第九話 謝霊と張慧明、逼安の家を探ること

「どうされたんですか? 先生——」

 謝霊はすぐに心配と驚きを満面にたたえて逼安に手を伸ばした。しかし逼安は後退るばかりな上、彼の叫び声を聞いた近隣の住民がわらわらと集まりだしている。逼安は不安げに周囲を見回すと、踵を返して走り出そうとした。

「待て!」

 レスター警部が我に返ったように大声で呼ばわった。次いで李舵が弾かれたように逼安のあとを追おうと駆けだしたが、数歩も行かないうちにつまづいて転んでしまった。

 李舵は一瞬驚いて足を止めたものの、すぐに駆け寄って倒れたまま動かない逼安をひっくり返した。

「気を失っています。転けた拍子に頭を打ったようです」

 李舵の報告にレスター警部は目を見開いたが、すぐにやれやれとかぶりを振った。それからレスター警部は李舵の方に向かって歩き出し、一緒になって逼安の様子を確認し始めた——

「行きましょう、慧明兄。今のうちに」

 謝霊に耳元でささやかれ、私ははっと我に返った。謝霊が指差す先を見ると、李舵とレスター警部が住民に囲まれて質問攻めにされている。私が向き直ると謝霊はぱちりと片目を瞑り、開け放たれたままの門をひょいとくぐって中に入っていった。


 謝霊を追いかけて四合院の敷居をまたぐと、そこは外見に負けるとも劣らないほどぼろぼろの庭だった。謝霊は庭を一直線に突っ切って一番奥の母屋に向かっていた――小走りに追いついた私をちらりと振り返ると、謝霊は黒ずんだ扉をそっと開けて中に滑り込んだ。

 まず目に飛び込んできたのは正面の壁に掛けられた絵とその下の祭壇だ。線香は立てられておらず、蝋燭も燃え尽きたまま放置されていて、供えられている果物でさえも甘ったるい異臭を放っている。それでも放置されてせいぜい一週間といったところで、あの大雨以降誰も交換する人がいないようだった。

「どうやら風邪で寝込んでいたのは本当らしいですね」

 食卓を見ていた謝霊が言う。彼の方を見ると、たしかに薬の包み紙と湯飲みが放置されたままになっていた。謝霊がつまみ上げた包み紙に書いてあるのも風邪薬の名前だ。

「この散らかりようを見るに逼安は整理整頓には疎いようですね。祭壇はともかく薬の包み紙はこまめな人ほど捨てずにはいられないですから」

 謝霊はそう言いながら室内を見回した——居室というよりも倉庫のような部屋で、壁際には天秤棒や売り物らしい小物が詰まった大小の木箱がごちゃごちゃと並び、空っぽの本棚には数冊の帳簿と金を保管しているらしい小箱がぽつんと置かれている。謝霊が木箱を調べている間に帳簿と小箱を見たものの、逼安たちの生活は本当に火の車だった。虹口の住民の話では二人はそこそこ認知度があるように思えたが、やはり現実はそう甘くないらしい。

 帳簿は商売の利益の他に日々の生活の費用を記録しているものもあった。何とはなしに生活費の帳簿を見ていた私は、不定期にまとまった額が出ていることに気が付いた——それもこの四合院の様子からは想像しにくい額の出費だ。謝霊にそれを見せると、謝霊はふうんと呟いてから他の帳簿にも目を通し、最後に小箱の中を見てから納得したように頷いた。

 次に私たちが足を踏み入れたのは左側の扉の先にある寝室だった。薄汚れた布団が敷かれた床机がふたつ、扉に近い方と窓に近い方の壁にそれぞれ沿うように置いてある。片方がぐちゃぐちゃに乱れているのに対してもう片方は最近使われていないらしく、適当に整えられたまま放置されている。部屋の角には馬桶と大きな水がめが置かれていたが、水がめは使われていないのか一滴の水もついていなかった。

「変だな。普段の生活で一日でも水を使わないなんてことはないはずだが……」

 私は独り言つと、謝霊の意見を聞こうと振り返った。

 そこで私は固まった――謝霊が私のいる一画を凝視したまま微動だにしないのだ。惚けているような、あるいは見てはいけないものに魅入られているかのような、異様なまでの眼差しにぎょっとした私に気付いているのかいないのか、謝霊はぼんやりと口を開いた。

「……見つけた」

「……何をです? 謝霊兄」

 私はおっかなびっくり聞き返した。しかし謝霊は憑りつかれたような顔のまま私の方に歩いてくると、「退いて」というなり印を結んで何やら呟いた。

 言われるままに退いた私は、さっきまで自分が立っていた場所を見て思わず叫びそうになった。


 なんと水がめの傍らに、水浸しの頭からぼたぼたと水滴をまき散らす范救がぬっと立ち尽くしていたのだ!


