第七話 謝霊と張慧明、歌姫の楽屋を探ること
私は眉を吊り上げて謝霊を見た。たしかに一理あるが、服を隠せそうな場所——この楽屋の衣装棚や廊下にズラリと並ぶ衣装掛けはあらかた調べ尽くされているように思える。そして案の定、謝霊が楽屋中の棚や引き出しを次々開けても中はもぬけの殻だった。巨大な花瓶の中も当然空っぽだ。
「まあ、わざわざ漢人に変装して人を殺す男がこんな分かりやすい場所に証拠を残すとも考えにくいが」
「……そういえば、なぜマダム・フォスターは楽屋に肘掛け椅子なんて置いていたんだ」
「ミスター・モリソンと談笑でもするつもりだったのでは?」
私のぼやきに謝霊が答える。しかし私はかぶりを振って、彼の言葉を否定した——なぜならその晩、サー・モリソンは公演にもパーティーにも行っていなかったのだ。
そのことを謝霊に告げると、彼は丸眼鏡の奥で目を少しだけ見開いた。
「その話、詳しくお聞きしても?」
謝霊が尋ねる。私は頷くと、事件の夜のサー・モリソンの様子について一切を話した。
とはいえ事は単純だ。事件の日の夕刻からサー・モリソンは体調を崩しており、とても外出できる状態ではなかったのだ。それも突然のことで、彼は本来行くはずだった公演とパーティーを全て欠席しなければならなかった。日中、マダム・フォスターとエリック・パドストンと三人で上海観光をして昼過ぎに戻ったときには何ともなかったため、医者は時間の経過も鑑みて食当たりだと診断した。
その最中の殺人事件である。サー・モリソンの受けた衝撃は並大抵のものではなく、不調もずるずると後を引いて、結局彼が全快したのは事件から二週間が経ったころだった。
「……ですが元々行かれる予定ではありましたし、劇場側も関係者として楽屋の出入りを許可していたのでしょう。だから、この椅子がサー・モリソンのために用意されたというのも間違いではないのかもしれません」
私はそう言って話を締めくくった。謝霊はその間あごに指を置いてじっと黙っていたが、おもむろに肘掛け椅子をひっくり返すと、四隅と各辺の三か所を留めていた針を抜き取って座面の底を取ってしまった。
「ちょっと、何してるんですか⁉︎」
私は慌てて声をかけたが時すでに遅し。その上謝霊はにやりと笑って座面の中を指さした。
「そら、
私は訝しみながら中を覗いた。が、そこに入っているものを見た瞬間、謝霊を疑る気はどこかに飛んで消えてしまった。
「旗袍だ!」
私は思わず大声で言った。謝霊は早速旗袍を引っ張り出し、綿を払って状態を確かめている。麻でできた質素なものだったが、脚のあたりを見ると片方にだけたしかに染みが残っていた。
謝霊はなおも旗袍を観察し、裏に表に返してみたり、首元から体側へと並ぶ
「慧明兄、パドストン氏の体格はどのくらいですか?」
謝霊が尋ねる。私は
「かなり大きいです。皆彼と話すときは見上げないといけないので」
と答えた。
「この旗袍も着られそうですかな?」
「ええ、おそらくは。……信じがたくはありますが」
謝霊は私の答えに頷くと、旗袍を脱いでくるりと丸めた。それを鏡台に置くと、謝霊は底を取り払ったままの肘掛け椅子に視線を移した。私も反対側から肘掛け椅子を観察した――どうやら私たちよりも先に座面の底を剥がした者がいたらしく、四辺が乱雑にほつれている。それがパドストンであることは我々にはすぐに分かった。
「そういえば、事件の夜に衣装が紛失したという話がありましたよね」
私はふと思い出して謝霊を見た。謝霊は頷くと、
「そのあたりのことは劇場の者に聞きましょうか」
と言って楽屋の戸を開けた。
私たちが最初に話を聞いたのは沈とともに劇場で衣装係をしている
しかし彼女はクリスティン・フォスターの遺体を見つけたわけではなく、朝早く来て衣装の点検をしていたら騒ぎに巻き込まれてしまったのだと語った。
「衣装の点検ですか。それは毎朝することなのですか?」
謝霊が尋ねると、文
「ええ。それが私の仕事なので」
「なるほど。そのとき何か変わったことはありましたか? 思い出せる範囲で構いませんから教えてくださいますか」
謝霊が続けて尋ねる。すると文姑娘は考え込むふうもなく、しかしためらいながら
「……警察の方にもお知らせしたのでよく覚えているのですが」
と言って少し目を泳がせた。
「事件の夜に衣装がいくつか消えていたってお話があるでしょう? 沈さんが捕まった理由にもなった。実はそれ、私が警察に言ったんです。前の日にははあった衣装がいくつかなくなっていたって」
「なるほど」
謝霊が静かに答える。
「ちなみに、何がなくなっていたのか教えてもらえますか」
謝霊は丸眼鏡の奥から至極真っ直ぐな視線を文姑娘に向ける。文姑娘は謝霊と私に少しだけ顔を寄せると、
「スーツのズボンと黒の革靴ですわ。一番大きいサイズのものが、ひとつずつなくなっていました」
と答えた。
次に私たちが話を聞いたのは劇場の裏口に詰める警備員だ。
袁が見送ったという同僚たちの中には、たしかに沈も含まれていた。しかし彼は沈の様子に特に変わったところはなかったと答えた。
「それにあの朝、俺は夜勤明けで帰ったところだったってのに、いざ寝ようとしたら朝っぱらから家に小僧が来て今すぐ劇場に行けとか言われたんだ。それで行ってみりゃ、沈の奴がしょっ引かれてくところに遭遇してなあ。驚いたったらありゃしないよ」
袁はこちらが聞いていないことまで勝手にべらべらと喋っては、一息つく代わりに煙草を吹かす。私は謝霊の半歩後ろで袁の話を飲み込もうとしていたが、謝霊はいつものように愛想の良い笑顔を保っていた。
「誰か怪しい者はいませんでしたか? たとえば、その沈先生と同じかそれ以上の背丈の者など、見てはいませんか?」
「見てねえな」
袁は煙草の合間に短く答えた。
「あいつほどでかい奴はそういねえからなあ。上海じゅう探して、西洋人どももかき集めてやっとこさ五、六人集まるってとこじゃねえの」
***
私たちが劇場を引き払ったのは夕日がすっかり沈みきったころだった。昼飯も取らずに――おまけに私は体調不良でろくに朝飯も食べていなかった――ひたすら探し物をしていたせいで、腹はぐうぐう鳴り、頭は今度は疲労で痛みを訴え始める始末だ。
「これだけ収穫があれば上出来ですよ。やはり二人で働くとはかどりますなあ」
空きっ腹を抱える私の横で謝霊は呑気に笑っている。
「どうです、明日も来ませんか、慧明兄? 明日はモリソン氏とパドストン氏、それにフォスター嬢の昼間の動向を探ってみようではありませんか。モリソン氏の食あたりの原因となったものなんて、探してみても面白いんじゃないですか?」
「サー・モリソンの許可が下りれば朝一で事務所に行きますよ」
私はうんざりしながら言い返した。折しも我が家兼仕事場が見えてきたところだったが、それを見た途端に私の腹が思いきり音を立てた。私は頬が一気に熱くなるのを感じた。しかし、謝霊を伺っても彼は上機嫌のまま、ではまた明日と手を振ってさっさと別れてしまう。
あまりにあっけない挨拶に、私はぽかんとしたまま彼の背中を見つめていたやがて私はかぶりを振ると、建物脇の横道から半地下の裏口に回って中に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます