第二話 謝霊の天敵が頼み事を持って現れたこと
拱手の礼をしようとした私に謝伸は握手を求めてきた。面食らいながらも手を出すと、大きくてがっしりした手が即座に私の手を捕らえてしまう。すぐに離してもらえたから良かったものの、謝霊よりも立派な体格も相まってこのまま取って食われるのではないかという勢いだ。
「これが来るから手を貸してほしかったんですよ。事前に適当に追い返す方法でも考えようかと思っていたのに」
謝霊は柄にもなく乱暴な口調で言うと、謝伸をきっと睨みつけた。しかし謝伸は弟――厳密には義弟だろうが――の怒りなどどこ吹く風で、ハッと笑うとそのまま肘掛け椅子に腰を落ち着けた。謝霊が苛立っていることが嬉しいようにさえ見える。
「そうか、そうか。ついにお前が他人と共謀して私を嫌うようになったとはな。兄さんは嬉しいぞ」
謝伸がよく響く声で笑うと、謝霊はますます苛立ちに顔を歪めて謝伸を睨みつける。
「万国の人間がひしめく上海の中でも弟に嫌われて嬉しがる変態なんて兄さんぐらいでしょうよ。無駄話をしに来たんだったらとっととお引き取り願いましょうか」
ともすれば無礼にさえ聞こえる口調だったが、それほどまでに謝霊はこの兄のことが嫌いらしい。一方の私はというと、まさかしつこく呼び出されていた理由が兄弟のいざこざだったとは思いもよらず、ただ二人のいがみ合いをぼんやり眺めていることしかできなかった。兄弟のいない私に上手い仲裁ができるわけもなく、なにより謝霊がここまで兄を嫌っているとは思ってもみなかったのだ。以前謝霊から兄弟の話をされたときにはうちの一人をここまで毛嫌いしているようには見えなかったし、ある種甲斐甲斐しく扱われているとさえ思っていたのだから、私はすっかり面食らっていた。
「慧明兄、これが謝家の長男の謝伸です。租界を裏で取り仕切ることと弟に嫌われることが生きがいの、上海一の変人と言っても過言ではない男だ――さっきだって、初めて会うのに慧明兄の顔と名前を知っていたでしょう? もちろん私は何も教えていませんから、こいつが自分の情報網を使って洗い出したということなんですよ。西洋化の推進だか何だか知りませんけど、こいつがもたらすのは厄介事と迷惑だけです。とにかく関わらない方がいい」
「……そこまで言わなくても、用向きくらい聞いて良いのでは」
聞こえよがしに悪口を並べ立てる謝霊に、私は辛うじてこれだけ言い返せた。その途端、謝霊が「慧明兄!」と言ってうなだれ、対する謝伸は「よくぞ言ってくれた!」と喜びの声と共に立ち上がった。
「あなたが常識人で実に助かった。うちの弟でないと解決できない事件が起きたから相談に来たというのに、
「絶対に嫌ですからね。どうせ私の力を借りて自分の株を上げようって魂胆なんでしょう。そんなの絶対、金輪際、未来永劫お断りです」
謝霊は早口にそう言うと、腕組をして私の後ろに回り込んでしまった。私よりも背が高いくせに、まるで小さな子どものように私を盾にして口をとがらせているのだ――その上謝伸も私につかつかと歩み寄り、私はこの長身の兄弟に挟まれて身動きがとれなくなってしまった。おまけに謝伸は謝霊よりも上背があるせいで並大抵ではない圧を放っている。
「阿霊、今回の件は私よりもお前の株に大きく関わってくる。上手く対処できれば招魂探偵の名を広く知らしめることにも繋がる願ってもない機会なのだぞ? それでも私を追い返すつもりか?」
「もちろんですとも。兄さんからの施しなんて受けたくない」
「施しなものか。報酬を支払うのは私ではないし、私はあくまでも弟の顔を立てるだけじゃないか」
「それでも兄さんが払わせる金だ。施しでしょう、兄さんからの」
「せめて仕送りと言ってもらいたいな。それに私だって、身内だからと言って報酬を上乗せさせるような真似はしない」
「そういう問題じゃないんですよ。私は兄さんに恩義を作るなんてまっぴらごめんなんです、それ以上でもそれ以下でもありません」
