第七話 謝霊、思わぬ強敵に出会うこと

 私たちは三笑楼を出たところで別れ、私はそのままモリソン商会に戻った。その間、私の頭の中にはいくつかの疑問が渦巻いていた――ひとつは謝霊の艾琳に対する態度だ。あの表情は彼が鬼の気配を感じたときのそれとよく似ていた。しかし、あの場のどこに鬼がいたと言うのだろうか? それで艾琳の方をじっと見つめていたのだからますます引っかかる。それに謝霊は小妃が「死んでいた」ではなく「死んだ」と二人に伝えた。彼女がずっと前にこの世の存在ではなくなっていたことを立証したのは謝霊だというのに、なぜそれを隠したのだろうか。彼なりに思うところがあってのことなのだろうか?

 別れ際の挨拶も謝霊は心ここにあらずといった様子で、あれだけの執念で私を呼び出して付き合わさせたとはとても思えなかった。一体何が彼の心に引っかかっているのか――その疑問は図らずも、翌日謝霊自身が答えを教えてくれることになる。


 その日の午後、私は仕事の手紙を届けに上海じゅうの得意先を渡り歩いていた。最後の一通を届け終え、さあ戻って休もうというときに、ふと私の足元を柔らかいものが撫でた。

「……ッ、なんだ八黒か」

 とっさに叫び声を飲み込んだ私の足元には、どこから現れたのか八黒がちょこんと座っていた。

「珍しいじゃないか。謝霊兄と七白はどうしたんだい?」

 私はしゃがみ込んで八黒のあごを撫でてやった。すると八黒は低い声でミャオと鳴き、私を先導するように通りを歩き始めた。

 好奇心に駆られてついて行くと、着いた先は謝霊の探偵事務所だった。八黒がカリカリと扉を掻いていると急に錠前が外される音がし、中から腰まで届く黒髪を振り乱した人物がぬっと姿を現した。

「……謝霊兄?」

 一瞬ぎょっとして後ずさったものの、よくよく見ればその人物は謝霊だった。眼鏡こそかけているが、いつも一本の三つ編みにされている髪が全て下ろされ、それどころか前髪が顔にかかって影を作っているのだ。着ているものも部屋着のようなゆったりした長袍で、足には何も履いていない。その上頭の上から足の先までなぜか謝霊はずぶ濡れで、白酒の匂いをぷんぷん漂わせているときた。

 八黒がするりと中に入った直後、謝霊は無言で私の手首を引っ掴んだ。

「ちょっと、何するんですか! 謝霊兄!」

 大声で呼びかけても謝霊は振り向くことすらせず、私を引っ張って階段をぐんぐん上っていく。私はつまずかないようついて行くので精一杯だった――謝霊は二階の事務所の扉を乱暴に開け放つと、長椅子に伸びている七白をぽいと放り捨てて自分がそこに突っ伏してしまった。

 案の定、長椅子の横には酒の壺が鎮座しており、そこらじゅうに匂いをばら撒いていた。私はぐったりと動かない謝霊の肩を軽く掴んでゆすってみた。

「謝霊兄? 一体どうしたんですか?」

 そっと呼びかけると、謝霊がようやく反応を見せた。とはいってもこの世のものとは思えないほど長く、酒臭い嘆息が飛び出しただけだったが。

「謝霊兄? 大丈夫ですか? 謝り――」

 肩をゆすりながら呼び続けると、謝霊はごろりと寝返りを打ってもう一度ため息をついた。

「七白を使って三笑楼の艾琳の持ち部屋に忍び込んだんです。小妃の病について何か手がかりがあるかもしれないと思って」

「そうでしたか。でも、それがどうしてこんな結果に終わるんです?」

 私が尋ねると、謝霊は前髪をかき上げてようやく私をまともに見、しゃっくりを一度した。

「部屋の主に見つかりました」

「艾琳に?」

 私がおうむ返しに尋ねると謝霊はこくりと頷いた。その手が長椅子の脇の酒壺に伸びたが、そこで私はこの壺ひとつしか酒がないことに気が付いた。

「始めのうちはうちは順調だったんですが、彼女が帰ってきたところで見つかってしまって。七白を見られただけでもまずいのに、中の魂が私のものだと知られてしまったんです。それで散々に弄ばれてこの体たらくですよ」

「ちょっと待ってください。一介の妓女がどうして謝霊兄の術を見破れるんです?」

 私は慌てて謝霊に尋ねた。謝霊はむくりと起き上がって酒を一口あおると、「分かりません」と答える。

「分かりませんが、どうも彼女はただの妓女ではなさそうです。陸綿思と比べると明らかにまとっているが違う。限りなく人に近いんですが、何かそれ以外のものの空気感も持っているんです。昨日はそれが気になって仕方がなかった」

 私は昨日の謝霊の様子を思い出し、そういうことかと一人納得した。やはりあの場で謝霊の勘が働いていたのだ。

 しかし、これだけではなぜ謝霊が術を使って七白の体を借りていることが分かったのかの答えにはならない。艾琳は目の前の肉体に宿っている霊魂の種類が分かるとでも言うのだろうか?

