があるのですよ。招魂の術を使うときに術者の魂魄こんぱく――平たく言うと生者の霊魂のことですが――が陰間に引き込まれないよう、気功術も併せて訓練するのが我が家の習わしでしてね。私の助手をしていただくなら、チャン先生も学んでおいて損はないかと思いますよ」

「……いや、結構です。あなたの助手をするのは今回だけだ」

 そう言って断った私の頭の中では昨日見た謝霊の事務所の様子が思い描かれていた。山と積まれた怪しい道具に二匹の怪しい猫、そしてその全てを司る怪しい男と三点揃ったあの空間に自分が身を寄せるなど荒唐無稽にもほどがある。それに何より、私には「英国商人に仕える漢人の使用人」というちゃんとした身分があるのだ。悠々自適とはいかないが、それでも得体の知れない探偵稼業よりはよほどましだろう。そもそも今彼の助手として駆り出されているのもサー・モリソンの意向あってのこと、即ち私に拒否権はなかったのだ。

 謝霊シエリンはなおも私をじっと見つめていたが、やがて「そうですか」と言うと路地の入り口へと足を向けた。

「何がともあれ、今回は私の助手として働いてくれるということですね。では参りましょう、慧明フェイミン兄、我らがモリソンの旦那様のためにも早く謎を解いて差し上げねば」



***



 私たちは探偵と助手として工部警察の戸を叩き、サー・モリソンの存在をちらつかせつつクリスティン・フォスター殺害事件の記録を手に入れた。父親である故エドワード・モリソン氏の威名の影響に一大富豪として知られるエリック・パドストン氏の後ろ盾が加わって、レイフ・モリソンの名もまた上海では一定の地位を築いていたのだ。おまけにマダム・フォスターが亡くなってからというもの、サー・モリソンは被害者の婚約者という立場からひっきりなしに工部警察に足を運んでは、そこで得た情報を自身の調査の足掛かりにしていたのだ。むしろ警察連中にとって我々は、サー・モリソンがまた情報収集で人を寄越してきた、といったところだったのだろう。我々は十分もしないうちにうんざりした様子の警察官から分厚い紙束を渡されて、まるで野良犬でも追い払うかのように放り出されてしまった。


 結果、我々はかなり早くに工部警察をあとにした。太陽はまだ天辺まで昇りきっておらず、昼食のあてを探すにも早すぎるぐらいだ。私は紙束を持って謝霊のあとを歩きながら、次はどこに向かうのかと彼に尋ねた。

「劇場です。フォスター嬢が殺された現場を私も見ておきたいものでね」

 そう言った謝霊には答えも足取りも迷うところがない。しかし私はこの調査に意見したくてたまらなかった。

「しかし謝霊シエリン先生。マダム・フォスターが殺されたのは——」

「ああ、そうだ」

 謝霊は何かを思い出したように私の言葉を遮ると、右手の人差し指をピンと立てた——それにしてもこの男、世の女性の幾らかはこれだけで落とせそうなほど整った指をしている。

「その『先生』というのはやめてもらえますかな。私だって『慧明フェイミン兄』とお呼びしていることですし」

 私は謝霊を思いきり睨みつけた。この「なんとか兄」という呼称は我々漢人には馴染みのあるものだが、本来であれば親しい間柄で使われるはずのものだ。即ち私と彼のような、会って一日二日な上に仕事の上で付き合っているだけの間柄にはそぐわないのだ。その念を存分に込めて私は謝霊を睨みつけたのだった。おそらく彼には無視されるが、嫌そうな素振りを見せる暇はあってもいいはずだ。

 そして案の定、謝霊は人の良い笑みを浮かべて私の抗議を無視すると、マダム・フォスターの話を続けるよう促した。

「……マダム・フォスターが殺されたのは二か月前だ。現場はあらかた調べ尽くされて、見つからなかったものもすでに掃除されているのでは? 謝霊兄」

 私は最後の言葉とともに少しばかり謝霊を睨んでやった。謝霊は満足そうに頷いたが、突然すっと笑みを消して私に顔を寄せてきた。

「ですが今のところ警察の調査には穴がある。それを感じたからこそモリソン氏は私の助力を求めたのではないですか?」

 私は「まさか」と目を見開いた。謝霊が続けて言う。

「そのためにも、これから我々で例の楽屋にこもらせてもらうのですよ。警察の証言とフォスター嬢の記憶をすり合わせ、繋がらない部分の手がかりを劇場で探すのです」



 

 昼間の劇場には人の気配がない。裏口の守衛に話をつけて中に入った私たちは、「クリスティン・フォスター」のネームプレートが残ったままの楽屋に足を踏み入れた。始めのうちは警察の調査のためにネームプレートまで事件当時のままにしていたのだろう。しかし事件から二か月が経った今となっても楽屋が彼女のものとして残されているということは、マダム・フォスターの死は劇場関係者にとってよほどの衝撃で、この楽屋も今なお近付くことがはばかられる場として扱われているということだろう。

 私たちは楽屋に入ると扉を閉め、狭い室内を見回した。扉の位置から見て真正面にあるのは大ぶりな鏡台だ。向かって左には帽子掛けと腰の高さほどの台があり、台の上には一抱えはある壺が乗っていた。謝霊が軽々と持ち上げて逆さにすると、中から枯れた葉が一枚と花びらが数枚落ちてきた――どうやらこの壺は贈り物の花束を活けておくための花瓶として使われていたらしい。

 右側にあるのは天井まである衣装棚だ。姿見もすぐ傍に置いてあり、その前にだけぽっかりと空間が開いていた。きっとマダム・フォスターはここで衣装を身に着け、姿見に映して出来栄えを確かめていたのだろう。その隣には、クローゼットと姿見の間に押し込められるようにして一脚の肘掛け椅子が置いてあった。必要最小限のもので構成されたこの部屋の中で唯一浮いているものがあるとすれば、それはこの肘掛け椅子だ。劇場の裏方が使うはずはなく、また鏡台を使うマダム・フォスター自身にも必要はなかっただろう。謝霊もそれが気になったらしく、しばらく肘掛け椅子の前でなにやら思案していたが、やがて椅子を中央に引っ張り出してくるとストンと長い脚を組んで座った。

「では我々も始めるとしましょう。まずはその資料を見せてください、慧明フェイミン兄」

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