第六話 謝霊と張慧明、逼安と対面すること

 七白は長躯を翻して一直線に四合院へと向かっていった。門の周囲をうろつき、戸を引っ掻いたり匂いを嗅いだりしていた七白は、やがてひらりと塀を飛び越えて姿を消した。

 私たちは四合院をじっと見つめたまま、七白が出てくるのを待った——すると、塀の中からにわかに驚愕の声が聞こえてきた。

「お、おい! 何をして……やめろ! あっちに行け! 何なんだこの猫!」

 若い男の、ひどく気の弱そうな声だった。謝霊はしたり顔で私に目配せすると、路地裏から出て悠々と四合院に向かっていく。私もそのあとを追って小走りに四合院を目指した。

「すみません!」

 謝霊が門を叩いて大声で呼ばわる。ヒッ、と小さく叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、謝霊は構わず中の男を呼び続けた。

「うちの猫が逃げてしまって。どうかその猫を見せてくれませんか!」

 するとそれに答えるように七白の鳴き声がした——一瞬の沈黙を置いて門が開けられ、中から七白が弾丸のように飛び出してくる。謝霊は七白を抱き上げて撫でてやると、門に半分隠れるように立ち尽くしている白衣の男に目を向けた。

 男は苛立たしげに謝霊を睨んでいたが、気の弱そうな困り眉が邪魔をしていくらか気迫を欠いているように見えた。一見范救と同じくらいの背丈に思えるが、その実背中が丸まっており、背筋さえ伸ばせば彼よりも高身長であることが容易に想像できる。范救と同年代に見えるものの顔色が悪くて線も細く、彼は私たちに口を利く前に何度か咳き込んだ。

「まったく、ご自分の猫くらい、ちゃんと面倒を見てくださいよ……聞き分けのない犬みたいに暴れさせて気にならないなんて、一体どういう躾をしてるんですか」

 男の言い方に私はどきりとしたものの、すぐに謝霊が仕組んで猫を放ったことを言っているのではないと思い至った。七白が一体どんなふうにきたのか私が思案している間にも、謝霊は男に「すみません」と謝っている。

「普段は大人しいんですが、昨日の夜突然興奮してそのまま逃げてしまいまして。ご迷惑をおかけしました」

 謝霊がぺこりと頭を下げると、男はため息をついて

「……まあ、いいですよ」

 と答えた。

「僕も迷い猫ごときに言いすぎました。昨晩から家のことが立て込んでいて、そのせいで苛々してしまいました」

 男はまた咳き込むと、踵を返して中に戻ろうとした。

「そうでしたか。何があったかお聞きしても?」

 咄嗟に謝霊が呼び止める。男はためらいがちに振り返ると、

「昨晩工部警察の人が来て、同居人が死んだと言われました」

 と小声で告げた。

「なんと。それはまた、大変な時にご迷惑をおかけしました」

「本当に良いんです。僕たちはいつでも大変でしたから……」

 男はそう言って軽く咳き込むと、すみませんと断ってから一際激しい咳をした。

「大丈夫ですか? 具合が悪いのなら——」

 見かねた私は思わず謝霊の後ろから声をかけた。が、男は手を振って、

「大丈夫です」

 と答えるばかりだ。

「ちょっと風邪が長引いているだけなので」

「そうでしたか。……ときに先生、こうしてお邪魔してしまったことですし、私たちとしてもお詫びをしたいのです。何か手伝えることはありますか?」

 謝霊がすかさず申し出たものの、男は頑なに結構だと言い張って門の中に戻ろうとする。結局、私たちは彼の名前が逼安であることすら確かめられないままに閉め出されてしまった。

「失敗ですか」

 謝霊は残念そうに呟いて七白をひと撫でした——それが術を解く合図だったらしく、その腕の中で七白が鳴き、ふっと姿を消す。

「すみません。私の思いつきのせいで余計な手間をかけさせました」

 私が謝ると、謝霊は良いんですと言って手を振った。

「仕方のないことです。慧明兄が気に病むことはないですよ」

「しかし、どうします? 本人から話を聞けないとなると、また聞き込みを続けますか」

 私は尋ねながら閉められた門をちらりと見た。見れば見るほどこの四合院の門は古く、漆喰や塗装が何箇所も剥がれて落ちている。二人の暮らしぶりはどのようなものだったのか、私が思いを馳せている横で、謝霊はご機嫌に口の端を持ち上げて私をじっと見つめていた。

「……何です? 謝霊兄」

 訝しんで尋ねると、謝霊は愉しげに笑って言った。

「別に何も。ただ助手が乗り気だと、こちらとしても嬉しいのでね」



 そういうわけで、私は謝霊と手分けして虹口を歩き回り、范救と逼安についての情報を集めることに午前中を費やした。一日で虹口中の漢人に話しかけたのではないかというほど、私は手当たり次第に道行く人を捕まえては二人について知っていることはないかと問いかけた。朝も遅い時間になると、新聞に范救の訃報が載っているという噂がどこからか流れてきた——しかもその訃報によれば、彼が宝石店に盗みに入った疑惑をも持たれているという。さかのぼると出所は比較的裕福な日本人の家で働く漢人の家政婦で、父親が読んでいる新聞をこっそり覗き見ていた子どもが彼女にそのことを教え、それが虹口の漢人に伝播したというのがいきさつだった。天秤棒を背負って街角を歩いていた范救と逼安の姿は、どうやら虹口全体に認知されるほど日々の風景に溶け込んでいたらしい。


 イギリス租界に帰ってくると、謝霊は街角の新聞売りから一部を買ってから事務所に帰った。二階への階段を上がって事務所に入ると、謝霊は長椅子でくつろいでいた八黒を追い払って自分がどっかと座り込んだ。

「件の新聞は日本語で書かれていると思われますが、生憎私は日本語まではできないのでね。ですがここ上海で起きたことですし、似たような記事はあるでしょう」

 謝霊は独り言のように呟きながらせわしなく紙をめくり、紙面に目を走らせている。

 目当ての記事が見つかったのは真ん中の頁の一番下段だった。それも他のものに紛れてしまいそうなほど小さな記事だ。

 全部で十行あるかないかというほどの記事には簡潔にこう書かれていた――呉湘江にて水死体上がる。被害者の名前は范救、虹口在住の漢人。盗品と思しき貴金属を多数所持、どれも先週クルグロフ宝石店に泥棒が入った事件にて届出がされているもの。警察はこの事件と被害者に関連があるとみて捜査を進めている。

「……やはりクルグロフ宝石店でしたか。最近の目立った窃盗事件というとあそこしかないですからね」

 謝霊は数回記事を読み返すと、新聞を私に押し付けて自分は袖の中をまさぐり始めた。

「事件が起きたのは夜中、店主のアレクセイ・クルグロフとその妻子は二階の居室で寝ていたところ、硝子が割れる音で目が覚めた。しかし犯人は店の中までは入らずに、表に飾ってある装飾品を盗んだだけで逃走した――そのためクルグロフ氏が蝋燭を持って店に降りたときには、犯人はとうに逃げおおせた後だった。たしか、単独犯かそうでないのかすら未だに分かっていなかったかと」

 独り言のように謝霊が振り返る――クルグロフ宝石店は革命を逃れて上海にやって来たロシア人の宝石職人、アレクセイ・クルグロフが営む小さな宝石店だ。フランス租界の端の方、イギリス租界との境界付近にあるこの店に泥棒が入った話は、その地味さゆえにあまり注目されているとは言い難い一件だった。その翌日ぐらいまでは新聞に記事が出ていたが、三日も経つころには誰の話題にも上がってこなくなった上、犯人が硝子を割っただけということもあって調査も難航しているのが現状だった。それが范救がクルグロフ宝石店からの盗品を持っていたことで進展したらしい。

 謝霊は煙管を取り出して火を入れると、ため息とともに大量の煙を吐き出した。私は煙を手で払いながら次はどうするのかと尋ねた。もう一度逼安を訪ねるのか、それともアレクセイ・クルグロフに話を聞きに行くのか——。

 果たして謝霊は私に向かってにやりと口角を上げると、煙管を机に置いてずいと顔を寄せてきた。

「そのことなのですがね。実はクルグロフの方を慧明兄にお願いしようと思っているのですが、如何でしょう?」

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