 それを謝霊に伝えた途端、謝霊はいきなりがばりと起き上がった。

「もしかすると、自分が霊魂に近い存在だから同種の存在を嗅ぎ取れるのかもしれない。それに小妃の話や状態とすり合わせても彼女が小妃の死を知らないとは考えにくい。陸綿思でさえ小妃の死を知らなかったということは相当上手く隠しおおせたか、あるいは――」

 謝霊はそこで言葉を切り、しゃっくりをこぼしてから続きを口にした。

「あるいは、彼女も何らかの手段で霊魂を操ることができるのか。もしそうだとしたら一体どうやって操っているのか? 小妃の髑髏には誰かが術をかけた痕跡はありませんでしたし、あの霊魂は元からオベールと暮らす以外の執着がないようにも見えました。慧明兄、覚えていますか? 彼女がオベールについて何と語ったか」

「オベールといると満ち足りた生活ができて幸せ、でしたか。でもそれが霊魂を地上に留まらせる要因になるのですか?」

 おぼろげな小妃の姿を思い出しながら私は答えた。謝霊は頷くと、

「こんな話があります。ある男が嫁をもらって一児をもうけたが、その嫁は実は髑髏が化けた鬼だった。また、赤ん坊がいよいよ生まれるというときに死んでしまった母親の魂がこの世にとどまって、墓の中で生まれたばかりの我が子を育てていた。愛情や幸福は時として人を鬼に変えますが、小妃もこの類型だと言えるでしょう。だが彼女にはそこまでの執着心がなかった。この世にもう思い残すことがないから彼女の霊魂はあれほどまでにおぼろげだったのではないですか?」

 と言った。酒のせいでやや呂律が回っていないが、そのよどみなさは健在だ。

「それに小妃のあの言葉――友人にオベールに会っていいと言われた、と小妃は繰り返し言っていましたが、その友人が艾琳なのだとしたら、艾琳は小妃がわずかに残していたオベールとの裕福な暮らしという希望を無理やり掻き立てて髑髏に宿したのではないでしょうか。こう言っては身も蓋もないですが、たったひと月で満たされてしまう程度の希望は人を鬼にならしめるには弱いですし」

「なんにせよ、小妃が一体何の病だったのかが分からないことには先に進みませんね」

 私は頷きつつも、私たちの目の前に立ちはだかっている壁に触れずにはいられなかった。

「半年も臥せっていたのだからけっこうな病ですが、なぜ艾琳はそれを隠そうとするんでしょう」

 私はそう言って謝霊の方を向いたが、返事はなかった――その代わり、今にも瞼がくっつきそうな謝霊が私の肩に寄りかかってきた。

「……真相がどうであれ、あなたはあの女に近付きすぎない方がいい……」

 謝霊は寝言のように呟くと、そのまま目を閉じて眠り込んでしまった。

「……って謝霊兄、起きてください。これでは私が動けないんですが」

 我に返って謝霊の肩を叩いたが、謝霊は起きるどころかずるずると私の腿に倒れ込んでくる。困り果てている私の両脇を八黒と七白がさらに固め、私は完全に身動きを封じられたまま一人ため息をついた。


 それにしても、艾琳に近付きすぎるなとは妙な警告だ。彼女が鬼である可能性を示唆しての言葉なのだとしたらありがたみのある警告だが、もし彼が艾琳に何らかの感情を抱いているのだとしたら――それこそ謝霊が鬼が近くにいると感じると語ったような慕情や敬愛といった感情を抱いているのだとしたら、そこにあるのは一抹の寂しさと苛立たしさだ。少なくとも私は謝伸のように毛嫌いされてはいないし、レスター警部と李舵のように仕事だけの繋がりしかないというわけではない。何を根拠にしてと言われると難しいところだが、私は彼を信頼し、信頼されていると言い切れる。そして何より、長らく忘れていた友情の感覚、他人の好意に応えるという感覚を思い出させてくれるのが謝霊という人間だった。

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