第八話 張慧明、主人の会食に引き出されること

 水を張ったたらいで手を洗っていると、上階へと続く階段から楊紫香ヤンズーシェンの怒鳴る声が聞こえてきた。

慧明フェイミン! まだ帰ってないのかい!」

 私は驚いてその場で飛び上がり、反射的に答えた。

「帰ったよ、ヤン阿姨おばさん

 彼女が怒鳴るなど何事だろう――それも主人の用事で一日留守にしていた私が、ドラ息子の相手さながらの口調で怒鳴られなければならないのだろうか。訝しみつつも階段に向かって倉庫を突っ切っていると、

「なら早く来なさい! 仕事だよ!」

 とさらに大声で怒鳴られた。

 私は何事かと首をかしげながらも階段を駆け上がった。楊紫香は階段の出口に立ちはだかって私を待ち受けており、私の顔を見るなり葡萄酒の瓶をぐいと押し付けてきた。

「サー・パドストンがお見えだよ。サー・モリソンとご夕食を一緒に取られるんだとさ。他の連中は帰っちまったし、あたしは厨房で手が離せないんだ。分かったら早くお行き! 三階の居間だよ!」

 私が口を開く間もなく楊紫香はまくし立て、挙句の果てには私を階段から引き上げて思い切り背中を突き飛ばした。私は何が何やら分からぬままに上階への階段を駆け上がり、居住まいをちょっと正してから居間の戸を叩いた。

「ワインをお持ちしました、サー・モリソン」

 私がそう言うと内側から扉が開けられ、サー・モリソンが顔を出した。彼は私を見るや少し首をかしげ、

「いつ戻った?」

 と単刀直入に聞いてきた。

「つい先ほどです。例の件について、劇場で探し物をしていまして」

 私は部屋の中を伺うまでもなく声を落として言った。サー・モリソンもそれを汲んでか無言のままに頷く。それから声を上げて

「そういえば、具合はどうだ? 朝よりだいぶ元気そうだが」

 と言い、私を中に通した。

「もう大丈夫です。よく効く薬をもらいまして」

 私は素早く答えながら部屋に入り、すでに食卓に着いているエリック・パドストンに一礼した。

「やあ、君か。たしかフェイミンと言ったかな」

 パドストンが深みのある声で言った——彼は恰幅の良い英国人で、背も非常に高い。私は彼をちらりと盗み見ると「そうでございます」と言ってもう一度頭を下げた。そこに楊紫香が香ばしい匂いとともにやって来て、切り分けられた鶏肉の香草焼きの皿を置いてさっさと出ていく。その間彼女は二人の英国人をちらりと見て軽く会釈をしただけだ。

「……相変わらずぶしつけなメイドだな。もう少ししっかり教育したらどうだ」

 楊紫香が出ていくなりパドストンは聞こえよがしに声を張り上げる。その間私はワインをグラスに注ぎ、氷のバケツに戻してから顔色ひとつ変えずに部屋の隅に引っ込んだ。これしきの小言に反応しているようでは西洋人の使用人は務まらないのだ。

「ぶしつけな料理人ならうちイギリスにもいるでしょう。彼女は愛想は悪くてもしっかり働いてくれますし、何より父の代からいる古株なのです。今さら無下にもできませんよ」

 サー・モリソンはパドストンをなだめるように言って、テーブルの反対側に座った。それでもパドストンは不服らしく、サー・モリソンの方に乗り出して声を上げる。

「レイフ、私は我々の行い全てが帝国の面子に関わるから言っているのだよ。どんなに些細なことでも我々が譲歩してはならんと、ここに来た日からずっと言っているだろう? 実際エドワードは……」

「はいはい、分かりましたよ、エリック叔父さん。それで、話と言うのは何なんです?」

 サー・モリソンはにこやかに話を遮ると、ワイングラスを持ち上げて乾杯を促した。パドストンも渋々ながらそれに応じてグラスを持ち上げる。二人はワインを一口飲んでグラスを置くと(彼らは乾杯をするのに酒を一度に飲んでしまわない――西洋ではそれが礼儀のようだが、やはり何度見ても慣れないものがある)、まずパドストンが声をひそめて言った。

「レイフ。風のうわさで聞いたのだがね、君はまだクリスティンの件について調べているのかね?」

 単刀直入な問いにサー・モリソンは少し目を丸くした。私も少しばかり眉を跳ね上げた。一体どこから話を聞いたのか――また彼がどこまで勘付いているのかは分からないが、凶手たるパドストンがそれを知っているとは驚きだ。

「ええ、まあ。私はまだ納得がいっていないので」

 サー・モリソンは料理を取り分けながら答えた。当然パドストンは納得いかないといった様子だ。

「だが、犯人も逮捕されたのだろう。あの、たしかチェンとかいった……」

「よく覚えていますね。では彼が逮捕された理由が疑わしいこともご存知でしょう」

「どこがだね? 状況をかんがみるに、クリスティンを殺せたのは奴だけだろう」

「ですが、その理由は? 彼には動機もなければ、クリスティンと個人的ないさかいがあったわけでもないのですよ?」

 淡々と口と手を動かし、話しながら食事をする二人を私はじっと見守っていた。このときになってようやく、サー・モリソンはわざと私と楊紫香を残して皆を帰らせたのではないかと勘づいた。きっと彼は、パドストンの発言に怪しい部分がないか私に見張らせているのだ。