兄弟は私を挟んで散々に言い争った――もちろん私に割り込める隙などあるはずもない。完全にお手上げ状態の私は、なるほど七白と八黒が怯えて部屋の隅に逃げてしまうわけだと現実逃避のように一人納得していた。いつもは人の良い笑みを崩さない謝霊がここまで荒れてしまうのだから無理もない。
「ねえ慧明兄、慧明兄からも何とか言ってやってくださいよ。私は自分の力だけで十分やっていけると」
「それはそうでしょうが、そう言われましても……」
唐突に謝霊が頼ってきた。私が返答に窮していると、今度は謝伸が詰め寄ってくる。
「ならば張先生、うちの愚弟にこう言ってやってはくれませんか。兄の好意を踏みにじるのはよろしくないと」
「ええと……それもそうでしょうけれど……」
謝伸の言葉に口ごもると今度は後ろの謝霊がどす黒い空気を色濃くする。私は耐えかねて、ついに謝霊を説き伏せることにした。
「謝霊兄、まずは話だけ聞いて、それから考えれば良いのではないですか? どうしても気に食わないことがあるなら、自分が有利になるように条件を付けても良いですし……」
案の定、謝霊はむき出しの敵意で私を睨んできたが、最後の一言を聞くなり目つきが少し柔らかくなった。
「条件ですか。悪くはないですね」
そう呟いた謝霊はすでに何かを考えているときの顔つきになっている。そして、彼が結論を出すまでにそう長くはかからなかった。
「では兄さん、こうしましょう。私があなたの依頼を受ける代わりに、あなたは金輪際私に厄介事を押し付けないこと、探偵稼業のことにも口を出さないこと、それからいつまでも私を阿霊と呼んで世話を焼くのをやめること、この三つを約束してください」
してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべて謝霊は言った。そして謝伸はというと、少しばかり不満げには見えるものの「良いだろう」と答えた。
「ただし、お前は手を抜かないことを約束しろ。なんといっても今回の相手は租界の重鎮なのだからな」
「一番の重鎮がよく言いますよ。相手は誰なんです?」
謝霊は尋ねながら、謝伸に占領されていた椅子に腰を落ち着けた――この椅子の所有者は自分だと言わんばかりに仰々しい仕草で、脚まで組んでみせて。
「フランス大使のルネー・オベールだ」
「オベール大使ですか。また厄介な人に目を付けられたものですね」
謝霊があからさまに嫌そうな顔をしてみせる。とはいえ、私もルネー・オベールの悪評は聞いたことがあった。租界で西洋人を相手にしている漢人なら、誰もが彼の悪評を一度ならず聞いたことがあるだろう――大使という立場を背負っていながら女と賭け事が大好きで酒癖も良くない。もちろん妓楼巡りにも余念がなく、フランスに残してきた妻子がいるにもかかわらず気に入った妓女を自身の邸宅に連れ込んで現地妻のように扱っているのは有名な話だ。それもどんどん好みが変わり、連れ込む妓女もとっかえひっかえしているせいで、一度ひどい醜聞で上海を騒がせたこともあった。このときは租界の外の漢人街にまで西洋人の中に西門慶も顔負けの女好きがいるらしいと話題になったと聞く。
「彼も厄介だが、今回は醜聞どころでは済まない事態だ。さっきも言ったが、こればかりはお前にしか解決できない」
謝伸が言うと、謝霊ははんと鼻を鳴らした。
「つまり人死にですか。ですが例の醜聞も似たようなものではなかったですか? オベールに飽きられた妓女が彼への恨みつらみを大声で叫びながら大世界の上から飛び降りて、途中でひっかかって骨を折ったというあの話と」
「その程度なら工部警察に手を回せば事足りる。しかし今回は本当に死んでしまった上に……いや、あそこまでいくと怪奇現象だ。なぜならオベールが連れ込んだ妓女が、ある朝起きたら彼の隣で髑髏に姿を変えていたのだから」
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