 とっさに悲鳴を飲み込んだから良かったものの、もし謝霊が呼び出したのでなかったら今頃叫びながら逃げ出していたところだ。范救は謝霊だけをじっと見つめ返していたが、やがて口を開いて何か言おうとした――が、その口からは言葉ではなくゴボゴボという音と大量の水が出てくるのみだ。謝霊はそんな范救に笑いかけると、

「ようやく見つけましたよ。やっぱり川にはいなかったんですね」

 と場違いなほど朗らかに言った。

「この部屋に入った瞬間に感じましたよ……ここに誰かがいると。そして私たちのこれまでの調査から考えるに、それは川でない場所で溺れ死んだ范救その人だとね。あなたの遺体に残っていた傷から察するに、ここで逼安と殴り合いになった挙句、そこの水がめに頭を入れられて殺されたのでしょう? だが問題はその理由だ。クルグロフ宝石店の窃盗事件と関係があるかと思うのですが……ひとつ、教えてはくれませんか? まだ見つかっていない翡翠の指輪がどこにあるのか」

 謝霊の問いに、范救がぴくりと頭を動かした。しかしその首はすぐに壁に向けられ、水をこぼしながらも唇が「言えない、言わないと約束した」の形に動く。謝霊はその動きを見てしたりとばかりに唇の端を持ち上げると、ぐちゃぐちゃに乱れている方の寝台にまっすぐ歩み寄った。

「人には隠しておきたいものが近くにあると意識的に反対側を見てしまうという、ある種のクセがあるんですよ。おかげであなたの隠し事が分かりました」

 そう言うと謝霊は私に手招きした。金縛りが解けたように我に返った私は、謝霊と一緒になって所々装飾の欠けた床机の下を覗き込んだ。

「……何かありますね」

 私がそう呟くそばから、謝霊は暗がりの中、存外手前にある影に手を伸ばす。謝霊が細い指を掛けて引っ張ると、金属が石をこする耳障りな音がした——果たして寝台の下から出てきたものは、細い管のついた金属製の煙管、煙管と対になる金属の小皿、小皿に乗った翡翠の嵌められた指輪に丸くて小さい容器だった。

 煙管と小皿が見えた途端、私の胸中を嫌な予感がよぎった。謝霊も笑みを引っ込めて容器の蓋を開け、中に入っている乾燥された葉をぱらぱらと指で摘んだ。

「阿片ですね」

 私たちは見つけたものを布団の上に並べた——きっとこの阿片こそが、二人の家計簿にあった不定期の出費の正体だったのだ。

「そういえば、逼安はえらく痩せていましたね」

 私が呟くと、謝霊は頷いて言った。

「きっと長いこと吸っているんでしょう。それに先ほど彼が私たちの前を走っていったとき、微かに鼻につく臭いがしましたから、私たちが来る直前まで吸っていて幻覚でも見たのかもしれません」

「では宝石店に盗みに入ったのも——」

 私がそう言いかけたとき、不意に背後から不満げな足音がした。驚いて振り返ると、扉のところにしかめっ面のレスター警部が立っている。

「まったく、警察の目と鼻の先で勝手に人の家に忍び込むとは!」

 レスター警部は嘆息しながらずかずかと部屋に入ってきた。私たちの間に割り込んだ彼はしかし、布団に置かれたものを見て固まってし

まう。

「それに膝突き合わせて一体何を……って、こいつは……!」

 警部は先ほどまでの苛立ちがどうでもよくなったかのように阿片の道具に飛びついた。腰を落として目線を合わせ、煙管や器の葉をひととおり観察すると、警部は打って変わって鋭い口調で私たちに尋ねた。

「これをどこで見つけた?」

「この床机の下に。クルグロフ宝石店で盗まれたと思しき指輪も一緒に隠してありました」

 謝霊が答え、小皿に乗ったままの指輪を指す。西洋風の繊細な銀色の土台に翡翠が嵌められたそれは、たしかにアレクセイ・クルグロフの他の作品と雰囲気がよく似ている。娘のイェヴァ・クルグロヴァの話から考えても、これが盗まれたまま見つかっていない指輪なのだろう。

「それに、これを見てください」

 謝霊はそう言うと、部屋の隅を振り向いて得意気に指を伸ばした——そこには具現化されたままの范救が、水を滴らせながらじっと立っている。レスター警部は一瞬ぎくりと身を引いたものの、すぐに水がめに歩み寄ってその一画を調べ始めた。

「むう……すっからかんの水がめか……」

「私が思うに、范救が殺されたのはこの水がめです。そして彼を溺れさせたのは逼安ではないかと」

 独り言のように唸るレスター警部に謝霊が話しかける。レスター警部は片眉を釣り上げて謝霊を振り返った。

「どうしてそう思うんだね?」

「范救の膝の擦り傷です。それに逼安がひどく神経質なことも理由になるかと」

 謝霊は即答し、警部に代わって底まで見えるように水がめを傾けた。

「もっとも、神経質なだけで生活力はあまりないようですが。しかし、まがりなりにも風邪で数日寝込んでいたなら、余計に水の痕跡が残っているはずでしょう。その数日間は水を捨てることも替えることもできないですし、数日も放置していれば水なんてすぐ悪くなってしまう。その後でかめを乾かしたとしても、藻の残骸なり腐った水の臭いなりが残っているのではないですか? 祭壇の腐りかけの果物すら放置しているのですからその可能性は高いはずですよ」

「つまり、逼安が范救を水がめに押し付けて殺したあとで水を全部捨ててしまったと言うんだな。だがどうして……」

「耐えられなかったのでしょう。自分が同居人を押し込んで殺した水を使うことに」

 謝霊はあっさり言い切ると、佇んでいる范救に目をやった。

「どのみち阿片が出てきたのです。それにあの性格ですし、逼安本人に聞いてみれば意外にすぐ白状するかもしれませんよ」

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