「それに、背が高いからなんてこじつけでしょう。あのくらいの背丈で、あの晩劇場にいた者なら他にも——」

 サー・モリソンがそう言いかけたとき、パドストンが突然いきり立った。

「しかしな、レイフ、事件の夜劇場にいてバックヤードを自由に行き来でき、なおかつあの背の高さで漢人の出で立ちだったとなるとチェンしかいないだろう! 理由などあってもなくても同じことだ、どうせ一目見て抱いた劣情が満たされないと知って逆上したのだろうさ。ここは国王が何千、いや何万もの妻を一度に囲うような国なのだぞ。民草のレベルがそれより勝っているとどうして言い切れる? そうでなくても我々が連中の格好をするなど考えられん!」

「叔父さん!」

 サー・モリソンが大声を上げ、二人の英国人はしばしの間荒い息を吐きながら睨み合っていた。やがてパドストンが先にため息をつき、自らを落ち着けるようにワインを飲み干した。

 パドストンは指をくいと曲げて私を呼びつけると空のグラスを突き出してきた。私はすぐさま近寄って次の一杯を注ぐ――そのとき、視界の端で白いものが動くのが見えた。悟られないように窓を一瞥し、軽く会釈して下がると同時に、階下からガチャンという音と楊紫香が怒鳴る声が聞こえてきた。

「何だね、騒々しい」

 パドストンが不満げに呟く。私はサー・モリソンに目配せをすると、ワインの瓶を置いて応接室をあとにした。

「エリック叔父さん、どうか気を取り直してください。今フェイミンに様子を見に行かせていますから……」

 サー・モリソンの声を背中に聞きながら私は階段を駆け下り、厨房の扉をバンと開けた。

「楊阿姨? 何があったの?」

 私は厨房をさっと見回して、床にひっくり返って割れた皿とカンカンに怒っている楊紫香、それから開け放たれた窓を順番に確認した。楊紫香は私が来たことを認めると、「野良猫だよ!」と一言乱暴に答えた。

「おかげでこのザマだ……今日の夕飯が作り直しになっちまったじゃないか、あのドラネコめ!」

 私は楊紫香の文句を聞きながら窓の外に顔を出した。外は真っ暗闇だが、路地の向こうに辛うじてひょろりと背の高い人影と白くて長い尻尾が見えた。

「……あいつ!」

 私は歯ぎしりをするや窓から飛び出した。楊紫香が呼ぶ声を無視して私は路地を走り抜け、勢いよく角を曲がった。

 果たしてそこにいたのは、香草の良い匂いを漂わせる鶏肉の塊を加えた七白チーバイと、七白から鶏肉を取り上げようと格闘している謝霊だった。

「おや、慧明フェイミン兄」

 謝霊は片手で鶏肉の一端を摘まんだまま、もう片方の手で丸眼鏡を押し上げた。その隙に鶏肉を引っ張った七白の鼻をぺちりと叩き、「こら、放しなさい」と言う。はずみで口を離してしまった七白は不服そうに喉の奥で唸ったが、私が見ていることに気付くやいなや途端に大人しくなった。

「……謝霊シエリン兄。こんなところで何をしているのですか?」

 私はできる限り冷静を保ちつつ尋ねた。謝霊はだらりと長い七白を抱え直しながら

「少しばかり偵察を」

 と答えた。

「霊魂を操る術のひとつに、他の動物の体を借りるというのがあってですね。要は七白は人の家を覗く時の私の器なのですよ。いつもは上手くいくのですが、今日はどうも落ち着きがなくてですね。もとから繋がりが不安定だった上に七白が怒鳴り声に驚いて、術が完全に解けてしまったのです。いやはや、ご迷惑をおかけしました」

 いけしゃあしゃあと言ってのけた謝霊に私は開いた口が塞がらない。と、そこに朝方見かけた七白を思い出した。今にも倒れそうな私とわざと捕物劇を演じさせた挙句に姿を消し、その直後に謝霊が現れた——

「——待て。ということはまさか、今朝うちの倉庫に入り込んだ七白は」

ですね。ですがさっきも言ったとおり、今日はあまり言うことを聞いてもらえていないのですよ。だからあれも半分は私の意思、もう半分は七白の意思といったところですかね」

 ……どおりでか。私は合点がいくと同時にうなだれた。どおりでやけに良い時に現れたわけだ。私はため息をつくと、さっさと踵を返してもと来た路地を戻り始めた。

「どこに行くんです?」

 謝霊が私の背中に呼びかける。私は頭だけ振り返ると、

「中に戻るんですよ。今晩はもう休ませてください。……どうせ明日も私を連れまわすんでしょう? だったらそのとき会って、じっくり話せば良いでしょう。ではまた、謝霊兄」

 と言い残してさっさと半地下の裏口へと潜り込んだ。

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