第十一話 万事は無常であること

 私は三人について走り出そうとしたが、ふと気になって范救を振り返った。すると彼は謝霊と向き合い、なんと拳と手のひらを合わせて深々と頭を下げているではないか。

「礼には及びませんよ。あとは東岳大帝の正義を仰ぎましょう」

「謝霊兄!」

 落ち着き払って鬼と話している謝霊に、私はたまらず大声で呼びかけた。

「早く行かないと。逼安が逃げてしまう!」

「逃げきれませんよ。東岳大帝は必ずや、私たちの行く先に待ち構えています。彼は冥府で裁かれ、相応の罰を受けます」

「そんな――」

 私は言い返そうとしたが、続く言葉を言う前に謝霊に遮られた。

「行くなら行ってください。ただし、彼らが誓いを破った代償に死を定めたのであれば、今ここで追いかけたとて逼安は近いうちに死にますがね」

 私は舌打ちし、謝霊に背を向けて走り出した。何を悟ったか知らないが、逼安は死後の世界ではなくこの世で裁きを受けるべきだ。今彼を捕らえるべきは工部警察のレスター警部と李舵であり、決して黄泉の支配者などではないのだ。

 庭まで出たところで、家の前が騒がしくなっていることに気が付いた。大急ぎで門を出ると、人だかりができているのはなんと隣の家だった。

「通して!」

 私は叫びながら人垣をかき分けた――その中央にいたのは、どういうわけか隣家の網に絡まってもがいている逼安と、逼安を助け出そうと格闘しているレスター警部と李舵だった。

「警部、これは……」

「いいから手伝ってくれ!」

 一瞬呆気に取られた私だったが、レスター警部に言われてすぐに網に飛びついた。しかし逼安が暴れているせいでおいそれと手が出せず、その上網がますますきつく絡みついていく。隙を見て何度か網に手をかけた私だったが、網が思った以上にきつく絡まっている上に、ろくに解けないうちに逼安に蹴られて手を離さざるを得なかった。

「ナイフだ! 誰かナイフを持っとる奴はおらんか⁉」

 レスター警部が叫び、李舵が群衆に向かってそれを伝える。誰かがすぐに小刀を差し出し、李舵が受け取ったものの、この状況では下手に手を出せばかえって逼安を傷つけてしまいそうだった。

 逼安の顔は恐怖に歪み、首に絡みつく網を引きはがそうと躍起になっている。しかしもがけばもがくほど網は逼安の首を絞め上げて、彼の息を奪っていく。数分に渡る格闘の後、逼安は「カハッ」と息を吐いたきり、目を見開いたままぐったりと動かなくなった。



 こうして一体の水死体に端を発した一連の事件は幕を閉じた。逼安の死はその場で確認され、レスター警部と李舵、それに呼び出された複数の警察官によって運び出された。警部がこれから四合院の捜索をすると言っていたから、そのうち全てが新聞に出回ることだろう。

 それにしても後味の悪い事件だった——一時は結束を誓い合ったというのに、最後は決裂と死で終わるとはあまり良い話とは言えない。その中心にあるのが阿片だからと言ってしまえばそれまでだが、やはり物事は悪い方にも良い方にも移ろいゆくということなのだろう。


 その夜、私はある夢を見た。例の四合院で、謝霊が范救やマダム・クリスティン・フォスター、その他私には見覚えのない者たちと共に食卓を囲んでいるのだ。范救は頭から水をぼたぼた滴らせていたし、マダム・フォスターは笑うたびに伸びきった舌が見え隠れし、白い首に縄をぶら下げていた。他の人々も明らかに死んでいると分かる見た目で、中にはマダム・フォスターのように首に縄をかけた、目の飛び出した十代の少女の姿もある。この奇妙な宴席において謝霊は唯一の生きた人間だったが、その顔はいつもの自信と余裕にあふれたそれではなく、もっと無邪気で屈託のない笑みを浮かべていた。彼らは語り合い、笑いながら飲み食いをしていたが、卓上の料理が減ることはなく、淀んだような時間だけがだらだらと流れていく。

 ふと、謝霊の目が私を見た。途端に全員の視線が私に注がれ、次の瞬間には全てがふっとかき消える。温かな宴席も一瞬のうちに朽ちた食卓と椅子、料理の残骸が乗った皿に変化し、部屋そのものも廃墟のように寒々しくなった――ただ、そこに赤ん坊の泣き声だけが響いている。私は踵を返して逃げようかとも思ったが、好奇心を抑えきれずに赤ん坊に近付いた。

 赤ん坊は謝霊が座っていた椅子の上に寝かされている。抱き上げようと手を伸ばしたした私はしかし、あることに気付いてはたと動きを止めた。

 赤ん坊の影が薄い。まさかと思って胸に触れてみると、これだけ声を上げて泣いているのに少しも動いていなかった。

 凍り付いた私の前に一人の女人が現れた――どこか見覚えのある細い目をしたその女人は、赤ん坊を抱き上げてあやしながら私ににっこりと笑いかけた。

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